Moon Light 9
「そうね。名著と呼ばれる本は、一種異常と言えるほどの文章力があるわ。夏の暑さや冬の寒さを体感させるもの。切り裂くほどの透明さで訴えかけるものとかね。高戸は大嶋先生の講義は聞いたことあるかしら?」
「大嶋ァ? いや、取ってねーわ」
いきなりウチの大学の人間の名前が出て少しビビった。大嶋といったら、今俺たちが居座っている映像部の顧問をしている。なんでも昔ガチの映画監督をしていたらしい。なんでそんな奴がこんなチンケな大学で教鞭取ってるのか。まあ人に歴史ありってやつだろう。
「大嶋先生の講義は受けるべきだわ。私がこの大学に来ている理由だもの」
「へー」
確か田畑の奴もそんなこと言ってたな。映画論だったか? 大嶋の講義って。なんでも適当に映画見て、それの感想提出して終わりらしい。めちゃくちゃ楽で、流す映画はカビが生えたようなのばかりらしいが、そこそこの暇つぶしにはなるのだとか。
「大嶋先生が言うにはね。小説というジャンルは、他のどんなメディアと比較しても異様とも言える特色があるの」
「ああ? 大嶋って元映画監督だろ? なんで小説のこと語ってるんだよ」
「なんでも映画とは? みたいな思考の迷宮に陥った結果、様々なメディアとの比較をしたのがきっかけみたい」
思わず「へぇー」という言葉が漏れた。なにかを極めようとして、迷走しすぎて魔境へといっちまうなんてのはよくある話で。大嶋の奴もきっとそんなもんだったんだろう。
「映画やアニメ、漫画に小説と物語を表現する媒介は幾つもあるわ。その中で小説だけは視覚情報がほとんどない。あっても数十ページに一枚、挿絵があるだけね」
「まあ小説ってのは文字だけだもんな。確かにビジュアル面で言や、圧倒的に劣ってるわな。で、それが一体なんだったってんだよ」
「高戸は本を読んだりするかしら? もし読むのだったら一度は経験したことあるんじゃない?」
「あぁん? 一体なにをだよ」
思わず声に不機嫌さが滲み出る。鉄平のせいで本を読むことの楽しさを知っている俺からすれば、佳蘭の言葉は挑発ともとれるもので。とはいえアロハ着て煙草吹かしてた奴が、読書が趣味ですなんて普通思わないだろう。頭の中のどこか冷静な部分がそう言っているが、ムカつくもんはムカつく。
「本を読んでいて、描写された風景がまるで実際に見ているようにイメージできることよ」
「馬鹿にしてるのか? それくらい何度だって…。いや、確かにおかしいな。言われなきゃそんなこと思わなかったが、なんでだ? なんで無いものが見えるんだ?」
「そうそれよ私が言いたいのは。ないものが見えたり聞こえたりする。こうして整理してみると気が付くでしょう。普通ではありえないことが起こっているわ」
「確かにな」
蟻の大群が背筋を上っていくような、そんな悪寒。当たり前だと思っていた世界が、ぐらりと音を立てて崩れ落ちていく。一瞬自分が本当にここにいるのかすらわからなくなるような、そんな恐怖を振り払うかのように強く頷く。
「大嶋先生が言うにはね、物語への没入感によってもたらされるものらしいわ。そしてこの没入感は、視覚情報が多ければ多いほど弱くなっていく」
「そいつはなんとまあ皮肉なもんだな。映像や音という巨大なものを手にした代わりに、物語への没入感てやつを失うなんて」
「そうね。とはいえ同時に没入感を高める工夫も生まれたわ。例えば映画館の環境ね。暗くすることで視覚情報を制限し、映画に集中せざるを得ない状況を作り出している。漫画でいえばコマ割りとコマ割りの間。そこに描かれていない動きを挿入することで、読者に動作を錯覚させる。それを繰り返すことで徐々に没入感を高めていく」
「へぇ…」
思わず俺の中の知的好奇心て奴がむくりと鎌首をもたげる。佳蘭の言葉に幾つか思い当たる節がある。見知った友人の、裏の顔を知った時のような感覚。なるほど。確かに佳蘭の言う通り大嶋の講義、採る価値があるかもしれん。
「なあ。そういえば結局なんで小説の没入感てこんなに強いんだ? いやそりゃ作品によって差があるのはわかるさ。けどここまでくりゃ小説ってジャンルそのものに言えることだろ」
「小説を読むと眠くなる人って一定数いるじゃない? 文字を目で追うという単純作業。それが眠りを誘うわ。そして眠りとは異界への入口。現実が曖昧になり、非現実が確かな重みを伴って侵食を始める。没入感の鍵はそこにあるわ」
「眠りねぇ…。つまり俺たちは本を読むとき、半分夢の世界にいるって言いたいわけか」
何度か経験がある。ベッドで寝転がりながら、だらだらと読んでいた時。不意にうとうとして、奇妙な夢を見た。夢は夢らしく荒唐無稽で支離滅裂。けれどもどこか読んでいた小説の内容と被るのだ。他人に話したって共感しちゃもらえない。そんな奇妙な感覚。
「まあそう思ってくれて構わないわ。普通はね、その扉が開いても、少し中の光景が見えるだけ。その程度の僅かな隙間が出来るくらいね。あるいは名作奇書の中には通れる程大きく開くものもあるかもしれない。けれども案内人がいない以上、その先へは進めない。けれどもこの『月光』は違う。異界へと確実に誘われる」
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