呪いと魔女 9

 *


 わかっている。これは夢だ。遥か昔の、懐かしい日々。まだ鉄平が生きていて、俺が勉強というものにのめり込んでいた中学二年の時だ。

 ドカドカと階段を駆け下りる。授業の終わった教室に、一秒だっている理由なんてない。さっさと帰ってゲームをしたいが、それより先に俺にとって大事な用がある。

「なあ先生! コレ見てくれよ!」

 職員室で一人事務作業をしていた先生に、さっきの授業の最後に解いた数学の小テストを見せる。先生はパソコンから目を離すと受け取ったテストを軽く流し見して、思わず動きを止めた。

「……。凄いですね。最後の問題、これ難関私立の入試問題クラスですよ」

「へへっ。ヤるだろ?」

 先生に褒められて思わずドヤ顔をかます。俺の通ってる所は進学予備校で、頭のいい奴らが集まっている。その上で、このテストで満点取れた人間は俺含めて五人もいない。

「こいつ何でか勉強出来るんだよな。ヤンキーのくせに」

 悔しそうにな声が後ろから聞こえてきて、振り返れば鉄平がいた。どこか不服そうな顔を見て俺は察する。

「さては鉄平。お前最後の問題解けなかったな?」

「うるさいよ高戸」

「図星か! まあでも眠れる獅子を目覚めさせちまったのはお前だぜ、鉄平」

 元々俺が勉強にのめり込むようになったのは、小学校の時にこいつに勉強見て貰ったのがきっかけだ。そうじゃなきゃこんな進学塾なんかに通うわけがない。なんだか楽しくなってきて、思わず鉄平に肩パン一発。貧弱なコイツに合わせて軽くパシッと。

「高戸くんと有馬君は仲がいいんですね」

「そう、かな? まあ小学校の時からの付き合いだし、普通じゃないかな」

「そうだよな。幼馴染っちゃ幼馴染だけど、特別仲がいいって感じじゃねえもんな、俺たち」

 嬉しそうに柔らな表情を浮かべる先生に、俺と鉄平は思わず顔を見合わせ首をかしげた。そんな俺たちを見て先生はその笑みを濃くする。

「それより、さ。何回も言ってるだろ、先生。俺のことは和也でいいって」

 じっと先生の目を見つめ、これまで何度も言った言葉を口にする。どこまでも真剣な俺に、先生は困ったような顔で、誤魔化すように机の引き出しを開けた。

「受験までまだ一年あります。有馬くんならそれまでに解けるようになりますよ。高戸くんはこの調子でがんばってくださいね。はいこれ」

 すっと差し出されたのは小さな四角いチョコ。スーパーなんかで売られててお徳用の沢山入ってるやつ。

「頑張ってる二人にちょっとしたご褒美。ナイショですよ」

 悪戯っぽく片目を閉じ、人差し指を唇に当てて笑う。そんな先生に俺は思わず見惚れる。もしかしたら若干赤くなっているかもしれない。

 ビニールの包みを開け、ひょいと口の中にチョコを突っ込む。なんてことはない安っぽいものでも、先生から貰ったものは俺にとっては特別なものだ。

 一目惚れっていうやつなのだろう。大学に入ったばかりのバイトの先生に、生まれて初めて目を奪われた。意思の強そうな切れ長の目は、同時に優しく柔らかい。さらりと艶やかな黒髪を後ろでポニーテールにしている。澄ました黒猫のような、気品ある仕草。今まで誰かを可愛いと思うことはあった。けれども綺麗だと思ったのは初めてだった。

 俺が本気で恋をした女。諦めるつもりなんてこれっぽっちもない。だがこの恋が叶うことはないのはわかっていた。。先生にとって俺は単なる生徒でしかなくて、どこまでいっても子供だった。

 ぐるりと世界が切り替わる。あの頃の俺の部屋。実家に帰ればいつでも見れるがどこか不思議な懐かしさがあった。

 ゆったりクッションに座りながら、クソガキだった頃の俺はテレビゲームをしている。隣にはかなでが何がおもしろいのか、そんな俺を眺めながらニコニコ微笑んでいた。アイツと付き合っていた頃のよくある日常の光景。一つ違うのは夢の中にいるせいだろう。映画みたいにそんな俺たちを俯瞰で眺めていた。

 昔の俺はどこか退屈そうに、けれども目だけはギラギラ輝かせながらコントローラーを操作している。しばらくして軽快なファンファーレと共にテレビに映し出されたクエストクリアの文字。昔の俺は後ろに手を付き一息吐く。

「やったね、カズくん!」

 嬉しそうにふんわり笑う。そんなかなでを冷めた目で見つめながら、かつての俺はそっとその柔らかな左手に触れる。それだけで充分だ。かなでは目元を潤ませながら「あっ…」と熱い吐息を漏らす。

 そうだ、そうだった。かつての俺たち、いや俺はこうだった。まざまざと自分の黒歴史を見せつけられようとしている。

 馬鹿野郎お前が本当に好きなのは先生だろ? やめろ猿みたいにサカッてンじゃねぇ! 今の俺の思いは、言葉はクソガキだった俺に届くことはない。かつての俺は覆いかぶさるようにかなでの唇を奪う。過去から逃れることは出来ない。掻き毟りたくなるような疼き。

 ふと俯瞰で見つめる今の俺とかなでの視線が交差する。過去の再現ではありえない現象に、思わず思考が固まる。そんな俺にかなでは微笑んだ。蕩けるような色気と仄暗い妖しさとともに。


くらい夢に落ちていく。



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