獄宙に囚われる 11

 駅まではまだ結構な距離を歩かなきゃならない。とはいえ終電までにはかなりの余裕がある。この調子で進めば帰りを心配する必要はない。

 ふわりと夜風が顔の横を通り過ぎ、佳蘭は流れた長い金髪をそっと手で抑えつける。柔らかな月の光と無機質な街灯に照らされた佳蘭の顔。

「どうかした?」

「いや……。そういえば最後の森川。ありゃなんだ? あの時あいつは確かに鉄平の幽霊を見ていた。そうとしか考えられないような反応だった。本当にあそこに鉄平はいたのか?」

「結論からまず言うわね。有馬鉄平さんの幽霊なんかじゃない。あれは森川だけが見た単なる幻覚よ。そうね。高戸は全てを知る権利がある。順を追って説明するわ」

「頼むぜ」

 佳蘭の口から出た幻覚という言葉。森川の反応に俺は違和感があった。俺の知っている有馬鉄平という男は、誰かへの恨み辛みで化けて出てくるような、そんな男じゃなかった。おそらく佳蘭が何かしらやったんだろう。魔女としてのあれこれなんぞ俺にはまったく予想がつかない。大人しく佳蘭の言葉を待つ。

「事前に高戸から森川が仕掛けたわたしに対する罠の全貌は聞いていたわ。わたしが対策すべきことは二つ。まず睡眠薬入りのオレンジジュースね。正直これは簡単だったわ」

「簡単ねぇ。魔女って奴は睡眠薬とかそういうクスリに耐性でもあったりするのか?」

「馬鹿ね。漫画の読みすぎよ。いくらわたしが魔女だからといって、そんなもの飲んだら普通に眠るに決まっているわ。こういうことよ」

 佳蘭は綺麗なウィンクかましながら服の袖口から細長いチューブを見せつけてくる。そういうことか。つまり飲んだふりしてそこに全部流し込んでいたと。

「お得意の手品かよ。すっかり騙されたぜ」

「そういうこと。わたしはあのジュースを一口だって飲んでないわ」

 ふふんと軽いドヤ顔かます佳蘭に若干イラっとくる。手品ってやつは種が割れちまえばなんてことはないものが多い。こんな単純な手に騙されたのかよ。

「ついでに言うが、あの時はちょくちょく合図くれて助かったぜ。おかげで変に動揺しなくて済んだわ」

「敵を騙すにはまず味方からなんて言葉もあるけど、あの場面じゃあ高戸の不安を取り除いた方がいいと判断したんだけど正解だったみたいね」

 オレンジジュースを口に入れようとする前やら、眠ったふりをしている時に森川の目を盗んで佳蘭は俺のふとももを抓ってきていた。だから俺も変に動揺することなく森川に集中することが出来たという裏がある。

「二つ目ね。森川を追い詰め白状させること。まあこれに関しては高戸がやってくれたから想定外といえば想定外ね。あの時わたしがつけていた香水覚えてる?」

「ああ。普段使ってるのとは違うものだってのには気づいてた。なんか意味があんのか?」

「あの香水のラストノート。つまり最後の香りにはね、幻覚作用があるの。といっても大したものじゃないわ。精々人によっては見間違いを起こす程度の軽いものよ」

「は? ガチ危険物じゃねーか」

「大袈裟ね。本当に大したものじゃないし無害なものよ。高戸はカクテルパーティー効果って言葉知ってる?」

「あン? 確かあれだろ。人間は聞きたい内容を無意識化で選択して聞いてるってやつだったか?」

「そうね。大体それであってるわ」

 去年辺りにとった心理学の講義で教授が話していたものだ。なんでもカクテルパーティーで楽しく会話した内容を後から振り返ろうと、録音してた奴がいたらしい。後日録音してたものを再生してみたら周囲の人間の声がうるさすぎて会話が全く聞き取れない。パーティー中はあんなにハッキリと聞き取れていたにも関わらずだ。そこから人間の脳は聞き取りたい音を無意識化で取捨選択しているという説が提唱されたんだとか。あんまりにも直接的すぎるネーミングが面白くて記憶に残っていた。

「聴覚だけじゃない。視覚もそうよ。人間は見たいものだけを見ている。つまりはね。見なければならないものは、そこに存在しなくても見えてしまうってことよ」

「森川にとって鉄平は見なければならないものだったと」

「予想だにしなかった高戸の裏切り。そして目覚める筈のないわたしが起き上がったことによる動揺。場の雰囲気も合わさってあの時の森川の精神状態はぐちゃぐちゃだった。そこに幻覚作用のあるわたしの香水の匂いでそれを見る環境はつくられていた。あとはわたしの言葉による暗示で誘導する。その結果があれよ」

「なるほどな。なんとなく理解出来たわ」

 あの時俺は確かに佳蘭の身体から溢れ出るオーラを見た。おそらく俺も幻覚を見たんだろう。佳蘭の放つ殺気に俺は完全に飲まれていた。だからそれが幻覚として可視化されたんだろう。

「わたしがやったのはね。一種の呪いよ。これから先、麻薬を含めた悪事を森川はすることはないわ」

「どうしてそんなことが言えるんだ?」

「森川の中で麻薬と有馬さんが関連付けされている。悪事を為そうとする度に、有馬さんの幻覚が彼を襲うわ。良心の呵責がそのまま形になったようなもの。そんな中で悪事を働こうなど不可能よ」

「なるほどな」

 涙やら鼻水でぐしゃぐしゃになった森川の顔を思い出す。今回のことはあいつの中で確実にトラウマとして刻まれている。そんな極大なトラウマがフラッシュバックしようものなら堪らないだろう。犯罪行為なんぞ出来るわけがない。

「少しだけ合点がいったぜ。なんでお前が警察に通報しないことを黙認したのか。もう森川が麻薬に関わることが不可能だとわかっていたからだったんだな」

「面倒だったからってのも勿論あるけどね。高戸は板橋さんの呪いのこと覚えている? 今回のわたしの呪い。その核はなんなのか予想つく?」

「覚えているぜ。お前の依頼を手伝った時のやつだな」

 俺は佳蘭の手の平で転がされることを承知で、呪いというものを体験した。あの時は板橋が持っていたブランド物のキーホルダーが呪いの核であり、それを預かったことで俺にも呪いの影響が出た。じゃあ今回の核はなんだ? 佳蘭の言葉を思い返しながら考えてみる。

「……良心の呵責。言っちまえば罪悪感てやつか?」

「正解。森川を刺激するためにわざと強い言葉を言ったけどね。実際は森川に有馬さんを殺す意志はなかったと思っているわ。せいぜい死んじゃえばいいのにくらいの、本当に軽いもの。いっそ本気で有馬さんを殺すつもりだったら覚悟が出来る以上、また話が違っていたと思う。半端であるということは隙間があるということ。そして間は魔を呼び込むわ」

 森川に鉄平を殺す強い意志はなかったというのは俺も同じ意見だった。中途半端な殺意で、殺人という結果になってしまった。

俺が殺したのか? いやそんなことはない。だがしかし。森川の中でこんな思考が渦巻いていたに違いない。

どっちつかずの中途半端な状態ってやつは心に大きな負荷をかける。試験の結果待ちなんかがわかりやすい。合格しているかもしれない。いや、もしかしたら不合格かもしれない。不安で眠れなくなるやつもいる。

森川がパチ屋に入り浸っていたことにも納得がいった。元々好きだったというのもあっただろうが、ギャンブルの熱で不安を誤魔化そうとしていたんだろう。いつかの俺みたいに。

「板橋さんの時はキーホルダーを捨てることで核を取り除くことが出来た。けど森川にそれは出来ない。自分の中にある罪悪感を切り捨てることなんてできないわ。そうね、もし森川が呪いから解放される日が来たとしたら、それは彼自身が罪と向き合い清算した時ね」

 それは、ある意味警察に捕まることよりも、辛いことなのかもしれない。司法で裁かれ服役する。法治国家における法とは人よりも上位のところに存在するものだ。自分よりも上位存在に罪を裁かれ、服役することで罪を償う。そうすることで自分の中の罪の意識と折り合いをつけることが出来る。

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