第3話 悪運探偵・真淵事務所③
北口近くにある喫茶店の、二階の窓際席を陣取った光留と伊都は、そこから通行人の様子を観察する。コーヒーとケーキを頼んだのだが、仮に早苗が見つかったとして、お会計はどうするのだろう。そんなことを考えていたら、光留が千円札を二枚テーブルに置いた。
「早苗ちゃんが見つかったら、俺が走るから伊都くんはお会計してね。領収書はちゃんと受け取るんだよ」
「……人手があった方がいい理由がわかりました」
確かに、これは一人では厳しい。一人の時は喫茶店に入らないのかもしれないが、往来でずっと立ち止まって通行人を観察するのは怪しすぎる。
やがて二人分のショートケーキとコーヒーが来た。昼にさんざん肉を食べたのに、ケーキまでごちそうになるとは。これっきりかもしれないのでせいぜい味わって食べようと、伊都はありがたくケーキを口に運んだ。ものの数時間で、自分が随分と図太くなった気がする。
ふわふわのスポンジにえ程よい甘さのクリーム。ケーキ美味しい。
一瞬、ケーキの美味しさに本来の目的を忘れかけて、伊都は慌てて窓の外へと目をやった。
道行く人の中で、時折ヤミイトがゆらゆらと生まれては消えていく。
(結構ヤミイトが多いな……)
サンシャイン60方面の池袋東側と違い、北口近くは人の流れが決して多い方ではない。それなのに、道行く人々からヤミイトが出ている確率が東側の人混みよりもずっと多い。
この店に入るまでの間にもヤミイトはところどころで発生していて、例のごとく光留にまとわりついていたのだが、何事もなくこの喫茶店にやってきた。
ヤミイトは悪意や敵意、害意の具現化である。しかし、発生したからといって、絶対に何か悪いことが起きるわけではない。悪い感情があったとしても、全員が犯罪に走るわけではないのと同じ理由だろう。
ましてや光留は背が高くて、しっかりした体格の男性である。悪意のターゲットにされやすい社会的弱者とは、およそ対極に位置している。ヤミイトを集めていても、必ずしも狙われるわけではないのだろう。
窓の外をじっと観察する。今のところ、早苗の姿はない。というか、中学生らしき人影がない。中高生が好みそうな店はこの辺りにないから、当然といえば当然だ。
「早苗ちゃんのご両親は今、離婚調停中らしくてね。親権のことでだいぶ揉めてるみたい。だから家出をしちゃったのかもね」
親との不和は、家出の理由としてはオーソドックスなものだろう。正直に言えば、伊都はかなり早苗に同情している。伊都もほとんど家出したも同然の身だ。シンパシーを感じる。
誰も親は選べない。泥沼の離婚劇は、子供にとっては百害あって一利なしだ。
「あ、あれかな……」
光留が少しだけ身を乗り出した。伊都も窓の外に目をこらす。
数人の中高生くらいの集団が、歩道を歩いていた。その中の一人が、ボブカットの少女のようだ。眼鏡もかけている。
「ちょっと行ってくる。伊都くんはお会計お願いするね」
光留は席を立って、足早に店の外へと飛び出していく。伊都も慌ててテーブルに置かれた二千円をひっつかんで、手早くお会計を済ませた。
「領収書、真淵探偵事務所でお願いします」
「マブチってどう書きます?」
「真実の真に、深淵の淵でマブチです」
領収書を書いてもらう時間が、妙に長く感じる。淵の字を微妙に間違えている領収書を受け取ると、伊都は店を出た。今、光留はどの辺りにいるのだろう。目視で探そうとして、こういう時にLINEを使えばいいのかと思い当たった。
「今、どこですか……と」
返事はほどなくして返ってきた。喫茶店から北に五十メートルほど離れたビルにいるらしい。早苗を捕まえたわけではないようだ。グループで歩いていたから手を出さなかったのか、あくまで居場所だけ知るために尾行したのか。
(尾行とか、なんか探偵っぽいな……)
探偵っぽいもなにも、探偵なのだった。
心なしか早足になりながら、光留がいるビルへと急ぐ。探偵初心者とはいえ、肉とケーキ代程度の仕事はしなければ。
光留はビルの入り口に立って、伊都が来るのをまっていた。
「ここに早苗ちゃんがいるんですか?」
「うん。グループで行動しているっぽいし、どうしようかなって思っていたところ」
ビルはヒョロリとした印象の七階建てで、入り口に『大野ビル』と書かれていた。怪しい店などもない普通の雑居ビルのように見える。エレベーター脇のプレートを見る。入っているテナントは階数の割に少ない。基本、ワンフロアにつき一テナントのようだ。有限会社エール、原田商事東京オフィス、ネイルサロンバタフライ、小野寺歯科、上から順番にプレートを読んでいって、三階の『フェザー』に目が止まった。会社なのか店なのかも不明だ。
「エレベーターが止まったのは三階だった」
光留は『フェザー』の字を指差した。
探偵はこういう時、どうするのが正解なのだろう。伊都がまごついている間に、光留はエレベーターの呼び出しボタンを押し、手まねきした。伊都も行くべきらしい。
四人入ったら満員になりそうな狭い古びたエレベーターで、三階まで向かう。
企業らしいエントランスはなく、すりガラスがはまったドアの脇に『フェザー』というパネルが掲げられている。やはり、何をやっている場所なのかよくわからない。
光留は少しの間、顎に手をやって考え込んだ。伊都はどうすべきかわからずにただ隣に突っ立っていたが、急に光留が激しくドアをノックしはじめた。正面突破すぎる。
「すみません、誰かいませんか!」
そのままドアを叩き続けること、一分程度。本当はもっと短かったのかもしれない。隣で聞いている伊都には酷く長く感じた。
ガラスが割れないか心配になったが、大丈夫だった。案外丈夫らしい。
あまりのうるささに耐えかねたのだろうか。やがてガラス戸の向こう側に人影が現れた。半分だけドアが開いて「うるっせーな」とハスキーな声がした。
真っ赤な色に髪を染めて、耳に五つくらいのピアスをつけた、なかなか強面の少年だった。歳は伊都よりも少し下だろうか。十六か七くらいに見える。
「お騒がせしました。針谷早苗さん、こちらにいらっしゃいますか?」
ド直球。隠さなくて本当に大丈夫なのか、心配になる。少年は「ああん?」とイラついた様子を見せる。
「てめえ、サナエのなんなんだよ」
「早苗さんの親戚です。ちょっと顔を見たくて」
伊都は隣で棒立ちになりながら、この人割と平気で嘘をつくんだな、と少し引いていた。
「帰れ、バーカ」
赤髪の少年の口元から、どろどろと大量のヤミイトが吐き出されている。それが、光留の身体にまとわりついていく。どう考えてもこの少年は敵意のカタマリだし、光留だってそれに気づかないほどのん気ではないだろう。だけどニコニコ笑っている。メンタルが強い。
「なに? 誰なの?」
少年の後ろから、ひょっこり小柄な少女が顔を出した。
写真で見たのよりは少しだけ痩せただろうか。しかし、人相が変わるほどではない。彼女は間違いなく針谷早苗だった。淡いグレーのロゴ入りスウェットに、デニムのミニスカートを履いている。見せてもらった写真の通り、メガネのフレームは赤。
早苗はうさんくさそうな顔をして、光留を見上げている。モヤモヤと、微かなヤミイトが額のあたりから出ているが、赤髪の少年ほど攻撃的ではないようだ。イケメンが相手だからかもしれない。
光留はにっこり笑顔のままで、
「こんにちは、早苗さん」
と、言った。基本的にこの人、正面突破なんだな、と伊都は思った。
「なんなの? あたしになんか用?」
早苗の方は、少し面食らった様子。知らないイケメンが押しかけてきて、顔を見るなりいい笑顔で挨拶されたのだから、そうなるのも道理である。
「早苗さんを探していたんです。無事でよかった」
キラキラさわやか美青年スマイルで、光留はそう言った。だがしかし、早苗の心は動かなかったらしい。プイッと横を向いた。
「どうせママかパパに頼まれて来たんでしょ! あたし、絶対帰らないから!」
「うーん、そうは言っても、せめて義務教育を終えないと独り立ちには早いんじゃないですかね」
キラキラさわやかスマイルのまま、光留の声のトーンがやや下がった。言葉こそ丁寧だが、言っていることは手厳しい。早苗は「え?」と戸惑った顔をした後、急にむすっとして低い声で呟いた。
「ママもパパも、養育費が欲しくてケンカしてるのよ。私がいなくなれば、サクッと離婚できるんじゃない?」
それきり、早苗は奥に引っ込んでしまった。
光留は「あれ?」と首を傾げる。やっぱり、この人はのん気なのかもしれない。多感な思春期の少女を前に、真ん正面から行き過ぎだ。もしかしたら、光留は探偵として結構ポンコツな方なのでは。あらぬ疑いをかけそうになる。
「おい、用事が済んだなら、とっとと出ていけ。殴られてえのか?」
赤髪の少年は、イライラした様子で光留の胸をどついた。が、背が高くて体格もいい光留は微動だにせず、少年は面食らったような顔になった。その人、ナイフを振り回す暴漢も秒で取り押さえられる人だから、あんまり乱暴なことしない方がいいと思うよ。伊都は少年に念を送った。伊都が割って入っても、不良少年に瞬殺される未来しか見えないので、あくまで心の中だけで。
「ところで、『フェザー』って何かな? ここの名前だよね。何かの会社? 団体?」
早苗に逃げられてしまったからか、光留は敬語を使うことを放棄したらしい。急に馴れ馴れしくなった光留に、赤髪の少年が「何だこいつ」という顔をする。何なんでしょうね、と伊都も思う。初対面で探偵業のバイトに誘われて、今ここにいる。場違いだ。今のところ、仕事らしい仕事は、張り込みしていた喫茶店の代金を払って領収書をもらっただけだ。
赤髪の少年から出てくる、ヤミイトの量が減った。どうやら光留のことを、敵意を向けても無駄な人種だと判断したらしい。良い読みだと思う。
「知らねー。カシラはなんかぼろんてあとか言ってた」
「ぼろんてあ……、ああ、ボランティアか」
「それだ、それ。カシラが俺らみてーな、行き場がねーやつ集めて面倒見てくれてんだ」
どうやら『フェザー』はボランティア団体の名前らしい。カシラというのは、恐らくこのボランティア団体のリーダーなのだろう。
赤髪の少年から、ヤミイトが消えた。どうやら、完全に光留への敵意がなくなってしまったらしい。真正面から突撃するのも、ある意味アリなんだな、と思わせた。光留の強みは、そのカラッとした悪気のなさなのかもしれない。そういえば、光留自身からヤミイトが出るのを今の所見ていない。
「カシラはいねーし、サナエは渡さねー。さっさと帰れ」
少しばかり気を許しても、「帰れ」という結論は覆らないようだ。
「君の名前、教えてもらってもいいかな。あ、俺は真淵光留です。光留でいいよ」
そこで名前を明かすのか。少年は少し驚いたようだった。伊都も驚いた。
「オレはヨータ」
短く、そう答えた。姓は言う気がないらしい。
「じゃあ、ヨータくん、また来るね」
光留はキラキラ笑顔で言う。赤髪の少年、ヨータは「来んな」とすげなくあしらって、奥に引っ込んでいった。
ここまでの流れの中で、伊都はずっと添え物のように隣にいただけだ。光留は一人だけで、そのありあまる陽の雰囲気で、おおむねふんわりと片付けてしまった。
「どうするんですか、これから」
結局、早苗を連れ戻すことには失敗したわけだが。まさか今からこの中に押し入って、無理やり早苗を連れだすわけにもいかない。
「うーん、今日は帰るかな。俺が頼まれてるのは、早苗ちゃんを確保することじゃなくて、居場所を探すことなわけだから。とりあえず、ボランティア団体に身を置いているってことがわかったし、宿なしでその辺にたむろしているとかよりはだいぶマシだ。依頼人には、ひとまず見つかったことを報告するよ」
「そうですか……」
宿なしでその辺をたむろする、のくだりで、ほんのりぐさりと来た。日給二万円が手に入ったからといって、ネカフェ難民を続けていたらすぐに軍資金は尽きるだろう。伊都には、どこか住む場所が必要だ。
やっぱり、探偵助手として雇ってもらった方がいいのだろうか。三食住まい付きの仕事が他に都合よく見つかるとは思えない。それとも、寮付きの工場勤務でもしてみるべきか。
伊都が衣食住について懊悩していると、不意にエレベーターが音を立てて止まった。中から出てきた人が、ドアの前に突っ立っている二人組に、不思議そうな眼差しを向ける。
中性的な雰囲気の青年だった。白いシャツと黒いパンツのモノトーンな服装で、手には買い物袋を提げている。耳には赤いピアス。何よりも目を引くのは、白髪だった。顔を見る限り、光留と同年代のような気がする。しかし、髪の色は老人のように白い。灰色が少しも混ざっていない。しかし脱色にしては、根元まで少しも黒が残っていない。天然の白髪に見える。
「うちに何か用事でも?」
青年がけげんな顔をして尋ねてくる。確かに尋ねたくもなるだろう。金髪美青年の光留と、野暮ったい伊都との組み合わせがまず謎だし、ボランティアに興味があるようにも見えないはずだ。
「あ、すみません。階を間違ったみたいで。小野寺歯科に行きたかったんです」
おや、と伊都は思った。ヨータには名前を明かしたのに、この人には明かさないらしい。伊都は不思議に思った。年齢から考えれば、成人男性であるこの人が『カシラ』か、それに近い存在であるように思えたからだ。ヨータよりも、この人に対して身分を明かすべきなのではないだろうか。上手くいけば、早苗の説得ができるかもしれないのだし。
「小野寺歯科なら四階ですよ」
「そうなんですね。ありがとうございます。ほら、行こう。大丈夫、親知らずを抜くのは怖くないよ」
「え、ええ……?」
それではまるで、伊都が歯医者に行きたくなくてごねている人みたいではないか。もう十八歳なのに、歯医者に付き添いが必要な人と思われるのはどうなのか。
伊都の逡巡をよそに、光留はぐいぐいと背中を押してくる。耳元で、小さな声で「ごめんよ」と謝られた。
「お大事に」
白髪の青年は穏やかに笑って、エレベーターに押し込まれる伊都を見送る。
エレベーターのドアが締まる時に、白髪の青年と目が合った。
その、瞬間だった。
「……っ!?」
ヤミイトが。
一瞬、視界を埋め尽くすほどに膨れ上がった。
そのまま、エレベーターが動き出す。エレベーターの小さな窓が、黒く染まった向こう側を視界から追い出して、エレベーターが四階にたどりついた。エレベーターのドアが空いて、光留に背中を押されて伊都はフロアに足を踏み入れた。
この階は特に異常がない。ガラス戸には『小野寺歯科』のロゴマークと、歯をモデルにしたマスコットキャラクター、診療時間が書かれている。
伊都は深く息を吸って、そして吐いた。
恐る恐る、光留の方を振り向く。
「……」
声にならなかった。見間違いではなかった。やはり、あれは確かにヤミイトだった。その証拠に、光留の体にヤミイトがまとわりついている。最初は敵意を露わにしていたヨータを相手にしていた時ですら、そこまで絡みつくことはなかったのに。
「あ、伊都くん、歯医者が怖い人みたいにしちゃったの、怒ってる? ホント、ごめんよ!」
光留は相変わらずのマイペースで、両手を合わせて頭を垂れたが、そんなことはもうどうでもよかった。
「光留さん、あそこはまずいです」
思わず、そう口に出していた。あんな穏やかそうな人だったのに、一瞬で場を埋め尽くすほどの悪意を放っていたのだ。危険だ。
しかし、ヤミイトの説明をせずに危険性を伝える方法がわからない。
光留は少しの間、伊都のことをじっと見ていた。変なことを言う奴だと思われただろうか。
「伊都くんがそう言うだけの何かがあったんだね」
「えっと、その、……直感、みたいなものです。昔から、結構当たるんです。僕の直感」
苦しい説明だな、と自分でも思った。
光留は「うーん」と小さく唸って、首を傾げた。伊都の言ったことを、どこまで信じていいのか測りかねているのだろう。
やがて、光留は意を決したように、伊都の肩を軽く叩いた。
「わかった。信じるよ。でも、今日はもう帰った方がいいかな。またノックしまくったらヨータくんが怒りそうだしね」
確かに、歯科の客を装っておきながら再訪するのは、良い手とは言えない。今のところ、早苗は無事なことがわかっているだけでも、成果はあったのだ。
「あ、でもお試しは一度きりって……」
「うん? 伊都くんが良いなら、明日も付き合ってもらう気だったけれど、都合悪い? もちろん日当ては二万円だけど」
「え、逆に良いんですか、それ」
ほとんど何もしていないのに、日当をもらっても良いのだろうか。あまりに自分に都合が良すぎて、伊都は思わず疑わしげな視線を送ってしまう。光留の方はあまり気にしていない様子で、にっこりと笑った。
「良いよ。今日だって張り込みの時、助かったわけだし。泊まりはうちの事務所でいいよね。三階にベッドとシャワールームがあるから、そこは自由に使っていいよ。バスタオルもあるから使って」
「それは、ありがたいですけど……」
今日で二万円、明日も付き合って二万円。合計四万円。
今の所待遇が良すぎて不安になる。せめて、何かもう少し役に立たないといけない気がする。
もしかすると、そう思わせることが光留の狙いなのかもしれないが。
◆
真淵探偵事務所は、実質上、ノース池袋ビルを占有しているらしい。二階が事務所で、三階がベッドとシャワールームがある仮眠室となっている。四階には他のテナントは入っておらず、倉庫のように使われているようだ。
仮眠室のベッドはいたってシンプルなパイプベッドだった。ただしマットはスプリングが効いたなかなかに良いもので、一カ月半ネカフェの狭いリクライニング式の椅子で寝続けていた伊都は、久しぶりにのびのびと眠ることができた。ベッドがあるだけで、だいぶ人権が回復した気持ちになる。シャワーも浴びられたし、近くにはコインランドリーもあるという。ここで暮らせと言われたら、余裕で暮らせる。
起きたのは午前八時、二階に降りると既に事務所に光留がきていた。
「おはよう、伊都くん」
「光留さん、おはようございます」
「朝食買ってきたよ。一緒に食べよう」
コーヒーメーカーの置かれた給湯スペースには、オーブントースターと電子レンジも置かれている。朝食は近場にあるパン屋で買ってきたという、クロワッサン。オーブンで軽く温めて食べる。バターの香りがするサクフワの生地で、何だか高級そうな味がした。
光留とこの事務所の所長だという光留の姉は、ここから徒歩五分ほどの距離にあるマンションに住んでいるそうだ。池袋のマンションに住めるのは、なかなかにセレブなのではなかろうか。ちなみに、今日も光留の姉はいないらしい。少しだけ会ってみたかった。この弟にしてどんな姉なのか、興味がある。
「早苗ちゃんのお母さんには、昨日のうちにメールしておいたよ。夜のうちに返信がきた。すぐにでも池袋に飛んできそうだったけど、まずは落ち着いてと言っておいた」
「あの、今更なんですけど、早苗ちゃんに探されてること、バレちゃっても大丈夫なんですか? 親御さんが、本当は悪い人だったってパターンもあり得ますよね」
万が一、早苗の親が虐待やらネグレクトをするような親だった場合、早苗の立場は途端に微妙になる。逃げ出すだけの理由があったのかもしれない、と思ってしまうのは、伊都のうがちすぎなのかもしれないが。
「まさかあの場で、本人が出てくると思わなかったからなぁ。ヨータくんが早苗ちゃんの存在を漏らしてくれたから、そこですぐに引けば良かったね」
正面から攻めすぎだと思ってはいたが、想定外だったのか。伊都は複雑な心境とクロワッサンの残りのひとかけを、コーヒーで喉の奥に流し込んだ。
今のところ、光留の探偵としての腕前は、正直あまり良くないような気がしている。どこか行き当たりばったりな感じがするのだ。人手不足だというわりに、忙しくてたまらないという風でもない。まったりマイペースで、探偵としてやっていけるのか心配になる。
しかも金髪長身イケメン。目立つ。尾行に向かなさそう。
でも、これだけ目立つ人なのに早苗の尾行には成功していたから、やっぱりそれなりに探偵として有能なのかもしれない。頭の中でぐるぐると、思考が迷路を駆け巡っていく。
一方、伊都の疑わし気な目線をまるで気にしていない様子で、光留はコーヒーをひと口飲む。そして、伊都の目をまっすぐに見返す。
「俺が対応した限りでは、母親は普通にめちゃくちゃ心配している風だったよ。早苗ちゃんくらいの年頃の子には、過干渉に見えるかも。でも、離婚で揉めているのは本当みたいだし、隠れて子供を虐待っていうケースもあるわけだから、難しいところだね。あからさまな証拠があれば、児相に相談できると思うけど」
「そう、ですか……」
伊都が直接依頼人に会えば、ヤミイトで悪意の判別がつく。が、まさかそのために依頼人に会わせろとは言えない。それに、この手を使うには伊都の『ギフト』を明かす必要がある。まだそこまで光留に心を許しているわけではないので、伊都は黙っておくことにした。
「居場所がわかったから、依頼は終了ってことになるんですか」
「基本的にはそうなるね。継続調査は追加料金でご相談、かな。まぁ、継続するにしろ、普通に考えて、ボランティア団体に殴り込みかけるわけにはいかないさ」
それはそう。フィクションの名探偵なら、ドーンと犯人の根城に押し入って、名推理で解決できるだろう。だが、現実の探偵がそれをやったら、下手をするとこちらが警察に捕まってしまう。
これ以上早苗の問題に深入りする権利はないのだ。気にしているのは大量のヤミイトを見てしまったからで、伊都個人の問題だ。光留には関係ない。
それに、いざ早苗とまた顔を合わせることができたとして、どうすればいいのだろう。「親が心配してますから、帰りましょうね」と言って、素直にすんなり帰ってくれるような子供は、多分家出をしないのだろうと思う。心配されていないと感じているか、心配を重荷と感じているか。大体どちらかのはずだから。
早苗はどちらだろう。
「それじゃ、これからもう一回『フェザー』に行ってみようか」
コーヒーを飲み干してマグカップを置くと、光留はそう言った。
「あ、やっぱり行くんですか?」
まだ追加の調査が決まったわけでもないのに。疑問がそのまま顔に出ていたのだろう。光留は、苦笑しながら続けた。
「アフターサービスってことにしておくよ。それに昨日ヨータくんに、また来るねって言ったのは俺だしね」
確かに、ヨータにそう言っていた。ヨータは嫌そうだったけれど。
ヨータは『フェザー』をボランティア団体だと言っていたが、仮にあの時大量のヤミイトを出していた青年が『カシラ』なのだとすると、割と危険な状況ではないか。
誰にだって多少は心の中に悪意を持っているものだ。しかし、あの白髪の青年のヤミイトは別格だった。子供のころからヤミイトを見続けてきた伊都だが、あんな一面を埋め尽くすようなヤミイトは初めて見た。
そんな人間がいる場所が、まともなボランティア団体だとは思えなかった。
正直に言うと怖い。だけど、中途半端に関わってしまった以上、ここで見て見ぬふりなどしたくない。
居場所がない少年少女の姿は、あるいは自分がたどる道だったのかもしれないから。
◆
真淵探偵事務所から、『フェザー』のある大野ビルまで徒歩六分。
今日は平日なので、街は昨日よりもだいぶ人が少ないようだ。オフィスビルが多い区画なら、もう少し人出があるのかもしれない。
大野ビルにつくと、光留は迷わずエレベーターに乗り、三階のボタンを押した。『フェザー』のドアは、昨日と変わりなくそこにあった。そういえば、ここにはインターホンがない。だからといって、ガラス戸を叩きまくった光留はどうかと思うのだが。今日も叩くのだろうか。隣に目をやると光留は何も気にしてない様子で、今まさにドアをノックしようと手を振り上げたところだった。またやるのか、あれを。
「やめろっつってんだろ!」
光留がノックするよりも早く、ドアが開いた。赤い髪。ヨータだ。
伊都は少しだけホッとした。いきなりあの白髪の人が出てきたら、普通の顔をして対処できる自信がなかった。
「よく来るってわかったね、ヨータくん」
「てめーらみたいな目立つ二人組が他にいるかよ! 窓からうちのビル入ったのは見えてんだ」
「伊都くんのこともちゃんとカウントしてくれてるの、優しさを感じるなぁ」
それは果たして優しさなのだろうか。とはいえ、確かにこのビル内で伊都がしたことと言えば光留の隣で立っていただけなので、空気のように思われていても仕方がない。覚えているヨータは何気にすごい。
「サナエならいねーぞ。今日は新宿だ」
「え? 新宿? どこにいったのかな」
光留の問いに、ヨータは「知らねー」と答えた。
池袋から新宿なら、電車で四駅だ。それほど離れてはいないが、買い物や遊びなら池袋でも大体揃う。少なくとも現在は、池袋に拠点を置く『フェザー』が早苗の居場所になっているようである。あえて新宿まで行くなら何か特別な目的があるのだろうか。
伊都はふと、光留が言っていたことを思い出した。歌舞伎町、映画館横の不良少年少女集団。トー横キッズ。
光留は伊都をちらりと見る。多分、同じことを考えている。
「ありがとう、ヨータくん」
光留がヨータにお礼を言うと、彼は「何だこいつ」みたいな顔をして、奥に引っ込んでいった。部屋の奥から誰かの声が聞こえる。笑い声。ヨータが何やら言い返している風な声。実は早苗はまだそこにいて、ヨータと仲間内でかくまっている、という反応ではなさそうだ。先ほどのヨータからはヤミイトが出てこなかった。少なくとも敵意を持って嘘をついたわけではない。
光留は伊都の肩を叩き、踵を返そうとしたが、その時。
「――もう帰られるんですか?」
ドアが再び開かれた。白い髪。赤いピアス。昨日見た、あの青年。
伊都は思わず硬直した。光留は一瞬、固まっている伊都を見たが、すぐに白髪の青年に視線を移した。
「ええ、俺たちは早苗さんに会いに来ただけですので。ここにいるって聞いたので」
光留が言う。白髪の青年は、今日は今のところヤミイトを見せていない。だけど、油断はできない。昨日だって、ほんの一瞬でフロアを埋め尽くすくらいのヤミイトを出した相手だ。
「ああ、申し遅れました。私はここの代表をしています、
白髪の青年、彼方が光留と伊都に名刺を差し出す。ボランティアサークル『フェザー』代表、白羽彼方。白地に文字だけのシンプルな名刺だった。やはり彼が、ヨータの言う『カシラ』なのだろう。代表が白羽だから『フェザー』なわけだ。わかりやすい。
「どうも。俺は真淵光留。早苗ちゃんの親戚です。たまたま昨日ここに入るのを見かけたので、気になって見に来たんです」
光留は探偵事務所の名刺を出す気がないらしい。ヨータに言った設定を、そのまま彼方にも伝えている。早苗がヨータや彼方に光留が親戚ではないことを伝えているかもしれないと思ったが、彼方は特に疑問に思わなかったようだ。「そうですか」と微笑みながら答えた。
「早苗ちゃんの行き先、心当たりがあるんですか?」
彼方は少し首をかしげながら、そう言った。優し気な表情だが、目は黒く、光がなく、伊都は背筋にぞくりと寒気が走るのを感じた。怖い。
光留は、また伊都の方にちらりと目をやった。何か考えている。
「新宿に行っているとヨータくんから聞きました。行くだけ行ってみようと思います」
「ああ、新宿に行ったんですね。私には行き先を言ってくれなかったので、知りませんでした。ヨータくんは早苗ちゃんと仲良くしてくれて、助かります」
微笑みながら、彼方は答える。光留は少しだけ間をおいて、率直に尋ねた。
「ところで、『フェザー』はどんなことをしているボランティアなんですか。早苗ちゃんは家出してここに来ていたようなんですが」
「ああ、よく聞かれます。主に街の清掃活動とかですね。うちは家に居場所がない子たちが集まってくるんですよ。それぞれ家庭の事情がある子が多いので、無理に帰れとはいいません。もちろん、親御さんが探されている場合は、本人とお話ししますよ。そのまま親元に返すのが百パーセント本人のためではないケースもありますから、難しいですけどね」
彼はあくまで善意の人であるかのように振る舞っている。伊都はまだ、彼のことを疑っている。いつあの大量のヤミイトが出てくるかと思うと、気が気ではない。
光留が「難しいですよね」と相づちを打つ。
彼方が「あ、そうだ」と何やら思い当たったかのような顔をした。
「早苗ちゃんは、新宿に友だちがいるみたいなので、多分その友だちのところに行ったんだと思います。確か名前はユウカちゃんです。いつも歌舞伎町の映画館近くにいるそうですよ」
歌舞伎町の映画館。早苗の家出後、最初の目撃情報があった新宿歌舞伎町の映画館横だろう。
「ありがとうございます。行ってみますね」
光留が笑顔で答える。
「ええ。私も、早苗ちゃんのおうちの問題が、上手く片付けばいいと思っていますよ」
彼方が言う。彼から、じわりとヤミイトが漏れ出て、伊都は息をのんだ。
大抵の人間は、ヤミイトを出す時は口や頭の辺りから出す。悪意は言葉に宿るし、脳が考えていることだからだと思う。しかし、彼方のヤミイトは、背中の後ろからじわじわと広がるように出てくる。広がる黒い糸。笑顔で巧妙に隠された、悪意。
「そういえば、親知らずは無事に抜けましたか?」
「えっ……あ、はい」
急に話を振られて、伊都はしどろもどろになりながら頷いた。そうだった。昨日はその設定だったのだ。それなのに急に早苗の親戚づらをしているのは、おかしい。
「ええ、見ての通り、彼は元気です。心配ありません」
光留は特に慌てた様子もなく、伊都のことはあくまで歯医者が怖い残念な子設定で押し切ることにしたらしい。
「虫歯は放置すると怖いですからね。無事に済んで良かったですね」
あえて言動の不自然さをスルーする気なのか、何か思惑があって指摘を避けたのか。彼の背後からヤミイトがじわじわと溢れ出しているのを見る限り、前者かもしれない。
「それじゃあ、俺たちはこれで。ボランティア活動頑張ってください」
光留は笑顔で彼方に答えると、「ほら、行こう」と伊都の肩を叩いた。それで、少しだけ張り詰めていた空気がゆるんだ気がした。
光留と二人で狭いエレベーターに乗る。
エレベーターの細長い窓から、彼方の姿が完全に消えた後、伊都はゆっくりと息を吐く。
「僕、あの人、苦手です……」
優し気な声音で微笑みながら、ヤミイトを出せる青年。ボランティア活動をやっているのは恐らく本当なのだろうが、信用できそうにない。
気が抜けてへなへなになっている伊都の背中をさすりながら、光留は「ごめん」と、少し困ったような顔をして言った。
「苦手なんだろうな、とは思ったよ。伊都くんは早く出ていきたいんだろうな、ってわかっていたけれど、早苗ちゃんの手がかりは掴んでおきたかったから。……行こうか、トー横に」
「……はい」
彼方は確かに悪意を持っていた。親切心から、早苗のいそうな場所を教えてくれたわけではないのだ。
「まだ昼だから大丈夫だと思うけど、歌舞伎町、治安悪いから気を付けてね。危なくなったら俺が何とかするから」
「僕、男だし大丈夫じゃないですかね」
「男の子でも、変に絡まれる可能性はあるからね。用心するにこしたことはないよ。伊都くん、そういうの苦手なタイプだろ?」
確かに、荒事には向いていない。伊都は素直な気持ちで頷いた。
ナイフ男を秒で止められる人がする忠告だ。聞いておくべきだろう。
◆
新宿まで山手線で四駅。伊都は光留と一緒に、歌舞伎町の映画館に向かった。
昼間の歌舞伎町は、ネオンの魔力を失った怪しげな風俗の看板が、薄汚れた路面の両脇を固めている。路上では悪質な客引きへの注意喚起の音声が流れていて、さすが新宿歌舞伎町という気持ちにさせられる。
目的地となる映画館の近くには、確かに中高生くらいの年代の子供たちがうろうろしていた。普通に考えてまだ学校の時間だと思うのだが、補導されないのだろうか。
子供たちの中に、早苗の姿はない。
「ねえ、君たち、ユウカちゃんって知らないかな?」
光留は、早苗よりも先にユウカを調べることにしたらしい。
女の子がいるグループに声をかけまくっている。探偵の仕事なのだが、やっていることはナンパに見える。伊都は少女たちの威嚇とヤミイトに辟易としながら、頼むから早くユウカが見つかってくれと願った。
四組目くらいで、手ごたえがあった。
「ユウカ、ねぇ! なんかこのおにーさんが用事あるって!」
ポニーテールの女子が、道端に座り込んでいた少女に声をかける。
英字プリントのパーカーを着た、茶髪の少女が立ち上がってこちらに来た。
「何か用?」
彼女は、ぞんざいな態度でそう言った。
「君がユウカちゃんか。話が早くて助かるよ。最悪夜まで待たないと会えないかと思った。俺たち今、早苗ちゃんって子を探しているんだ。君が仲良しだって聞いて来たんだけど、なんか知ってるかな?」
ユウカは、うさんくさそうな顔で光留を見た。
「なんかイケメンがわけわかんねーこと言ってるじゃん」
「ウケる。こんなところでヒトサガシとか」
近くにいた女子たち口々に言う。こちらを馬鹿にしたような下品な笑い声。伊都のことには特に言及されないのは、黙って突っ立っているだけの空気だからだろう。
このまま無視してくれて構わない。少女たちからヤミイトがぶわっと出てきては、光留にまとわりつくのを見て、勝手に気分が悪くなっているところだから。
「サナエなら仕事しにいったよ。カネがいるって言うから」
心底どうでも良さそうな顔をして、ユウカは光留の質問に答えた。見たところ、ユウカは多分、高校生くらい。早苗は中学生だ。高校生が中学生に紹介する仕事とは。嫌な予感がする。
「パパ活でもすればって言ったら、それはイヤだっていうから。だから一回だけでそれなりのカネになる仕事を紹介しただけ」
「それって、売春を勧めたってことかな」
光留がストレートにそう尋ねると、ユウカは少しだけムッとしたようだった。
「うちらがカネを稼ごうって思ったらウリやるしかない。説教だったらお断りだから」
「別に説教はしないよ。俺たちは、君たちの保護者でもないし、警察でもないしね。でも、早苗ちゃんのことは、俺たちの仕事なんだ。だから売春は見過ごせない」
ユウカは興味なさそうに「あっそ」と答えた。そして、親指で歌舞伎町一番街の方を指さした。
「あっちにある『イマジン』ってラブホ。よくウリやってるヤツが使うとこ。行ってみれば?」
「それ、教えてくれていいんだ」
「別にいい。うちらはここの他に行くところないから、ここから追い出されるのは困るだけ。オトナが口出ししてくんなってこと」
ユウカの言いたいことはつまり、ここにたむろすることを容認するなら、警察でも他の誰かでも好きにしてくれて構わない、ということなのだろう。
早苗を庇おうとする意思は感じられない。本当に友達なのだろうか、と伊都は疑問に思う。友達なら庇うのではないだろうか。
伊都の視線を感じたのか、ユウカはじっと睨み返してきた。
「勘違いすんな。うちらは、帰る場所があるヤツのことは仲間にしない。サナエが家族を捨てる覚悟あんなら、うちらは受け入れる。それだけ」
家出して、家族を捨てて、売春をして。それが覚悟だと言うのか。
伊都には何が正しいのかわからなくなってきた。もちろん、売春は犯罪だということも、家出もするべきではないことはわかっている。しかし、伊都だって家を飛び出してきた身だ。たまたま、高校を卒業していたから世間的には問題なかったというだけで。たまたま、光留が仕事を紹介してくれただけで。もしかしたら、その日を生き延びるためのお金欲しさに、とんでもない犯罪に巻き込まれる可能性がなかったと言えるだろうか。
一人で逃げ続けるには、お金が必要だ。家族に探されていることに気づいた早苗は、自分なりに考えに考えた末に、トー横に来たのだろうか。一人で生きる手段を探して。
「伊都くん、行こう」
光留の方は、ユウカからこれ以上の情報は引き出せないと考えたようだった。ユウカは完全に光留たちから興味を失ったようで、踵を返して子供たちのグループに戻っていく。
光留はユウカが言っていたラブホテルに向かうつもりのようだ。
「あの、ラブホって男二人で行って大丈夫なもんです?」
「まぁ、ダメってことはないと思うけど、ちょっと勘違いはされるかもね」
「ええ……」
こちらは一切そういう関係ではない。というか、まだ会って二日目だ。よくよく考えたら、会って二日目の人間が探偵助手をやっているのもどうなのだろうか。根本的な部分に疑問が湧いてくる。
軽く混乱している。何が悲しくて、男二人でラブホに行かなければいけないんだろう。
「俺は悪運が強いからね。多分そろそろ来るんじゃないかと思うんだよ」
「え、何がですか?」
「来ればわかるよ」
何がどう『来る』のか。疑問点は何も解決しないまま、ラブホテルが見えてきた。
すぐに中には入らず、入り口の近くで立ち止まる。さすがに会って二日目の男同士で入るのは、いくら仕事とはいえ、ためらわれたのだろうか。
「伊都くん、ちょっと隠れてて」
いきなり、光留にラブホテルと雑居ビルの隙間に押し込まれた。狭い。それと生ゴミの臭いがする。臭い。
そこに長身の光留も入ってきたので、伊都にはほとんど何も見えなくなった。わけがわからないまま、少しでも情報を得ようと耳を澄ませる。
「……だ、やだ、やっぱやめる!」
聞き覚えのある声が、光留の肩越しに聞こえてきた。
早苗だ。誰かが一緒にいる。
光留と壁の間、わずかに見える外の景色に、黒い糸状のものが混じり始める。
ヤミイトだ。
そこにあるのは、悪意だ。
「光留さん、助けてあげてください!」
「うん、わかってる」
光留がビルの隙間から飛び出す。一歩遅れて、伊都も転びそうになりながら道に飛び出した。
「今更いやだって言って、はいそうですか、なんてなると思ってんのかよ、お嬢ちゃんよぉ」
少し枯れた、野太い男の声。四十歳くらいの黒いシャツを着た男だった。早苗の細い手首を掴んで、今まさにラブホテルの中に連れ込まれようとしているその場に、光留が割り込んだ。
「なんだてめえは!」
急な闖入者に驚いた男が、早苗を放し、光留をにらみつける。
「通りすがりの探偵だ」
「何わけのわからねえこと言ってやがる!」
男はポケットから何かを取り出す。銀色の光。ナイフだと一瞬遅れて気が付く。
またナイフ男。しかも今回は至近距離。背中にぞくりと悪寒が走った。
「光留さん!」
光留は器用に上半身をそらす。ナイフの切っ先が光留の頬をかすめる。血が散る。
どうしよう。どうすればいい。ヤミイトが男からあふれる。
「うわぁぁぁぁ!」
伊都は叫んだ。そして力の限りをこめて、男に体当たりをした。
「んぐぉっ!?」
男がよろける。その隙を、光留は見逃さなかった。ナイフを持った方の手を掴んで、捻りあげる。ナイフがカツン、と音を立てて道路に落ちる。
伊都は男と一緒になだれるようにして地面に転がった。地味に痛い。
「はい、確保」
光留は鮮やかな手つきで男の両手を拘束し、地面に押し付ける。痛みに顔をしかめながら伊都が起き上がると、光留は頬から一筋の血を流しながら、男の上に馬乗りになっていた。
「光留さん、大丈夫ですか」
「うん、俺はちょっと切れただけだから、大丈夫。それより早苗ちゃんを頼める?」
「あっ、はい」
早苗はどうしているのかと思えば、道路の片隅でガタガタ震えながらへたり込んでいるところだった。
「あの、もう大丈夫だから」
伊都がそう言って助け起こそうとしても、早苗は震えるばかりだった。これはしばらくどうにもならなさそうだ。
「光留さん、どうするんですか、これ……110番しますか?」
ラブホテルの前の乱闘劇に、周りの人間がざわざわと遠巻きに集まり始めている。池袋の事件の時と同じだ。そのうち動画を撮ってSNSにアップする人間が出てくるかもしれない。
「いや、知り合いの刑事に来てもらうよ。これ、単純な傷害事件じゃないからね」
そう言って、光留は男を押さえつけたまま、片手で器用にスマホをいじって電話をかけた。数度のコール音の後、電話が繋がった気配がする。
「あ、橋本さん。非番でした? すみません、事件が起きました。犯人は確保済みです。あと、姉さんがそこにいたら、依頼人の針谷さんに連絡をするように言ってください。場所は新宿歌舞伎町、イマジンというラブホの前です。よろしく」
笑顔ですらすらと話す光留に、電話の向こう側で何やら声を荒げている様子。はっきりとは聞き取れなかったが、大体何を言っていたのかわかった気がする。
多分、こう言っていた。
「またお前か!」
と。
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