Moon Light 7

 今更ながらとんでもないことに巻き込まれたと嘆息する。同時に助かったというのが正直な所。佳蘭がいなかったら、何の気なしに『月光』を読んで、おかしくなっていただろう。そして辿る結末は鉄平と同じ自殺といったところか。最悪の結末を回避出来たという安堵感と、そういえばさっき佳蘭に殺されかけたのを思い出し、すぐになんとも言えない気持ちに変わった。

「少し『月光』を借りてもいいかしら?」

「いいけど。どうするんだよ」

「ちょっとね」

 差し出された佳蘭の右手に『月光』を手渡す。そのまま彼女は適当なページを開いて、ちゃぶ台に乗せた。

「お、おい! 開いて大丈夫なのかよ⁉」

「1ページ開くくらいだったら大丈夫よ。それにこうやって調べないと先に進めないわ」

「ごもっとも」

佳蘭がまた暴走しないかどうか、一瞬だけ彼女の顔を見る。その青い瞳には確かに理性の色が残っており、これなら大丈夫かと安心してちゃぶ台の上の『月光』へと視線を落とす。

経た年月を感じさせる薄茶色のページ。ふわりと香る古ぼけたインクと埃の匂い。その上を踊るように埋め尽くす活字たち。昔学校の図書室で見た古ぼけたハードカバーを開いた時のことを思い出した。

「凄いわね、これ…」

吐息を漏らすような佳蘭の声。そのまま撫でるようにページ触った。

「なにかわかったのか?」

「まあね。一先ずこの本に使われている紙には、特殊なインクで何か書かれている」

「特殊なインク?」

 ちゃぶ台の上に広げられたページ。それをマジマジと見つめる。けれども佳蘭が言っているような何かがあるようには思えなかった。

「見えないインク。普通の人にはわからないわ」

「なんでテメェには見えるんだよ」

「在り得ないモノを捉えるまなこ。私がお婆様から、その知識と共に受け継いだのがこの魔女の瞳。私が魔女たる所以ゆえん

 佳蘭の青い瞳が貫く様に突き刺さる。深く悠久の不変たる宝石のような双眸。息苦しさ。呼吸を忘れていたことに気が付き、気圧されたことが許せなくて、睨みつけるように佳蘭の瞳を見つめ返した。

「で、なにが書かれてるんだ」

「わからない。正確に言えば見ようとしていないから当然のことね」

「は? なんでだよ」

「これ以上視るとさっきの二の舞になりかねないからよ。これより先はチキンレースね」

 そう言うと佳蘭は、ほぐすように目元を揉む。その頬には一筋の汗がたらりと流れ落ちた。明らかに消耗している様子の佳蘭。おそらく一瞬でも気を抜けば普通に読んでしまうのだろう。佳蘭の言葉を信じるなら、人並み以上に視える瞳を持つ以上、俺よりも『月光』から受ける影響が大きい筈だ。

「大丈夫か? ゆっくりでいいぜ」

「その言葉に甘えさせてもらうわ。…ごめんなさい。本音を言うとどこまで正気で読めるかわからないわ」

 唇を噛み締め悔しそうに、焦りと絶望が入り交じった佳蘭の表情。思わず最悪の未来が頭をよぎる。

 久留主佳蘭が俺にとっての生命線だ。彼女が堕ちた瞬間に全てが瓦解する。怪異という事象に対して俺はあまりにも無力だ。仮に佳蘭の代わりに『月光』を読んだとしても、俺じゃ何もわからない。普通に読み進めて怪異に飲み込まれてジ・エンドだ。悔しくて思わず掌に爪を食い込ませるように握りしめていた。

 佳蘭は脳にこびりつくシミを吹き飛ばすように数度頭を振ると、はぁと大きく息を吐き出した。そうして気合いを入れ直すともう一度『月光』を開き、古ぼけたページにその青い視線を落とす。眉間に皺を寄せ、険しい表情で読み進めていく佳蘭。徐々に瞳から意思の光が消え、表情から色が消えていく。

「お、おい大丈夫か?」

 不穏な気配がして思わず焦り、佳蘭の肩口を掴み身体を揺らす。脱力しグリグリ動く奇妙なヘドバン。佳蘭の瞳に光が戻り、ハッとした表情を浮かべ、ゆっくりと俺の方へ視線を向ける。

「ありがとう。助かったわ」

「なあ。このままの調子で、本当に最後まで読み切れるのか?」

「読み切るしかないわ」

 強い断定の口調。睨みつけるように固い表情。出来る出来ないじゃなくやるしかないとう決意の表れ。

「それに二つだけわかったことがあるわ」

「マジか」

 前進の気配に思わず身を乗り出す。佳蘭はポケットからハンカチを取り出し、額に浮かんだ汗を拭った。

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