第4話 悪運探偵・真淵事務所④
光留が呼びつけた刑事は、ものの三十分でやってきた。つまり、三十分も光留は男を押さえつけていたわけなのだが、本人は至って平然としている。一応、ケガもしているのに。
犯人が連行された後、三十路くらいの茶髪の刑事が、光留の元にやってきた。隣に立っている伊都と早苗を見て、不可解な顔をする。
「どちらが被害者だ?」
「男の子の方は円居伊都くん。バイト中の助手。被害者は女の子の方。針谷早苗ちゃん。中学生」
光留がそう紹介する。伊都が「どうも」と頭を下げると、刑事は名刺を差し出してきた。最近、よく名刺をもらう。
「捜査一課の刑事、
「あ、はい……ええと、僕はあんまり役にたっていないんですけど……」
やったことといえば、男にしがみついたくらいで。
橋本は、しかめっ面をして、伊都の肩をつかんだ。
「君、こいつの助手は即刻辞めた方がいい。こいつのとんでもない悪運の『ギフト』に巻き込まれたら、命がいくつあっても足りないぞ」
「え、ええ……?」
橋本は今、『ギフト』だと言わなかったか。
光留は頭を抱えて、はぁぁ、と大きくため息をついた。
「ああ、橋本さん、何で言っちゃうかな」
「何で、じゃあない。お前の『ギフト』を知らない一般人を、危険に巻き込むな。頼むから大人しくしてくれ。あと、非番の俺を呼び出すな。せっかくのデートがお前のせいで台無しだ」
橋本は苦々しい顔をして、光留をにらみつけた。
どういうことだろう。光留が持っている『ギフト』とは、一体何のことだろう。記憶をさらっても、それらしき場面はなかったように思う。光留は物理で強いから、危険なことがあっても、大体何とかなってしまったし。
そこまで考えて、先ほど橋本が言った言葉が、脳裏に再生された。『悪運』の『ギフト』。
「え、まさか……悪運が? そんな『ギフト』、聞いたことないですよ?」
ただひたすらに、悪運が強い。そんな『ギフト』が存在するのだろうか。しかし、頭のどこかで納得もした。ヤミイトを異常に集めることも、必然的に悪人に狙われやすくなることも、それを自力で何とかできることも。やたらとトラブルに巻き込まれるのに、不思議と本人は大きなケガなどすることなく、運よく生き延びる。そんな都合よすぎる『悪運』。確かにそれは『ギフト』と言っていいのかもしれない。
思えば早苗に関する一連の事件は、いつも『悪い方向に進む一歩手前』で都合よく進みすぎていたようにも思う。それも『悪運』と言えば、そうなのかもしれない。
「ごめんよ。言ったら怖がらせるかと思って、黙ってた。それに、言葉で説明するのが難しいからね、俺の『ギフト』は」
光留は少しだけ申し訳なさそうな顔をして、でもどこかからりとした様子で言う。
「巻き込んでから言う方がどうかと思うぞ、『悪運探偵』……」
橋本が呆れた顔をしている。伊都はまだ理解が追い付いていない顔で、光留を見る。嘘をついているとは思えない。悪運探偵。なんて探偵に似合わない呼び名だろう。
――俺は悪運が強いからね。多分そろそろ来るんじゃないかと思うんだよ。
ここに来た時、光留は確かにそう言った。それは、悪運の『ギフト』がそろそろ発動する頃だと思った、ということだったのだろう。
「早苗!」
不意に、女性の声が飛び込んできた。
早苗が顔を上げる。
四十路手前くらいの、痩せた女性だった。ダークグリーンのツーピースを着ている。顔の作りが早苗と似ているから、すぐに早苗の母親だとわかった。
「ママ……」
早苗がぽつりと漏らした。家出のことを怒られると思ったのだろうか。ぎゅっとスカートの布地を手で掴んで、目には涙を溜めて。
しかし、いつまでたっても、怒りの声は飛んでこなかった。
その代わり、早苗の母親は、早苗をきつく抱きしめていた。
「良かった……本当に良かった、無事で……! ごめんなさい……早苗が悩んでいることに気づいてあげられなくて、ごめんなさいね……」
泣きながら、早苗の母は何度も早苗に謝った。早苗はしばらく唇を引き結んでいたが、やがて
母子が泣いているのを見ながら、伊都は何となくこの二人はもう大丈夫なような気がしていた。
最悪の結末になってもおかしくなかった。しかし、そうはならなかった。
それでいいじゃないか、と伊都は思う。親の離婚も、親権の行方も、これから早苗がひとつずつ向き合って、少しでもいい落としどころを家族で話し合って決めていくしかない。
母親が迎えに来てくれた早苗のことが、少しだけうらやましいと思ったことは、伊都が心の内側にしまっておくべきことだ。
◆
橋本は、一通り書類が片付いたら帰るとのことだった。非番だと言っていたのに、真面目な人だ。
池袋の時と同じように刑事から状況の聞き取りなどはされたが、橋本は手慣れているようで、伊都たちは思いのほか早く解放された。
光留の頬の傷は、病院で見てもらうほどのものではなかったようだ。今は絆創膏を貼っている。
帰り道、ひとまず池袋の真淵探偵事務所に戻ることになった。
「悪運の『ギフト』ってなんですか?」
おずおずと尋ねてみると、光留は「うん」とすんなり頷いた。
「俺はね、めちゃくちゃ色んなトラブルに巻き込まれるんだ。通り魔にあったり、強盗にあったり、喧嘩や事故に巻き込まれかけたり。でも必ず命に別状ない程度で済む。昔からね。だからね、俺はちょっとやそっとの危険じゃ死なないんだと思ってる」
「それ、万が一悪運の『ギフト』が発動しなかったらどうなるんですか?」
「そういう時も想定して、俺は格闘技とか護身術とか、一通り覚えたんだよ」
なるほど、だからやたらと物理で強いのか。そう思ってから、それは結構悲しい諦めじゃないだろうか、とも思う。
好きで持っている『ギフト』ではないのに、それに人生を左右されてしまう。その辛さを、伊都は知っているつもりだ。
「それよりもさ、伊都くん、俺はずっと気になっていたんだけど」
「……はい?」
光留は爽やかな笑顔で、そう言って。
「伊都くんの『ギフト』もそろそろ教えてよ。君には何が見えてるのか」
「えっ」
息をのんだ。気づかれていた。いや、おそらく光留は最初から気づいていた。伊都が初めに「絡まってる」と言ったあの時から。
霊感だと言ってみたり、話題を変えてみたりしたけれど、光留はずっと伊都の力が『何かが見えるギフト』だと確信していたのだ。
「それは……」
今まで、母親以外の誰にも、この『ギフト』のことは言わずに過ごしてきた。中学から高校までの六年間を過ごした、叔母の家でも言わなかった。
人の悪意を見る能力は、人の無意識をかすめ見る能力でもある。誰にだって悪意や敵意はある。それを完全に消すことはできない。だから、何も言わない方がいい。人は誰もきれいごとだけでは生きていけないから、汚い感情は見なかったことにする方がいい。
――だけど。
この人になら、と思った。
自分と同じく『ギフト』に人生を狂わされてきた、光留になら。
言ってもいいんじゃないか、と思えた。
「僕は……」
自分は、ここにいてもいいんだろうか。光留の隣に立ってもいいだろうか。そう思った。母がいなくなって、どこにも居場所がないような気持ちでいたけれど。会って二日目の人に、まさかこんな風に思うだなんて。
初めてだった。伊都の『ギフト』を知りたいと思ってくれる人に、出会ったのは。
だから、信じたくなった。現実から逃げ続けるのは、もう限界だったから。
「……僕、は」
声が震えた。これで信じてもらえなかったら、どうしよう。
「その……人の悪意が、黒い糸に見えるんです……」
「糸に……?」
「はい、悪意が強い人ほど、たくさんの黒い糸を出してるように見える……。僕はそれを、『ヤミイト』と呼んでいます」
ついに言ってしまった。もう戻れない。
言ってしまってから、怖くなった。そんな『ギフト』だとは思わなかった。心の中をのぞかれているようで気持ちが悪い。そう思われる覚悟をしなければならない。
光留はしばらく黙っていた。黙って、そして、立ち止まった。伊都も立ち止まる。そして、光留が伊都の肩に手を置いて、少し屈んで目線を合わせてきた。胡桃色の瞳。
「大変だったね」
「……信じるんですか?」
「うん。伊都くんが何か俺とは別のものが見えてる、っていうのは気づいていたしね」
そういえば伊都がうっかり「絡まってる」と言った時も、この人はすぐに「何が?」と聞き返したのだ。自分も『ギフト』持ちだから、すぐに想像がついたのだろうか。
「そういえば、伊都くんが言ってた『絡まってる』って、結局ヤミイトのことだったわけだよね」
光留も初めて会った時のことを思い出していたらしい。
「そうです。僕には、光留さんにヤミイトが絡まってるように見えるんです」
「今も?」
「今は大丈夫です。人が少ないので。人が多い場所や、悪意を今まさに抱いてる人が近くにいると、ヤミイトが絡まってくるんですけど」
「そうか……俺の悪運って、悪意を集めやすいってことなのか。伊都くんのおかげで新発見だな」
光留は苦笑いをして、足を止めた。隣で、伊都も足を止める。
「橋本さんはああ言ったけどね。俺はできれば、伊都くんにはこのままうちの事務所で働いてくれないかな、って思ってるんだ。『ギフト』持ち向けだと思うよ、うちの仕事は。もちろん、伊都くんが嫌ならこれっきりでもいいんだけど。危ない目にもあわせたしね」
「え……」
自分の『ギフト』を、他人に明かしてはいけない。それは、一番最初にヤミイトが見えることを自覚した幼少期に、母とした約束だった。伊都は約束を破ってしまった。
母は、この『ギフト』が、伊都が人間関係を構築する上で、足かせになると考えたのだろう。
信用してもらえなくても仕方がないと思っていた。それなのに――光留は自分を受け入れてくれるつもりらしい。
「俺は伊都くんが助手になってくれると、嬉しいな。伊都くんの『ギフト』、うちで活用してみない?」
念を押すようにそう言って、光留は伊都の肩をぽんぽんと叩いた。ニッと笑う。
その笑顔を、信じられないものを見るような気持ちで、見つめる。
「僕で、いいんですか?」
ずっと隠れるようにして生きてきた。髪の毛を半端に伸ばして、視界に混じるヤミイトを、髪の毛の黒でごまかしてきた。でも、本当は隠れる必要などなかったのかもしれない。自分がそうと決めた相手になら、明かしても良かったのかもしれない。
それは、母親の意志など関係なく、伊都が自分で選んでもいい未来だったとしたら。
「俺は伊都くんが来てくれると嬉しいなぁ。だって、君は勇敢だよ。普通はナイフ男に立ち向かおうとか思わないだろ。無謀すぎると困るけれど、伊都くんのその勇気は賞賛に値すると思うなぁ」
「でも、僕あんまり役に立ってませんでした。光留さんは自分で取り押さえてたじゃないですか」
「そりゃ、俺は慣れてるからね」
慣れたくない。慣れないでほしい。心からそう思った。
そして、思い出した。そういえば、あんなにヤミイトを集める人なのに、この人自身からヤミイトが出るのを見たことがないということを。
その事実が、すっと伊都の胸の内に入ってきた。
「……日給、いくらくらい出ますか?」
「日雇いじゃないなら、日給じゃなくて時給かな。時給三千円くらいでどう? 福利厚生は、基本的なところはひと通りつけるよ」
「え、そんなに出すんですか?」
「だって、伊都くんの『ギフト』をアテにするのに、安い時給でこき使うのはナシだろ? あ、住むところはしばらく、事務所の仮眠室で大丈夫ならだけど」
「それは、大丈夫です」
下手なところに就職するよりも、ずっと待遇がいい。住む場所があるのもありがたい。
「それじゃあ、決まりだね」
光留は笑って、再び歩き始めた。伊都も隣をついていく。
やがて事務所があるノース池袋ビルにたどり着いた。赤いスポーツカーは今は不在で、黒のプリウスだけがあるガレージ脇の階段を上って、二階の木製のドアの前にたどり着く。
「真淵探偵事務所にようこそ、伊都くん」
この扉を、開けたことに後悔する日がくるだろうか。
もしかすると、意外と早く来るのかもしれないが、それでも良かった。
自分の『ギフト』を受け入れてくれる人がいる。それだけで、胸がいっぱいだったからだ。
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