Moon Light 15

 最寄り駅の喫煙所で煙草に火を付けた。ここから十五分も歩けば家に着く。

佳蘭と一緒に駅まで向かい、そこで別れた。なんてことはない。俺と佳蘭の向かう駅が反対方向だっただけの話。流石に終電を逃してまで、佳蘭の自宅付近まで送る義理はない。送り狼なんて煽られた手前もあるし、佳蘭の方も親に迎えを頼んだから大丈夫と言っていたのも大きい。

 すっと一口目を吸い込み、夜の闇へ向かって紫煙を吐き出した。日付も変わって暫く経つ。ぷつぷつと消え始める街の灯り。無意識にふわぁと欠伸が漏れた。

身体の内側から鈍い眠気が湧き上がってくる。この『月光』を巡る怪異を経て、鉄平の死に自分なりの整理が出来たのだろう。久しぶりに眠れそうだ。

 実は佳蘭に言わなかったことがある。『月光』の最後のページを読み終わった後に見た、白昼夢に似た幻。そんなシーン『月光』の中にはどこにもなくて、シンクロしすぎてしまったが故に見たユメでしかない。けれどもそれはきっと確かにあった出来事で…。


 それは全てが終わった夜のことだった。私は一人縁側に佇み、真暗な庭を眺める。手入れの行き届いた庭木と、静かに揺らめく池の水。達成感と満足感から思わず溜息が漏れ出た。

 右手には出来たばかりの一冊の本。最愛の人との約束の果て。その仕上がり具合を確かめ満足げに頷く。

 この世で一冊しかない『月光』と名付けた私の懺悔の記録。私はこの『月光』を世に出すつもりはなかった。ただ一冊しか作らなかったのがその証。代わりに全てを注ぎ込んだ。

 何年もかけて推敲を行った文章。それを印刷するページにもこだわり抜き、結局ときが絵を描いていた紙を使った。白紙のままの、けれども確かに何かが描かれている。私の中で一番ときを象徴する物だ。べらぼうに金はかかったが後悔はしていない。

 びゅおうと強烈な風が吹いた。ぶるりと震える。風も出てきた、そろそろ部屋に戻ろう。そう思った矢先のことだった。

池の水面に白い月影が浮かぶ。先程の風が厚い雲を吹き飛ばしたのだろう。そういえば暫く月なんて眺めていなかった。馬車馬のように働き、家族が寝静まってからの執筆活動。とても月を楽しむなんてことが出来るわけがなかった。久しぶりに月見と洒落込もう。夜空を仰ぎ、ぽっかり空いた真白の満月にそれを見た。

 月の裏側より伸びる無数の白い腕/見えない。いや、あれは腕なのだろうか/見えない、あるいは蛸のような触手/見えない。そうとしか表現できない白き異形の末端/見えなイ。

 漏れるような悲鳴。恐怖で腰が砕けて尻餅をつく。そのまま逃げるように後ろに下がり、柱にぶつかった。これ以上退けない。月から目を離せない。歯の根が合わずカチカチと五月蠅い。

 今全てを理解した。ときが幼少期から見ていたのが、月の裏側にいるこの異形だったのだ/見エない。身体が寒い。血の気が引いていく。全てが恐怖に塗り潰される。

 大地に向かって伸びる白き末端/見えナイは、私たちに届く前に弾かれる。守りが効いているのだ。おぞましき異形は私たちには届かな。いや、この守りも完全ではない。破られる時が必ず来る。それこそがいつか確実に訪れる終末の地獄。

 右手に持つ『月光』の感触が、恐怖に染まった脳髄を刺激する。ときだ。ときの言葉を誰かに伝えなければ。今は亡きときを伝えることが出来るのはこの『月光』のみ。滲む冷や汗と共に念じる。知れ智れ識れしれシレ知智識しシれれれれれ。

 びゃくりと月が割れる。中から無限に等しい数の白き末端が私たちの星に迫る/みエナヰ。あれに掴まってはいけない。囚われてしまえば最後、私たちは外れてしまう。

 富永弥であることから/みえない。ヒトであることから/みヱなイ。生命であることから/ミエナイ。輪廻の環からも外れ、私たちは獄宙に捕らわれる。逃れるためには/ミエナイ。逃れるためには/ミエナイ。逃れるためには/ミエナイ。


 白き末端に掴まる前に死ぬしかない/ミエ、ナイ。


「ぅ熱っ」

 人差し指と中指の間に、ずきりと突き刺すような熱を感じ、思わず左手を振る。ポトリと落ちたフィルターのみとなった煙草。ロクに吸わずに灰になったそれを、溜息とともに拾い上げ灰皿へと投げ捨てた。

 時間も時間だ。いい加減帰ろう。ゆっくりと帰路へ向かって足を進める。ぽつぽつと街の灯りが消えて、歪められた月の光が淡く照らす。

 あと一歩。あとほんの少し深く繋がっていたら、見えてしまっただろう。そうなったら、きっと耐えられなかったに違いない。なぜ鉄平が死んだのか、その原因が理解出来た。出来てしまった。

 鉄平は、鉄平はやっぱり自殺なんかじゃなかった。鉄平を自殺に追いやった存在がいる。俺は俺の親友を殺した存在を許せない。それは富永弥でもなければ、『月光』という怪異に堕ちた本でもない。それはあまりにも——。

 ふうと肺に残った空気を吐き出し、そのまま空を仰ごうとしてやめた。きっと夜空には、かつて鉄平と見た時と同じ、ぽっかりとした満月が浮かんでいるのだろう。思い出の中と同じ月の光。けれども今はそれを、見上げることが出来そうに、なかった。

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