第27話 ウサギ小屋(5)




 フェンスを出た途端、つまずいて茜とわたしは派手に地面に転がった。

 額と腕を塗れたアスファルトにぶつける。痛くて動けない。茜も横で唸っているのが聞こえる。

 すぐ後から別の足音が追ってきた。フェンスを走り出て私のすぐ横で足音が止まる。

 ガシャン!

 派手な音とともに、フェンスの扉が閉められた。

 え……

 わたしは耳を疑った。

 待って……。後ろから聞こえた足音は一人分だった。まだ全員分の足音が外に出たわけじゃない。戸を閉めたら他の二人が出られなくなる。待って、葵先輩!

 わたしは痛みをこらえて顔を上げた。

 閉じた扉に手を掛けたまま、横井修がじっとわたしを見下ろしていた。顔に貼りついた髪からも、顎からも、雨が切れ目なくしたたり落ちている。

「……悪かったな。葵センパイじゃなくて」

 横井修はわたしの心を見透かしたようにそう言ったが、すぐに目をそらした。

「あいつが……言ったんだ。外に出たら、すぐ扉を閉めろって」

 雨ではなく、わたしの両目からまた涙が流れるのが分かった。

「学校を囲むこのフェンスが、バケモノを封じ込める最後の砦だと言ってた。おそらく溝の中の蓋と同じもので出来ていて」

 そんな話はどうでもよかった。

「先輩は?」

 横井修の話を遮って、わたしは尋ねた。フェンスの向こうに目を凝らしても、葵先輩の姿も、テツさんの姿も見えない。バケモノの姿さえ。

 ただ廃校となった校舎を濡らして、雨が降り続けているだけだ。

「葵先輩は? テツさんも……ねえ、どこにいるの!」

 横井修に怒鳴っても仕方がないのに、わたしは自分を止めることができなかった。横井修は迷惑そうに顔を背けたままだった。背けたまま、じっとフェンスの奥を見ていた。

「蓋を完全に閉められなかったんだ。俺たち三人さえ外まで出られるかどうかは賭けだった。……ただあいつは、最初から全員助かるのは無理だと、決めつけていたわけではないと思う。できれば自分も含めて全員助かりたいと、最後まで道を探っていた感じがする。でもアイラやそっちの女の姉ちゃんがあんなことになって、テツの奴もあの液体をかぶっちまって、葵自身も……。たぶん溝の底から足を滑らせた時だと思うんだが……底を見るなと言われても一瞬見ちまった。葵の足首が血だらけになっていて、それで……もうあいつも自分は全力では走れないと覚悟を決めたんじゃねえかな。だったら俺たち三人だけでも、と……」

 葵先輩が約束してくれと言った時、何に違和感を感じたのか、ようやく気づいた。

 あれは……真嶋葵の遺言だった。

 だから最後の最後に、先輩は話してくれたんだ。自分の一番弱い部分を。でも先輩は分かっていない。

 わたしはまだ先輩に何も言ってない。

 先輩に友達がいないなんてウソなことも。

 先輩とたくさん話すことができて、とても嬉しくて、幸せだったことも。何も。

 全員走るんですよねと言ったら、うなずいたのに。

「あたしは先輩との約束を守って全力で走ったのに……先輩は約束を破るなんて……ひどい」

 横井修が溜め息をつく。

「別にまだ約束を完全に守ってなんかいないだろ、おまえ。よく思い出してみろ」

 何を偉そうに、と思いながらも雨に打たれながら考えてみる。フェンスから出たら……

すぐに助けを……

「あ……」

 急いでポケットからスマホを取り出した。先輩に言われて作っておいたメッセージを、急いで母に送信する。

 当たり前のように既読がついた。すぐに電話がかかってきた。

「お母さん……お母さん……!」

〈何、どうしたの。あんた今夜は友達の家に泊まるんじゃなかったの? フジニの旧校舎ってどういうこと?〉

 母の声は緊迫しつつも戸惑っているように聞こえた。

 友達の家に……

 母の頭の中では、夜になっても私がいないことが、そんなふうに理解されていたのだと、今さらながらぞっとする。

 怖い。

 もし……今夜わたしが学校で消えてしまっていたとしても、あまり母は騒がないのではないか……

 もしかしたらわたし自身も気づかないうちに、同じようにコントロールされていたのではないか。

 わたしは本当に今日のことを、ずっと大事なこととして覚えていられるだろうか。この何も見えないフェンスの中さえ……本当は今も先輩やテツさんはバケモノと戦っているかもしれないのに、わたしは見えないと思い込んでいるだけではないか……

 ダメだ。この弱気こそが、バケモノだ。

 わたしは雨の中で激しく頭を横に振った。

 もしそうだとしても、そんな歪んだコントロールは何かで断ち切れるはずだと思い直した。何か強い思いがあれば。

 そうだ。レナが消えた時だって、警察はちゃんと動いてくれた。あの時の刑事は確かに本気でレナを見つけ出そうとしていた。わたしたちに違和感を持つこともなく会議室を出て行こうとしたあの老人も、ユウキの泣き顔を見て大事な孫のことを思い出した。

「お母さん、助けて!」

 大きく息を吸い込み、わたしは叫んだ。

「今、茜ちゃんと一緒に校門の前にいるの。死ぬかも……死ぬかもしれない! お願い、早く迎えに来て!」

 母が息を呑むのが聞こえた。

 今行くから、という慌てた声とともに電話が切れる。

 大丈夫。やっと、大丈夫。今度こそ、絶対……

「おまえの母親、迎えに来るって?」

 フェンスの方を見たまま、なぜか浮かない声で横井修が聞いてきた。

「うん。あ、大丈夫だよ。横井君も乗せてあげるから」

 わたしは言ったが、横井修はさらに浮かない表情になる。

「じゃあ……すぐにここを離れるぞ」

 え……

「葵が言っていたことを忘れたのかよ」

 葵先輩が言っていたこと……

 わたしは思い出してみた。もう体中が雨で冷え切っているのに、もっと冷酷で絶望的な何かに体が震えるのを感じた。

―領仙修吾は一人じゃない……

「とにかく一度離れて隠れろと葵は言ってた。もちろん本当におまえの母親が来たなら、一緒に帰っていい。だがその場合でも、体の具合が悪そうだから、途中で病院に寄って診てもらおうと言われたら……そしてその病院が領仙修吾の一族が経営する病院だったりしたら……」

 横井修はフェンスから離れ、歩き出しながらわたしと茜を見下ろした。

「その時は、全力で逃げろ、と」

 茜が唇を震わせ、わたしの腕にしがみついてくる。

 わたしは茜と支えあって、なんとか立ち上がった。

 前を行く横井修がふいに足を止め、雨が流れ込む側溝を無表情に見つめる。

「そうだよな……。俺だってもしかしたら、本当にヤツの言う通り、タカシもシューイチも実はもう家に帰ってました……だったらいいなと思わなかったわけじゃないけど……そんなわけねえか」

 横井修は再び歩き始めた。わたしはもう疲れきっていて、彼が見ていた側溝を覗き込む勇気はなかった。

「テツってさ……小学生の頃、本物の平田哲と翔の兄弟と一緒に、しばらく子供だけで暮らしたことあるんだって」

 校門が見える坂道の木立ちの影に身を隠しながら、横井修が言った。

「子供だけ……?」

 わたしはなんとか言葉を返す。横井修はどうも沈黙に耐えられない性格のようだった。

「ま、三階に上がってきた時、勝手にペラペラしゃべってたのが聞こえただけだけど。……本当はいとこだけど、双方の親四人が揃いもそろって宗教活動にのめり込んじゃって、一度活動に出かけたら何週間も帰ってこなくて、その間子どもは放置。だから近くに住んでいた三人で家に残ってた食べ物を分け合って、なんとか食いつないだと言ってた。平日の昼は学校で給食が食べられたけど、週末は気が狂うほど空腹だったそうだ。だからその時、これからも三人で力を合わせて絶対生き延びようと誓ったそうだけど、その後平田兄弟の方は、両親の活動の関係でこの大藤市に来て……翔は姿を消した。なぜそんなことになったのか、なぜ何もできなかったのか、一番年上だったから余計に後悔したらしい。ま、俺には理解できないけどね……」

 本当に理解できないのかはともかく、横井修はそう言ってフフンと笑った。

「ついでに言うとさ、平田家の親は翔を探すでもなく、今も宗教活動に人生を捧げてるんだとさ。それが信仰心からなのか、それとも大藤市に住んでいるからなのか、分かんねえけどよ」

 信仰心があってもなくても同じなのかもしれないと思った。

子どもがいなくても、友達の家に泊まっているのだと納得してしまう親……

 校門の前まで来ながら、叫ぶ娘に気づかず、行ってしまう親……

 わたし自身、レナの記憶はあったけれど、赤い手紙が来るまでは部屋でうたた寝していたし、部活にも楽しく参加していた。

 この市が……フェンスの内側だけでなく、この市自体が……

 茜が強く手を握ってくる。

「大丈夫だよ。うちも茜の家も、家族なら絶対守ってくれるから」

 茜の不安をまるで自分のもののように感じながら、わたしは言った。自分に言い聞かせるためだった。

 でも、他の人は?

 ふと思う。近所の人や学校のクラスメイト、先生、そして他のわたしと全くかかわりのない人は……?

 藤田マユリが消えた時、学校の門が開いていた理由を思い出す。直接開けたのは佐々木梨歩たち三人だが、かかわったのは彼女たちだけではない。

 先生のうち誰かが、今日は鍵を閉めなくてもいいと思って閉めなかった。警察も、今日の午後三時は校門前をパトロールしなくてもいいと考え、しなかった。

 だからマユリと難波鈴音は中に入れたのだ。

 何も終わっていない。

 変わってさえいない。なんとか外に出られただけ。もう葵先輩もテツさんもいないのに……

 わたしはしがみついてくる茜の手を握り返しながら、反対方向の坂道をゆっくりと上って来る車のライトに目を凝らす。 

 雨の中でそれは、母の軽自動車にしては妙に大きく、不吉なほどに赤く滲んで見えた。



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惨校 ―学校迷宮― @AMI2001

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