Moon Light 13

 食が細り、あれほど好きだった絵も滅多に描くことがなくなってしまった。一日中寝床に籠って横になる日々。医者に診せても一向に良くなる気配はない。虚ろなときの表情。まるで生きる気力そのものがないように思えた。

 それは月の明るい夜のことだった。虫の報せとでもいうのだろうか。その日、まだ陽も上らない深夜に私は目覚めた。隣の妻と子供はすやすやと眠っている。起こさないようそっと布団から出た。微かなのどの渇き。水でも飲もうと台所へと向かった。

のどを潤し、自室へ戻ろうと廊下を進む。ゆったりと歩きながら、窓の外の夜空を見つめた。黒い闇の中、ぽっかり空いた真白の満月。清く、けれどもどこか狂気を孕んだ月の光に誘われるようにして、ときの部屋へと訪れた。

 てっきり寝ているものだと思っていた。寝顔でも見ようと軽い気持ちだった。だがいると思っていた布団の中にときはいない。どこにいるのかと部屋の中を見回し、窓辺に立つときの背中を見つけた。明るく、ささやかに照らす満月。まるで雨に打たれるかのように、静かに月の光を浴びていた。

『兄さん』

 私の気配に気が付いたのか、ときはゆっくり振り返った。思わず息を飲む。濡れたまなじり。恐怖の中に一抹の安堵を見つけたような不器用な微笑み。はだけた襦袢から覗く、僅かに温かみのある白い肌。肋骨の浮き出た乳房と桜色の蕾。そして誰も触れたことのない純潔の花弁。

 ぐじゅりと脳が焼かれる感覚。その肉体は瑞々しく枯れていて。腐り落ちる果実の甘さと、白骨の不浄なる清らかさ。狂気と背徳と淫靡な美しさに満ちていた。

『——弥』

 初めて名前を呼ばれた。そしてその言葉は、私の中の最後の鎖を引きちぎるには充分すぎた。突き動かされるようにときへと近づき。そうして私は獣へ堕ちた。

 乱れた衣服を整える。生涯味わうことのない、味わう必要のない甘美な快楽。同時に死ぬまで消えることのない咎の重さ。寝床で余韻に浸るときの顔を見れない。そそくさと逃げるように立ち上がった私の背中に、ときは声をかける。

『お願い』

 心の臓が跳ね上がる。血の気が引いていくのがわかった。全身が痺れたように動かない。けれども私の予想に反して、ときの声色は蕩けるように穏やかだった。

『わたしのことを書いて。わたしを後世に残してちょうだい。お願いよ』

『わかった』

 顔を合わせることなく静かに頷いた私に、ときは安心したのだろう。すぅすぅと穏やかな寝息を立て始めた。ゆっくりとときの部屋を後にする。

 寝室へと戻り、何食わぬ顔で布団に入る。そっと耳を澄ますと、いつもと変わらない妻と子供の寝息。安堵の吐息が漏れ出そうになり、思わず息を止めた。鼓動の音が五月蠅い。このまま寝れるのだろうか。

 ぐるぐると滅裂に回り狂う思考。こんな状態で眠れるわけがない。眠れるわけがないと思っていたが、存外に私は厚顔な人間だったようだ。何時の間にか私の意識は闇に落ち、次に目覚めた時にはときは私のいる世界から旅立っていた。

「最愛の妹の最期の願いだ。私は書かなければならない。ときのことを。なにより私の罪を。繰り返す。これは私の懺悔の物語だ」

 パチンという音にびっくりし、思わず仰け反り床に手を付いた。ぼうっとしていた意識が一瞬で覚醒する。さっき俺の顔があった辺りには佳蘭の両手。状況から察するに猫騙しでも食らったんだろう。

「いいわ。煙草でも吸いなさい。少しは落ち着くでしょう」

「あ、あぁ」

 言われるがまま、煙草に火をつけ一口吸う。霞みがかった思考がクリアになる感覚。とはいえそれだけだ。状況がよくわからない。

「まさかここまで濃度を下げても、これだけの影響が出るなんてね。もし直接読んでたらと思うとぞっとするわ」

「一体なにが…?」

「気がついてない? 段々自分のことを語るような口ぶりに変わっていったわよ。まるであなたが富永弥になってしまったかのようにね」

 思い当たる節がある。煙を吐き出した。『月光』を読んで味わったあの感覚。高戸和也であるという自我が薄れ、主人公とシンクロしていったアレ。佳蘭に『月光』の内容を語っていくうちに、それがぶり返してきたんだろう。

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