第8話 未来を視る兄妹④

 次に伊都が江藤兄妹に会ったのは、翌日の日曜日だった。

「母が……すみません」

 湊はデパートで買ってきたらしい菓子折を持って、渚と一緒に真淵探偵事務所に訪れた。

 ヘアピンで前髪を留めた伊都の額にガーゼがちらりと見えているのを気にしたのか、湊はますます恐縮して、うなだれた。渚は昨日の一件で泣き腫らしたらしく、まだ目元が赤い。

「どうぞ、座って」

 光留に促されて、江藤兄妹は昨日と同じように二人で並んでソファに座った。昨日と同じく、麦茶とアイスコーヒーを用意して、伊都と光留も座る。ただし、今日は光留が入り口側に座った。いざという時に庇えないから、とのことだったけれど、正直に言うと過保護だと思う。過保護姉弟。

「お母さんのことは大変だったね」

 光留の言葉に、江藤兄妹は複雑な顔をしてそれぞれうつむいた。

「うちも従業員が怪我してしまったし、このまま見なかったフリもできそうにないんだよね。悪いけど、本当のことを話してくれないかな」

 光留は、ちらりと横目で伊都を見た。伊都はうなずいて、口を開く。

「あの、未来視の『ギフト』を持っているのって、湊くんじゃなくて、渚ちゃんの方なんですよね?」

 湊の肩がピクリと震えた。渚は、不安そうに兄を見つめている。

「何か違和感があったんです、渚ちゃんの話。お兄さんの『ギフト』の話をしているにしては、やけに具体的だったから」

 渚は「お兄ちゃんに悪いことが起こる」と、未来を予見しているような言動を見せていた。そして、湊たちの母親が事務所に殴り込んでくる直前、渚は湊に何か耳打ちをしていた。それは、湊に予知したイメージを伝えていたからではないだろうか。

「でも、これだとわからないこともあるんです。どうして湊くんが、渚ちゃんの『ギフト』を自分のものだと言い出したのかとか……」

「それ、は……」

 湊が顔を上げる。瞳が揺れる。何かを言いかけて、迷って、口をつぐんで。それを何度か繰り返して、彼はようやく言葉を紡いだ。

「父さんが死ぬ予知をした時、渚が俺に相談したから。渚が見たのは父さんが倒れているイメージだけだったけど、俺は父さんに何かがあると思って、母さんに言った。その後、父さんが死んで、母さんは俺が未来視の力を持ってると勘違いした。伝えたのは、俺だったから……」

「それじゃあ、お母さんの勘違いを訂正しないまま、渚ちゃんの未来予知を、自分のものとして伝え続けたってことになるのかな」

 光留の問いに、湊は頷いた。

「渚は悪くない。全部俺が自分からやったんだ」

「うーん、渚ちゃんは自分の『ギフト』がお母さんに間違って伝わっているとわかっていて、湊くんに協力していたわけだよね?」

 今度は渚がびくりとする。

 湊はちらりと渚を横目で見て、そして少しだけ目を伏せた。

「渚が見た未来視のイメージだけじゃ、実際に何が起こるのかよくわからないことが多かった。だから、未来を予知するのが渚の担当で、俺はそれを元に実際に何が起こるのか推測するのが担当」

 渚が未来を視て、湊が何を予知しているのか解釈する──江藤兄妹は二人でひとつの『ギフト』だったのだ。そう考えれば、『ギフト』登録を渋ったのも納得がいく。渚の持つ力だけでは予知能力として不完全で、湊だけでは予知すらできない。だから、お互いが必要だった。

「それなら、最初から二人でやっている予知なんだって、お母さんに話せばよかったんじゃないんですか?」

 伊都の持った疑問は、まっとうなものだと思う。湊が渚の『ギフト』について正直に話していれば、渚が湊の詐称を許容しないで自分の力について正直に話していれば、ここまでややこしいことにはならなかったのではないだろうか。

 湊はしばらく、伊都の質問にどう答えるか迷っていたようだった。

「それは……俺が今まで、母に愛されていない子供だったからです」

「え……?」

 伊都は驚いて、湊を見つめる。彼の母親は、むしろ渚より湊を溺愛しているように見えたのだが。

「うちは再婚で、俺は父の連れ子でした。実母は別にいて、母とは血の繋がりがないんです。別に、虐待とかされていたわけじゃないですよ。でも、渚の方が明らかに可愛がられていた。俺は心のどこかでずっと、母に認められたかったんです。家族として」

 伊都は言葉を失った。それは、伊都にも覚えがある感情だったからだ。母がいなくなって叔母に引き取られて、六年間じっと息を潜めるように、叔母の家で暮らしてきた。急に引き取ることになった子供に、叔母はあまりいい顔をしなかった。それでも、伊都は『家族』の輪からはみ出さないように努力した。『ギフト』のことをひた隠しにしながら。

「俺に『ギフト』があれば、母から特別に愛されると思った。だから渚を利用しました。悪いのは全部俺です。俺が自分で、家族を壊しました。渚を騙して、『ギフト』を自分のものにした」

 湊は、自嘲気味に笑った。

 伊都は違う、と思った。湊は自分が全部悪いと言うが、彼からは少しもヤミイトが出ていない。渚を害する気持ちが少しでもあったなら、湊はヤミイトを渚に向けていただろう。あるいは、責任の所在を母親に押し付けていたかもしれない。

 そのどちらにもならなかった。隠していた秘密を暴かれている今でさえ、彼は伊都や光留にも悪意を向けていない。

「あの、僕は思うんですけど……」

 そう、前置きをして、伊都はじっと湊を見つめる。彼の表情には、後悔がにじんでいる。

「湊くん、もしかして、渚ちゃんを守るために、身代わりになったんじゃないですか?」

 江藤兄妹の母親が、決定的におかしくなったのは、湊がテレビに出演してからだった。しかし、おかしくなったきっかけは、一年前の父の死だったという。テレビ出演を決めたのも、母親だった。母親の同僚が『ギフト』自慢をしてきたことに関しては、湊は少しも関係ない。おかしくなる予兆は、以前からあったのだ。湊が血縁ではなかったことが、かえって母親を狂わせたのかもしれない。『ギフト』を持つ、と思っていた湊との関係は、湊が実母の元に行くことを選んだら失われるものだったから。

 湊が母の目を自分に引きつけることで、おかしくなっていく母から渚を守っていたのではないのだろうか。

「俺は……渚の『ギフト』を利用した。どんな理由があっても、それだけは事実だから」

 湊は力なくそう言って、再びうなだれた。

 その隣で、渚は目にいっぱい涙をためていた。

「ダメ……ダメだよ、お兄ちゃん」

 渚は、湊の腕にしがみついて、ギュッと目をつむった。溢れた涙がポロポロとこぼれ落ちる。

「そのまま行っちゃダメ。このままじゃ、お兄ちゃんが遠くに行っちゃう。それはダメ。わたしはお母さんよりも、お兄ちゃんと一緒にいたい」

 それは──渚が『ギフト』で見た予知だったのだろうか。湊が顔をあげて、渚を見る。渚は、湊の腕を涙で濡らしながら、止まらない嗚咽を漏らしている。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん……、わたし、やだよぉ。こんな未来変えてよ。ねぇ、お兄ちゃん……!」

 渚の拳が弱々しく湊の肩を叩く。湊はじっと、何かに耐え忍ぶような顔をしていたが、ついに何かが決壊したように泣き始めた。

 しばらくの間、事務所には兄妹の泣き声が響きわたっていた。

 ──どうすれば、二人とも幸せになれるのだろう。

 伊都は考えた。答えは、出なかった。

 光留も何も言わなかった。

 一口も飲まれない麦茶の中で溶けていく氷が、グラスの中でカラリと鳴った。



 そこからさらに数日後、橋本が真淵探偵事務所に やってきた。今日は非番らしい。白いポロシャツにジーンズのカジュアルな格好だ。

 江藤兄妹の母親は錯乱がはげしく、責任能力を問われているところだという。兄妹は、しばらく親戚の家に預けられるということだ。

 湊が高校二年、渚が小学六年。母親がすぐに戻らなかった場合、二人で一緒に暮らすのは難しいかもしれない。

 テレビ番組を作る側も、番組の視聴者も、出演者のその後の運命にまで責任を持ってはくれない。テレビに出たことがきっかけで、正気から狂気に振り切ってしまった湊と渚の母親は、今後どうなるのだろう。すぐには無理かもしれないが、きちんとあの兄妹の元に帰ってきてくれればと思う。

 本来、『未来』とは曖昧なものなのだ。『ギフト』で断片を観測できても、そこから予測された未来が百パーセント的中するとは言い切れないのではないか。

 母親が乗り込んできた時、湊は確かに「未来が変わった」と言った。恐らく、渚の『ギフト』で母親が事務所に乗り込んでくるところまでは予測できても、まさか光留があっという間に母親を押さえつけてしまうとは思わなかったのだろう。もしかすると、渚が湊に耳打ちしたのは、もっと最悪な未来だったのかもしれない。

 しかし、現実には伊都が少し額を切った程度で済んだ。『ギフト』で観測した未来も、変わる。運命は一定の方向にのみ進むものではない。

 あの二人の運命も、少しでも前向きな方向に変わっていきますように。そう願わずにはいられない。 

「華織から話を聞いたよ。こういうややこしいケースもあるから、本当に『ギフト』はきちんと登録してほしいんだよな。頼むから、後出ししてくるなってずっと思ってるよ、俺は。『ギフト』絡みの事件の捜査は、本当に面倒くさいんだ」

 橋本はソファでアイスコーヒーを飲みながら、げっそりとした顔でぼやいた。

「そうですね……」

 伊都は神妙な顔で頷いてみせた。本心からではないけれど。伊都はまだ『ギフト』を登録していない。今のところ、登録する気はない。

「伊都くん……」

 光留が心なしか据わった目で伊都を見たが、伊都は知らんふりをした。光留は小さくため息をつく。

 伊都の場合、登録したら、恐らく叔母の家に連絡が行く。せっかく住み込みの仕事を見つけたのだ。もうしばらく叔母の家とは距離を置いていたい。光留がどう思っていようと、ここは譲れないところだ。

 橋本は伊都とやりとりを見て、急に疑わしきものを見る眼差しになる。

「まさか円居くんも『ギフト』持ちなのか?」

「どうでしょうね?」

 伊都はとぼけて目を逸らしたのを見て、橋本は渋面になった。

「いざという時に守れないのは困るから、『ギフト』を持ってるなら、ちゃんと登録してくれ。今回の件では君、怪我をしただろう。光留の悪運に巻き込まれたんじゃないのか」

「額を少し切っただけですよ。それに、今回は湊くんたちの問題でした。僕も光留さんも直接は何もしていないです」

「少し切っただけで何針も縫わないんだよ」

 はぁーーー、と壮絶なため息をついて、橋本はアイスコーヒーを飲み干すと立ち上がった。

「今日はもう帰る。くれぐれも問題は起こすなよ、悪運探偵」

「橋本さんがどう思おうと、何かが起こる時は起こりますよ。そういう『ギフト』ですからね、俺のは」

「堂々と言うことか」

 正義は光留をうろんな目で見た後、華織に声をかけた。

「邪魔されないところに行くぞ、華織」

「あら、もう行くの? ゆっくりしていけばいいのに」

 華織がくすりと笑う。いつも大体赤い服を着ている華織だが、今日はアイボリー色の上品なシャツワンピースを着ている。

「お前がいなければ、この事務所には来ない」

「ふふ、ノロケね」

「ノロケじゃない」

 再び渋面になった橋本と腕を組んで、事務所を出て行く。

「……ノロケでしたよね」

「ノロケだったね」

 伊都と光留は顔を見合わせる。お前がいなければ、のくだりは完全にノロケだったと思う。好きな人がいるから、苦手な場所にでも来るということなのだから。

 橋本はずいぶんと律儀な性格に見える。伊都がこの事務所にきてから、正義がここに来るのは初めてのことだった。普段は華織と会うにしても、事務所で待ち合わせはしないのだ。江藤兄妹のその後のことを教えてくれるためだけに、事務所に来たのだろう。いい人だ。

「額の傷、本当に大丈夫? 痛くなったりとか、腫れたりとかしてない?」

 光留の興味は、橋本のことから伊都の額の傷に移ったらしい。伊都はソファに座って、軽く息をついた。伊都の傷は順調に回復している。抜糸すればガーゼも必要なくなるだろう。

「大丈夫です。触るとまだ少し痛いですけど、黙っていれば痛くないです」

 光留が座っている伊都に目線を合わせるように屈んだ。至近距離から顔を覗き込まれる。光留の指が伊都の前髪をかきあげる。額のガーゼが露わになった。

 光留は痛ましいものを見るように、伊都を見つめる。

「傷痕が残っちゃうかもしれないな」

 心底申し訳なさそうにそう言うので、伊都は逆に自分が申し訳ないような気持ちになる。投げられたファイルをさっと避けられるくらいの、敏捷性が欲しかった。

「男ですし、そんなに深刻でもないですよ。痕になっても、前髪で隠せますし」

「そういう問題じゃないよ」

 光留がずいっと顔を近づけてきたので、伊都はややのけぞった。光留はたまに距離感がおかしくなる。

「渚ちゃんの依頼は俺と姉さんが受けるって決めたんだよ。今回の事件だって俺の悪運のせいかもしれないし。伊都くんは被害者なんだから、怒ったっていいんだからね」

 ──ああ、そうか。

 伊都はようやく納得がいった。自分の悪運のせいだと思って気に病んでいたのか、と。

 それにしても間近で美形に見つめられると、何だか変な気持ちになるのでやめてほしい。

「大丈夫です。僕は多分、光留さんが思っているよりもたくましいですよ」

 伊都はもう一度、そう言った。光留には『ギフト』のせいで、周囲にいる人間を不幸にさせたなんて、思って欲しくない。

「僕よりも、渚ちゃんと湊くんの心配をしましょう。まぁ、僕らができることなんかもうないのかもしれないですけど……」

「そうだね。最初から、できることなんてほとんどなかった」

 渚の相談は、探偵が手出しできるような内容ではなかった。『ギフト』の問題である以前に、家庭の問題だったからだ。一番いい相談先がどこだったのかと言えば、その答えはすぐには出てこないけれど。

「それでも、相談したことは無駄じゃなかったと思います。誰にも言えないまま、家族が壊れていくのは、悲しいから」

 伊都はふと、母親のことを思い出した。

 母は、伊都が十二歳の夏に、急にいなくなった。失踪したのだ。遺書や書き置きの類は見つからなかった。だから伊都は今でも、母がいなくなった本当の理由を知らない。

 伊都は母方の叔母に引き取られたが、叔母とはそれまで会ったこともなかった。自分に親戚がいたことに驚いたくらいだ。父のことは顔も名前も知らないし、母がいた頃は親戚づきあいもなかったのだ。

 今でも伊都は考える。母が姿を消したのは、自分が母と同じ『ギフト』を持っていたからだろうか、と。

 母はずっと、ヤミイトを見る『ギフト』を隠すように伊都に言い聞かせてきた。伊都は漠然と、その理由を悪意を見る『ギフト』が他人から忌避されるからだろうと思ってきた。

 渚と湊の事件を見て、もしかすると母は『ギフト』のせいで人生を破綻させた人を見たことがあったのかもしれない、と思った。

「光留さん」

「うん?」

 まだ近いところで屈んでいた光留は、小首を傾げながら向かい側のソファに座った。向かい合って二人。

「僕、探偵でやりたいことがあって」

「どんな?」

「母を探したいんです。僕が小学六年生の頃に失踪しました。事件に巻き込まれたのか、自分の意思で姿を消したのかもわからない」

 できることがない、なんて言わないでほしい。誰かのために何かしたいと思うことを、諦めないでほしい。

 少なくとも、伊都は光留に救われた。この『ギフト』を他人のために使えるかもしれないと思えたのは、光留と出会ったからだ。

「うん。いいよ。一緒に探そう、伊都くんのお母さん」

 光留は微笑んで、伊都の手を取った。

 この時の手のひらの温かさを、伊都はずっと忘れないと思う。



 白羽彼方は、池袋のとあるマンションの一室にいた。壁紙も天井も家具も白を基調とした、白で埋め尽くされた部屋。

 彼方は白が好きだ。無彩色が好きだ。何の色も要らない。世界には白と黒以外必要ないように思える。

 ノックの音がして、少年が姿を現した。白いシャツとチノパンを履いている。

 ボランティアサークルとしての『フェザー』は服装や髪色を気にしないが、こうして近くに置いている人間には、なるべく白い服を着せている。その方が気分がいいからだ。

「お茶をお持ちしました」

 少年は白いカップに用意した紅茶を、テレビをみる彼方の前のテーブルに置く。放映されているのは、『ギフト』を持つ一般人を紹介する番組。

「そういえば彼方さん、例のテレビに出ていた未来視の子は、仲間にしないんですか?」

 彼方は不思議そうな顔をして、少年を見る。

「うちにはいらないよ。あの子は偽物だってわかったからね。『フェザー』に入りたいというなら止めはしないけれど」

 一口紅茶を口に含み、「うん、美味しいね」と頷いた。

「どうせなら『本物』が欲しいね。あの探偵のところにいる子、うちに欲しいなぁ」

 眩しいほどの白で埋め尽くされている部屋で、唯一そこだけ黒い箇所がある。そこには、隠し撮りしたある青年の写真が十枚ほど貼られていた。前髪が長くて痩せていて、顔立ちにはまだ少年の面影がある。

「円居伊都くんね。興味あるなぁ」

 彼方は微笑んだ。見る者を不安にさせるような、美しいのに虚無を感じさせる笑みだった。

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