Moon Light 12

 ………。……。…。

「ねぇ高戸! 聞こえている⁉」

 言葉と肩を揺らされた。ハッとする。徐々に取り戻す、自分が高戸和也であるという認識。ゆっくりと隣の佳蘭へと向き、軽く微笑んだ。

「その様子。大丈夫そうね」

「…なんとかな。悪いちとキツイ。吸っていいか?」

「流石にノーと言えないわ。気にせず吸っていいわよ」

 ポケットから煙草の箱を取り出し、灰皿のある玄関へと移動して火を付けた。思考を焼くいつもの陶酔に安堵する。

「落ち着いた? こっちを見れる?」

「ああ。多少はな」

 佳蘭の青い瞳が射貫くように俺を見つめてきて、それを真正面から見つめ返した。そのまま数秒。すっと細められた青い瞳。安心したようにふわりと微笑んだ。

「よかった。多少の影響は残っているけれども、そこまで大きいものじゃない。最後のページを読み終わって、しばらくぼうっとしていたから心配したけれども、これなら最悪のことにはならなさそうね」

「自分で言うのもアレだが、正気だよ俺は」

 読了後の余韻に酔ってはいるが、それでも今の自分がマトモだと言える。少なくともよくわからない衝動に突き動かされて自殺することはない。紫煙を吐き出した。

「高戸のタイミングでいいわ。お願い出来る?」

「いいぜ。この『月光』というのは一人の男の自伝といえるものでな」

 ある大地主の長男として生まれた富永弥とみながわたるは、恵まれた幼少期を過ごしていた。だがそれは、ある側面から見た話であり、弥に言わせれば、ただ辛く厳しいだけのものでしかなかった。

 厳格な父と母。大きく時代が変わり、それまでの常識が破壊されていった時だ。身分制度の撤廃。民主主義の台頭。生活様式の西洋化。激動の時代で、彼らが信じたものは学問の力だった。

 教育制度が未熟だった当時では考えられないほどの高等教育。金はあった。金だけはあった。惜しみなく注がれ、弥はその全てを吸収していった。代わりに失われる少年らしい日々。変わったのは十四の時だった。

 妹が生まれたのだ。名前はとき。聡く美しく、けれども異質な存在感を醸し出す。両親はそんなときを不気味に思い、まるで腫物を触るように接した。そんな中弥だけは違った。年の離れたただ一人の妹に、父性のようなものを感じていたのだ。

『わたしたちって命を奪わなければ生きていけないのね。なんて罪深いのでしょう』

『命の果て。最後にわたしたちが辿り着くのは一体どこなんでしょうね。そこに幸いがあればいいのですが』

『兄さんたちには見えないの?』

 禅問答のようなことを口にする子供だった。猫のように虚空を見つめる子供だった。あと少し生まれるのが早ければ、座敷牢に入れられていただろう。それほどまでに両親はときを恐れ、不気味に感じていた。ただ弥にだけはときの言葉の裏の、やさしさを感じ取っていた。

 おそらくときは、所謂普通の人生を送ることは出来ないだろう。弥の中に芽生える決意。自分がときを面倒みなければ。今まで流されるだけだった彼の人生に、明確な目的が生まれた瞬間だった。

 机に齧り付き学問に励む日々。その合間にときと会話を交わす。ほんの僅かな時間だけだが、二人の間にはそれでよかった。

 ときは絵を描くのが好きだった。私がときの部屋に遊びに行くと、決まって絵を描いていた。すうと目を細め、集中しているのがわかる。真っ白な紙に、ピンと立てられた絵筆の先が走る。滑らかに迷いなく。けれども時折筆が止まり、そういう時は決まって虚空を見つめていた。

『兄さん。来ていたのね』

『なにを描いてるんだ?』

 ときは視線を私に向け、柔らかな笑みを浮かべる。そっと文机の上の紙を覗き込む。何かが描かれている筈のそれには何もなくて。文机の上には絵の具の類いは置かれていなかった。

『兄さんたちが見えなくて、わたしが見ているものを』

 淀みなくなく走る絵筆の先は、けれども濡れそぼっている。確かに何かが描かれ続けているのに、それは変わらず白紙のまま。ときが絵を描く時はいつもそうだった。何かを描いているのはわかる。わかるが、なにを描いているかわからない。私はそのことを不思議に思ったことはあれど、不気味に思ったことはなかった。

月日は流れ、私の生活にも様々な変化が起こった。進学のために上京し、帰省するまでの思い出。家業を継ぎ、妻子を得てからの充実した日々。そんな中ときは、ときだけは枯れるように衰弱していった。

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