第26話 ウサギ小屋(4)




「校舎の廊下を走った時と同じだ。僕が走れと言ったら、フェンスの外まで一気に走れ。茜ちゃんの手を引いて、全力で、絶対に立ち止まったり振り返ったりしないで。そして外に出たら、すぐに助けを呼ぶ。……たぶん『ウサギ小屋の戸を閉じた』からと言って、既に地上に出ているバケモノの部分までが消えてしまうことはない。だから僕たちが戸を閉じて、テツさんが最後の液を撒いて、そして僕が走れと言ったら……未央ちゃん。約束してくれるよね」

 はい、とまた言いかけて、何かが引っかかった。

「もちろん、みんなで走るんですよね」

「当たり前だよ」

 葵先輩は即答した。

「テツさんは俺と横井でなんとかする。だから茜ちゃんは君が」

「分かりました」

 葵先輩はすぐに横井修の方に顔を向け、何か思い出したのか、もう一度わたしを見た。

「二年5組の教室で僕が見たものってね……未央ちゃん」

 葵先輩はまた、数秒言いよどんだ。

「……夕食の風景だったよ。両親と僕がテーブル囲んで、普通にごはん食べてた。それ……母が家を出ていく前の、最後の夕食だったんだよね。でもその後も父は騒ぐことも怒ることも悲しむこともなく、淡々と普通に暮らしてた。僕も、わりとね。だから僕はずっと友達ができたことがなかったけれど、そういう冷たい人間だから、しょうがないかなって思ってた。でも平井翔君が転校してきた時、ちょうど読んでいた推理小説のことで話が合って、もしかしてこいつとなら……と思ったんだ。でも、翔君は階段下で、もっと楽しそうに誰かと笑ってた。だから、ああもう別の友達ができたんだ、じゃあ僕は必要ないんだと思って、黙って通り過ぎてしまったんだ。愛内レナが消えた時の状況は知っていたのに。……本池美月―ルナが言っていたことは、正しいよ」

「でも……」

 わたしは何かを伝えようとしてそう言ったが、もう葵先輩は横井修の方に向き直っていて、わたしの声は届かなかったようだった。

「絶対目を開けて下を見るなよ」

 そう横井修に念押ししながら、葵先輩の姿が溝の中に沈む。

「俺が押して、おまえが引くんだよな。しかも目をつぶって。うへぇ、絶対無理な気がする」

 横井修も、情けない声を上げながら溝の中に身を沈めた。


 でも……


 わたしは、何を伝えようとしたのだろう。

 葵先輩の合図があったら、すぐ走りだせるように茜の手を握り直しながら、わたしは考えてみた。

 葵先輩は……冷たくない。

 そうだ。それだ。先輩のお父さんがどうしてそんな態度だったのか私には知る由もないが、少なくとも葵先輩は、冷たくない。自分でどう思っているとしても、絶対冷たい人じゃない。たまにイジワルかなと思うことはあるけど、ここまでなんと生き延びることができたのは、やはり先輩と一緒にいたからだ。領仙修吾がもう少しでわたしに飲ませるところだったお茶のペットボトルを押さえて止めてくれたのも、葵先輩だ。友達がいないなんて、もう、どうしてそんな突き放したことを言うのだろう。わたしから見れば、テツさんも横井修も、わたし自身も、みんな葵先輩の友達だ。少なくともわたしはそう思ってほしい。

 そうだ。それを先輩に伝えないと。


 でも……


 でも、それを伝えるのはフェンスの外に出てからの方がいいと思った。なぜなら今は、それどころではないからだ。フェンスの外に出られる最後のチャンスだ。ここに来るまでにわたしたちはたくさんの仲間を失った。今、脱出以外のことに使う時間はない。

 でも、それならなぜ葵先輩は、その貴重な時間を使ってまで、わざわざ自分が見た光景のことをわたしに言ったのだろう。今まで何度も言う機会はあったのに、結局言わなかったことを。

もしかして……今しか、言う時がないから?

 だってここから本当に生きて出られるかどうか、誰にも保証なんてない。

 だとしたら、やはりわたしも今言った方がよくない? 

「先輩……!」

 あせって溝のそばに駆け寄ろうとして、わたしはまたぬかるみに叩きつけられた。なぜか足が上がらず、バランスを崩してしまったのだ。

「ひっ……」

 見下ろしたわたしの両足首を、どろんとしたぬめりに包まれた血だらけの手がつかんでいた。

ぐちゃっ ぐちょっ ぬぽっ

 手は私の足を這い上って来る。手の付け根には目玉がぶら下がっていた。……どこかで見た気がした。濃い黒髪が貼りついた目玉。茜と同じ黒髪の……!

「いやあああああああっ!」

 わたしより早く、茜が絶叫した。茜の腰に誰かの両腕が回り、しがみついていた。両腕はあるのだが、首も胸から下もない。茜は泣きながら引き剥がそうとするが、両腕は全く離れなかった。しがみつく両腕に引っかかったシャツの袖口の色に、かすかに見覚えがあった。

 最初にシャッターに呑み込まれた、戸田タカシ!


 ででぎょいぎゃ ででぎょいぎゃででぎょいぎゃででぎょいぎゃででぎょいぎゃででぎょいぎゃ

 ぼぐぐがれぎゃぎょ ぼぐぐがれぎゃぎょぼぐぐがれぎゃぎょぼぐぐがれぎゃぎょぼぐぐがれぎゃぎょ


 気がつくと私も茜も気が狂うほどのざわめきの中で、かつて人であったものに囲まれていた。手も足も目玉も歯も髪も内臓も骨も、すべてがわたしたちに貼りつく。


 欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい!


 死ぬんだ。

 初めて実感がわいた。こんなふうにして、みんな死んだ。これから私も茜もこうなるんだ。でも葵先輩は? 横井修は? そうだ、テツさんは?

振り向いたところで、テツさんもまたバケモノに胸まで漬かっていた。もう生きていないのではないかと一瞬思った。頭も手も垂れて、抗う様子もない。

 ダメだ、と思った時、ようやくまだバケモノに埋まっていなかったテツさんの右手がゆらゆらと上に上がった。その手にはあのペットボトルが握られている。

 手の向きがゆっくりと変わり、ペットボトルの口が下向きになった。地面に最後の液体が、音もなく流れ落ちる。

 一気にバケモノの流れが変わった。

 磁石に砂鉄が吸い寄せられるように、茜にしがみついていた腕も、わたしの足を這い上って来ていた手も離れた。液体が落ちたところに凄まじい勢いで這い、走り、グロテスクな塔を作り上げていく。

「テツさん。テツさん!」

 一番心配なのはテツさんだった。ペットボトルの液体は間違いなく人にとって毒だ。あんなにテツさん自身の近くで流したら、地面に落ちた液体は雨の中でも跳ねて、テツさん自身に振りかかっていたのではないか。いや、考えてみれば元々この雨の中でペットボトルの液体を撒くこと自体、危険だった。ペットボトルの口に残るわずかな液体が、雨と一緒にボトルを持つテツさんの手に流れる可能性は高い。だから葵先輩はこれを最後の手段と言ったのだ。

 テツさんはペットボトルを持っていない方の左手で顔を覆ったまま、立ち尽くしていた。

「なるほど、こういうことか……」

 声は普段と変わらなかった。少し疲れた感じがするだけだ。

「やっと分かったよ、翔。おまえこんなものに……」

「テツさん……!」

 覆った顔の奥に一瞬、今にも飛び出て落ちそうな、領仙修吾と同じ巨大な目が見えた気がした。もともと大柄なテツさんの体が、雨の中でさらに膨らんだように見えるのも、気のせいだろうか。

「何やってる。最後のチャンスだ。さっさと逃げろ!」

 溝から這い出しながら、横井修が怒鳴った。もちろ逃げないといけないのは分かっていた。分かっていたが……

葵先輩も続いて溝から出てくる。

 蓋は動いたの? 閉じられたの……?

 しかしそれを聞くことは出来なかった。先輩がわたしを見て叫んだからだ。

「未央ちゃん!」

 走り出しながら、先輩がわたしの肩をドン、と強く押した。次に背後から聞こえた一言は、絶叫だった。

「走れぇっ!」

 頭の中が真っ白になった。本当に走っていいの? テツさんは本当に大丈夫なの?

しかし実際のわたしは一瞬目を閉じ、そして茜の手を引き全力で走りだした。

 テツさんのことも、葵先輩に言いたかったことも、もう頭から消した。だってもうわたしは、走り出したのだから。もうフェンスの外というゴールに向かって、ただ頭を真っ白にして走るしかないのだから。何があっても振り返らない。そう葵先輩と約束した。

 大丈夫。大丈夫だ。わたしと茜の後ろに、まだ走る音が続いている。きっと全員助かる。私たちはここまでなんとか生き延びた。そうだ。地面から噴き出してくるものも確かに少ない。動きも鈍い。確かに全力で走ればなんとかなる。絶対みんな助かるに決まってる。だから後で葵先輩と話すチャンスは必ずある!

 なのになぜ、涙が両目から溢れて止まらないのだろう。

 わたしに走ると約束してくれと言った時、葵先輩が言うことの何が引っかかったのかは、分からなかった。

 なぜ先輩が記憶の話をわざわざしてくれたのか、分からなかった。

 分からないまま、それでも自分に向かって叫び続けた。

 走れ、走れ、走れ!

 転びそうな茜の手を握りしめて、泣きながら走った。フェンスの入り口が近づく。でもゴールはその外にある。振り返ってはダメ。スピードを緩めてもダメ。

 だって葵先輩と約束したから!


 レナ。ごめんね。

 あたし、今日レナの一番近くまで来てたよね。でも本当にレナと再会するのは……もう少し先でいい?


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