第7話 未来を視る兄妹③
翌週、土曜日の午前十一時。今回も渚は時間ぴったりに来た。違っているのは、彼女の後ろに兄の湊がついてきていることだけだ。
湊のことはテレビで一度見ている。堂々として笑っていたテレビの中とは違い、どこか緊張した面持ちには、年相応のあどけなさがある。渚が歳の割に大人びているので、何となく真逆の印象がある。
「どうも、江藤湊です。妹がお世話になりました」
湊は固い表情で頭を垂れた。渚は兄と一緒で嬉しいのか、ニコニコと笑っていた。渚は湊のことが大好きなんだな、と態度から伝わってくる。
「いらっしゃい。二人とも麦茶でいいかな」
今日も光留と伊都で出迎えた。ちなみに華織は奥のデスクで作業している。この事務所では基本客対応は光留の役目らしい。
事務所のソファは二人がけが二つ。伊都と光留が奥側に座って、渚と湊が入り口側に座る。
「今日は来てくれてありがとう。君が渚ちゃんのお兄さんだね」
二人分の麦茶と、二人分のアイスコーヒー。カラリと氷の音が鳴る。光留が差し出した名刺を見て、湊は再び深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
湊はまだ固い表情だ。そして、おずおずといった様子で続けた。
「あの、まさか、渚がうちのことを、探偵に相談しているとは思わなくて」
「ああ、そうだよね。普通に考えたら『ギフト』のことで探偵に相談すると考えないよね。大丈夫、ここはちょっと『ギフト』に詳しい探偵なんだ」
光留が微笑む。ちょっと詳しいどころか、三人いるうちの二人が『ギフト』持ちという、特異な探偵事務所なわけだが。
「湊くんは『未来視のギフト』を持っているんだったよね。テレビに出てから、家の中が大変なことになっているって聞いたんだけど、大丈夫かな?」
「渚、そんなことまで話したんですか?」
湊は驚いた顔をする。無理もないだろう。知らない内に、家庭内のプライバシーを晒されてしまったわけだから。
「だって、お母さんおかしくなったじゃん」
渚が膨れっ面をする。兄の前では年相応の顔も見せるらしい。
「そうだけど、うちの問題だからさ……知らない人に話すようなことじゃないだろ」
湊は渚よりも慎重な性格らしい。やはり、テレビの中で堂々と笑っていた湊とは、だいぶ様子が違う。それが妹の前だからなのか、家庭の事情によるものなのかは、わからないけれど。
それよりも、伊都は湊の持つ『ギフト』の詳細が気になっていた。未来を視るのは、どういうものなのだろう。伊都が考えていることを、それとなく察したのだろうか。光留は渚と湊を数秒じっと見つめた後、口を開いた。
「俺は『ギフト』を持っているから、きっと湊くんの相談に乗れると思うよ」
「え、『ギフト』持ちなんですか?」
湊が顔を上げる。初めてまっすぐに光留を見た。
伊都も光留を見た。渚の時は明かさなかったのに、今日は明かすのか。
「うん。俺の『ギフト』はね、めちゃくちゃ悪運が強いっていう、ちょっと微妙な能力なんだよね。とにかくやたらと事件に巻き込まれまくるけど、絶対に死ぬようなことは起こらないっていう」
光留の『ギフト』の話を聞いて、湊はきょとんとした。気持ちはわかる。伊都の『ギフト』もそうだが、メジャーなのは『何かが視える、聞こえる』といった能力だ。悪運などという不確かなものが能力になるなんて、考えたこともない人が大半だろう。
「えー、そんな『ギフト』もあるんだ!」
渚は好奇心に満ちた表情で、少し身を乗り出した。湊が「ちょっと落ち着けって」と彼女をソファに座り直させる。
「まぁ、そんな反応になるのも当然だよね。でもきちんと登録済みの『ギフト』だよ。湊くんは、未来視の能力、登録する気はないの? 嫌がる人も結構いるけど、何か事件に巻き込まれた時、警察が能力知った上で保護してくれたりとか、利点もそれなりにあるよ」
光留は、湊に『ギフト』の登録をさせたいのだろうか。隣で話を聞きながら、伊都は考えた。確かに、家庭の事情がのっぴきならなくなった時、『ギフト』の登録は江藤兄妹を救うきっかけにはなるかもしれない。もちろん、そんな事態にならないのが一番なのだが。
「まず、君の持つ未来視の能力がどんなものなのか、俺たちに教えてくれないかな。テレビも見ていたけど、結構端折られていたしね」
湊は渚を見る。渚も湊を見返す。お互いに何かが通じ合ったらしく、二人で神妙な顔をしてうなずく。
少し背筋を伸ばして、湊はまっすぐに光留を見た。
「未来視の能力は……急に目の前に未来のイメージが視えるんです。大体一週間以内に起こることが出てくる。はっきりこれとわかることもあれば、全然意味がわからないこともあります。テレビの時は具体的なイメージが出てきて、助かりました」
湊の話を信じる限りでは、テレビの演出のためにやらせをしたという話ではなさそうだ。
しかし、伊都は何となく納得がいかない気持ちになっていた。渚の話を聞いた時と同じ、どこか釈然としない感覚。
家のことを探偵に相談されたことにはあれだけ戸惑っていたのに、『ギフト』のことは台本に書かれていたかのようにすらすら述べていく。ささいなことだが、何となく引っかかりを覚えた。光留はどう思っているのだろう。
「湊くんが自分の『ギフト』に気づいたのはいつくらい?」
「一年と少し前です。その……父が急病で亡くなるのを、予知してしまって……」
家族の死はデリケートな問題だ。光留はすぐに「ごめんね」と謝った。湊はすぐに「いえ」と首を横に振る。
「父が倒れているところのイメージを視たんです。それを母に言ってもとりあってもらえなくて。でもその数日後、本当に父が倒れて
ぼそぼそと、どこか頼りなげな弱々しい声で、湊は語る。
「思えばその時から、ちょっと母はおかしくなっていたんです。もしかしたら『ギフト』なんじゃないかって、薄々思っていたみたいで。あの『ギフト』を出演させるテレビ番組にも、母が自薦して俺のことを送っちゃって。採用された時は、正直どうしようって思いました」
あとの流れは、大体渚から聞いたことと同じだった。母が職場の同僚に対抗意識を燃やして、湊の『ギフト』を
「家に来る人たち、俺の『未来視のギフト』をより良い世界のために使いたいとか、妙に壮大な話をしていて正直怖いんです。でも、母は信用してる。俺が疑うようなことを言ったら、一度派手にキレられました。何か宗教みたいなんです。とにかく俺を特別な子にしたがってるというか。俺の未来視の能力を世の中のために使うべきだって、迫ってくるんです」
家に来る大人は本当に知らない人らしい。湊たちの母が言うには、『ギフト』を持つ家族同士のコミュニティがあるらしく、そこから来た人のようだ。どうやら、例の『ギフト』自慢の激しい同僚を通して、コミュニティの存在を知ったらしい。
同僚本人はそのコミュニティには属していないようで、伊都はやっぱり湊たちの母親の同僚の話は眉唾で、本当は『ギフト』持ちの子供なんていないのではないかと思った。軽い気持ちで嘘をついて、引っ込みがつかなくなっただけなのではと。そうだとしたら、息子が本物の『ギフト』を持ったばかりに母親が怪しい団体と関わりを持ってしまったのは、不幸としか言いようがない。悪い方向に、がっちりと歯車が噛み合ってしまっている。
「うーん、これは近くにいる大人に説得してもらう線は難しいかなぁ」
光留は難しい顔をして、ため息をつく。母親本人に迷いがあれば説得のしようもあっただろう。しかし、今回のケースでは、全てが母親の『ギフト』信仰を補強するように事態が進んでいる。子供なら今後の教育や啓蒙で何とか軌道修正ができたかもしれないが、相手は分別がついているはずのいい大人である。
どうすれば、丸く収まる方向性にいくのだろうか。伊都は悶々と考えていた。答えは出ない。自分は光留に会うまで、一緒に暮らしていた叔母や従兄弟にも『ギフト』を隠していた。そもそも、知られたらどうするかという発想すらなかったのだ。叔母は『ギフト』に興味がなさそうだったが、知られていたら、あるいは湊の家と同じような経緯をたどった可能性も否定できない。湊の『ギフト』の力が承認欲求のはけ口にされ、渚が思い詰めて探偵事務所に相談しに来るような、そんな事態に。
その時、伊都はふと、先週渚が言ったことを思い出した。
「あの……ちょっと気になったことがあって。先週、渚ちゃんが相談してきた時に、渚ちゃんは『このままじゃお兄ちゃんが大変なことになる』って言いましたけど、それは未来視の『ギフト』で見えたものなんですか? だとしたら、一週間後の今日くらいで何か起こるかもしれないってことになりますけど。それとも、もう何か起こってますか?」
伊都の話を聞いて、湊の顔色が変わった。彼は隣にいる渚に目をやる。渚は「あ」と小さく声をあげて湊を見返した。そして、湊に何やら耳打ちする。それを聞いて、湊はみるみるうちに青ざめた。
湊はバッと立ち上がった。焦ったように、一度事務所内をぐるりと見回すと、ソファに置いていたショルダーバッグをひっつかむ。
「俺、やっぱり帰ります! ここにいると、真淵さんに迷惑かけてしまうので!」
渚もこれには驚いたようだ。「お兄ちゃん!」と呼びかける。湊は渚に応えることなく、事務所の出入り口に向かう。
そして、ドアを開ける。──そこには。
伊都は思わず「ひっ」と悲鳴を上げた。
ドアの向こうに、四十歳を半ばにすぎた女がいた。髪は乱れて、化粧も崩れている。半袖の黒いワンピースが、汗で身体に貼り付いている。
「湊、どうしてこんなところに来たの!? 私に何も言わずに! 渚なの!? 渚がこんな場所に連れてきたの!?」
湊の肩を掴んで髪を振り乱して叫ぶ姿には、鬼気迫るものがあった。
「母さん、落ち着いて!」
湊が両手を広げて遮ったが、彼女は止まらなかった。湊を押し除けて探偵事務所の中に入っていく。
「この子の『ギフト』を狙ってるの!? 渡さないわ!」
「お母さん、どうしてここに……」
「後をつけたのよ!」
湊の言葉に、彼女──湊の母親は、鬼気迫る表情でそう言った。つまり、兄妹がこの事務所に来たのを見届けた後、ずっと湊が出てくるのを事務所のドアの前で待っていたということだろうか。
伊都はゾッとした。寒気がする。
「湊に何をしたの!」
叫ぶ湊の母親の口から、どろりとヤミイトが吐き出される。悪意。敵意。
湊の母親は事務所の棚に置かれていたバインダーファイルを掴むと、伊都や光留にではなく、何故か渚に向かって投げつけ始めた。
「ちょ、待って! どうして!?」
入り口側に座っていた伊都は、とっさに渚の前に身を乗り出した。いくつかは渚まで届くことなく手前で落ちたが、ファイルの一つが庇おうとした伊都の額に当たる。
「あいたっ!!」
「伊都くん!」
額を抑えて沈没した伊都の身体を、光留は器用に飛び越えた。光留が前に出ると、急にヤミイトの向きが光留に向かう。
湊の母は、投げるものを探して視線を彷徨わせているところだった。光留がさっと跳ぶように動いて、手首をつかんで床に組み伏せる。
「あんまり女性にこういうことしたくないんだけどね」
「ちょっと、離しなさいよ! 湊に! 何をしたの!?」
「何もしてないですよ。とにかく、ここで暴れるのはよしてください」
所詮は非力な女性だ。光留が取り押さえたら、彼女には跳ね除けることなどできない。
「伊都くん、大丈夫?」
光留が首をひねってこちらを見る。
「大丈夫……、じゃないです」
痛い。額が脈打つようにジンジンと痛む。額に手で触れると、ぬるりとした感触がした。血が出ている。
「あ、ああ……」
渚が蒼白な顔をして、伊都を、そして湊を見た。湊は呆然とした様子で、事務所の入り口に立ち尽くしている。
「……未来が、変わった」
湊はそう、ぽつりと呟いた。
「やだぁ、こんなことになるなんて、知らない……!」
渚がそう言って泣き出す。伊都は額の傷を手で押さえながら、湊を見た。湊は渚を見ていた。慰めるでもなく、ただ立ち尽くしていた。
──もしかして。
伊都は、この兄妹の話した内容で、どこか釈然としていなかった部分が、カチリと綺麗にハマった気がする。
「湊くん、渚ちゃん……君たちは……」
「伊都くん、傷を見せて」
いつの間にか、奥にいたはずの華織が伊都のすぐ隣に立っていた。伊都の前髪をかき上げて、ハンカチで流れた血を拭う。あっという間に高価そうなハンカチが赤く染まった。
「結構、派手に切れてるわね。病院に行きましょう」
「え、でも……」
光留はまだ湊の母を押さえているし、湊は茫然自失、渚は大泣きしている。事態が何も収集ついていない。
「
「正義って……あ、橋本さん?」
「そう。これは傷害事件よ」
そうか、そうなるのか。自分が怪我をしたのに、伊都はどこか他人事のように、その事実を受け止めた。
伊都はよろよろと立ち上がる。最悪の気分だった。親が傷害事件を起こした湊と渚は、今後どうなるのだろう。
「行きましょう、伊都くん」
華織に背中を押されて、伊都は出口のドアへと向かう。怨念のような湊の母の叫び声と、床をぐるぐると這っているヤミイトから逃れるように、華織が伊都を外に連れ出した。
◆
華織は赤いスポーツカーに伊都を乗せて、大塚にある都立病院に連れて行ってくれた。探偵の車にしては派手すぎると思っていたが、このスポーツカーは華織が個人で乗っている車らしい。
念のためCTを撮られたが脳に問題はなく、入院の必要はないようだ。派手に切れた傷は数針縫う羽目になったのだが。前髪を短くしなくて本当に良かった。前髪がなかったら、ガーゼで押さえられた傷口が悪目立ちするところだった。
「一応、労災ってことになるわ」
「労災……」
真淵探偵事務所が、アルバイトにもきっちりと福利厚生を付ける会社で助かった。ちゃんと労災が降りる。叔母の家を出た時は、保険証を持って来られなかったのだ。下手をすると保険証なしで、三割負担にすらならなかった。
「大丈夫、治療費はこちらで持つわ。伊都くんを同席させたのは私たちだもの」
「それは……正直ありがたいです」
「伊都くんが処置を受けている間に、正義と光留に連絡をしたけど、とりあえず警察に連行されたみたいね、あの母親」
「そうですか……」
結局、そうなったのか。事務所に乗り込んで所員に怪我を負わせたのだから、当然の結果だった。
華織は軽くため息をついて、待合室のベンチに座る。
「あの、ちょっと聞きたいんですけど」
「なに?」
「橋本さんのこと、下の名前で呼んでいますけど、どういう関係なんです?」
地味に気になっていたのだ。妙に距離感が近い。
華織は「なんだそんなこと」と、くすりと笑った。
「恋人よ」
「へっ? 恋人」
「そう。付き合っているの。だから光留のことで色々あっても、私が間に立てば大体解決するわ。正義、私には甘いから」
「え……あ、はい、なるほど」
早苗の事件で会った時には、やたらと光留の『ギフト』に厳しい目を向ける人だな、という印象だった。まさか華織の恋人だとは。それは確かに、光留の『ギフト』に巻き込まれることも多いだろうな、と思う。
「手続きが終わったから、帰りましょう。今日は念のため、うちに泊まるといいわ。使っていない客間があるから。あと、今晩の夕食はデリバリーを頼みましょう。さすがに怪我人に料理をさせられないわ」
「僕は大丈夫ですけど」
「ダメよ。軽傷とは言っても怪我は怪我なんだから。悪化したらどうするの」
心配しすぎではないか。そう思わないでもなかったが、伊都は素直に華織の厚意を受け取ることにした。考えることが多すぎて、のん気に夕飯を作れるような気分じゃなかったからだ。
それに、これから伊都が今回の事件で気づいたことを、光留と華織に聞いてもらいたかった。
未来予知の『ギフト』を持つ兄妹の、本当の話を──。
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