第25話 ウサギ小屋(3)




「いやだぁぁ、お姉ちゃん、行かないでぇぇっ!」

 まるで……麺かパスタが機械から絞り出されるように難波鈴音であったものが溝を塞ぐ金属蓋の格子から落ちていくのを、わたしはぬかるみの中に座り込んだまま、ぼんやり見ていた。

 こんなこと……あるはずがない。何度も見た光景なのに、まだそんな考えが浮かんでしまう。マユリが消えた後、難波鈴音が話したマユリが消える時の様子を、大人も警察官も全く信じなかったそうだ。信じられるはずがない。そんな……人間が溶けたアイスのように、金属の格子から下に……

 あるはずがない。もちろん難波鈴音が生きていられるはずがない。しかし茜は諦めていなかった。最後まで蓋の上に残った姉の手首を握ったまま叫び続けていた。

「あたしが悪かったって言ってるでしょ。あたしだって大変だったの。あの時だって後で何度も謝ったじゃない。言い過ぎたって。だから、謝るから、あたしを置いて行かないで! 困るの。お姉ちゃんがいないと!」

 茜は泣きじゃくり始めていた。

「あたしみたいなダメ人間が、せめてもう一人くらい近くにいてくれないと……」

 無我夢中で茜を後ろから抱え込み、難波鈴音から引き離すのに、何とか成功した。茜は絶対姉の手首を離さない気がしたが、誰かが手を差し伸べて茜の手を剥がしてくれた。引いていた勢いのまま、地面のぬかるみに二人で背中から倒れ込む。

 手を貸してくれたのは葵先輩だった。わたしたち二人を見下ろして、肩で息をしている。最後まで残っていた難波鈴音の手首が、ぐにょん、と格子の中に引き込まれるのが見えた。


 がぎゅ~ぎ~……ぼぎゅだいごぎゅうぐ~

 がぎゅ~ぎ~ぼぎゅだいごぎゅうぐ~がぎゅ~ぎぼぎゅだいごぎゅうぐがぎゅ~ぎぼぎゅだいごぎゅうぐ~


 マユリ、もう大丈夫……


 とにかく、茜まで連れていかれずに済んだ。

 そう思った。全く別の方向からアイラの声が聞こえてきたのは、その時だった。

「なんだ、おばあちゃん。こんなところにいたんだ……」

 ぼんやりと顔を向けると、アイラが少し離れた場所にいて、地面を見つめ、呟いていた。

「ずっと待ってたんだよ。早く迎えに来てくれないかなって……」

 ちょうどそこだけ地面が一段高く盛り上がって、土に亀裂ができていた。隙間ができていた!

「ダメ、アイラ!」

 わたしは立ち上がろうとして、ぬかるみの中で滑り、転んだ。アイラはクスッと笑った。雨で彼女の笑顔の頬を、涙がこぼれ落ちているように見えた。

「おばあちゃん、もうあたし、疲れたよ……」

 一番近くにいたのは横井修だった。横井修はアイラを地面から引き離そうと手を伸ばした。それより早く、亀裂の間から伸びた細長いスライムが、蛇のようにアイラの首に巻きつく。


 ぐぎょっ……!


 アイラの体が跳ねた。一瞬で頭から胴体の半分ほどが地面にめり込んだ。


 ずぼっ……ぐきゅっ……ごぶっ……


足の先まで没するのに数秒掛からない。

「ひっ……ひぁ……」

 横井修は両手を伸ばしたまま、亀裂を眺め、それから両手で自分の頭を抱え込んだ。

「うわ……わわわわああああああっ!」

 わたしや茜、葵先輩も、ただそれを見ていただけだった。叫ぶ気力もなくなっていた。ただ、体が重い。そばに来ていたテツさんさえ、ペットボトルを指先に引っ掛けたまま、ぼんやりと立っているだけだ。


 ぼぐぐがれぎゃぎょ ぼぐぐがれぎゃぎょぼぐぐがれぎゃぎょぼぐぐがれぎゃぎょぼぐぐがれぎゃぎょぼぐぐがれぎゃぎょ


「ペットボトルのそれ、あと何回使えそうですか?」

 葵先輩がテツさんを見上げ、尋ねる。テツさんは立っているのも辛いのか、膝に自分の手を置いてうつむいたまま、ペットボトルを眺めた。

「……あと一回が、限度かな」

「じゃあ、やはり急がないと……」

 葵先輩は独り言のように呟き、溝をまたぎ、つい今しがた難波鈴音を呑み込んだ金属製の格子の蓋に指を掛けた。

「危険ですよ」

 思わずわたしが言うと、葵先輩は下を向いたまま、笑った気がした。

「危険だよ。一応目をつぶったままやってるけど。でも……危険なことでもやらないと、後がないから」

 蓋は一瞬浮いたが、やはり先輩一人の手には余る重さのようだった。

「横井。手伝え」

 葵先輩の声に、まだ頭を抱えていた横井修が顔を上げる。また何か憎まれ口でも叩くのかと思ったが、無言で葵先輩と向き合う位置まで歩いて来て、格子の蓋に手を伸ばした。

「絶対に溝の奥を見るな」

 葵先輩が声をかけ、二人で蓋を持ち上げる。金属製の蓋を脇にずらして置きいてから、ようやく横井修が口を開いた。

「本当にここなのか? 別に何も変わっているようには見えねえけど」

「いや、ここだよ……」

 横井修には「見るな」と言いながら、葵先輩は溝の奥を見透かすように眺めていた。

「蓋が比較的新しい金属製だし、五年前の3件の失踪事件のうち、ここで起きた最後の事件が一番計画性を感じる。ここは、確実な場所なんだ。それに周りを見てみろ。……ここの地面が一番盛り上がってる。見えにくいけど、溝の底にもほとんど水が溜まってないだろ?」

 そう言いながら、葵先輩は膝上までの深さがある溝の中に下りた。底を探るように足を動かす。

「この辺りだよ。さっき光が見えたんだ。見てはいけない光だけどね。あの光がたぶん……あっ!」

 葵先輩の体がいきなり胸まで溝に沈んだ。

「先輩!」

 わたしは仰天して叫んだ。葵先輩まで引き込まれたのかと思ったのだ。

「葵、おい葵!」

 横井修も焦った声で叫ぶ。わたしが絶望で泣きそうになった時、ゆっくり葵先輩は溝の両端に手を掛けて体を起こした。

「ここだ……」

 拍子抜けするほど冷静な声だった。

「おま……びっくりさせんな」

 横井修がよほど驚いた顔をしていたのか、見上げた葵先輩は珍しく声を上げて笑った。

「びっくりするのはまだ早い。おまえも溝の中に下りて、『ウサギ小屋の戸を閉じる』のを手伝ってもらう」

 ええ、と横井修は嫌な顔をしたが、口の中で何か文句を言いながらも溝の中に足を入れた。

 これまでなら葵先輩と一緒にこういうことをするのはテツさんだった。でもテツさんはこれまでの疲れが一気に襲ってきたのか、片膝を地面についてうつむき、上体を支えるのもつらい様子だった。苦しそうに肩を大きく上下させている。

 もうあまり時間がない気がした。バケモノがたかって出来ていた巨大なタワーも徐々に崩れていく。あれが完全に崩れたら、次に襲われるのは間違いなくわたしたちだ。

 葵先輩は笑っていたが、その笑顔にも緊張が滲んでいるのが分かる。

「ここに来て少しだけ中を覗き込んでみろ。少しだけだ」

 葵先輩に言われて、横井修は顔を引きつらせながら、葵先輩の指さす溝の底に顔を近づけた。

「わっ!」

 いきなり葵先輩に突き飛ばされて、横井修が声を上げて飛び退く。

「な……なな……何だ何だ、今の! なんでタカシもシューイチも普通に……」

 まだ口をパクパクさせている横井修を、葵先輩は興味深げに眺めた。

「今見たのがたぶん……おまえが一番戻りたかった、幸せな時間なんだろうな」

 一番戻りたかった時間。

 それがわたしにとってはレナに出会ったあの時なのだと、二人の会話を聞きながらぼんやり考えた。それなら、葵先輩が教室で見たのは、結局何だったのだろう。わたしは何度も葵先輩に聞こうとして、葵先輩は何度かそれに答えようとして、でも結局まだ聞けていない。今考えることではないのだろうけど、でも……

 わたしは一瞬だけ、現実に引き戻された。

 もし無事にここから出ることができたら、次に学校で会う時はもう、わたしはもう葵先輩と気安く話すことも、近づくことさえできないんだろうな……

 横井修は焦りを鎮めるように、深呼吸した。

「で……お、おい。どうやったらこんなうぜえもの『閉じる』ことができるんだよ」

 ふふん、と葵先輩は笑った。

「簡単だ。今おまえの足が溝の中で乗っている一段高い岩盤みたいな部分。それが蓋だ。たぶんそれをずらすことによって、領仙修吾はこの下のバケモノの染み出しをコントロールしている。つまりこの真下にあるのが、本池美月―ルナが言っていた、あの白い石なんだよ。そしてこの学校が建っているこの丘自体が……その白い石と肥大したバケモノによって出来上がっている。人を呑み込むたびに大きくなって、かつての窪地を丘に変えたバケモノだ。どれほどの人間を呑み込んだらそんなことが可能なのか、知らないが」

「え……これが蓋?」

 葵先輩に指さされた溝の底を足で確認していた横井修が、いきなり変な声を上げた。

「いや、無理。ムリムリムリ……これだろ? びくともしねえ。一トンはあるぞ。絶対動かねえ!」

 横井修の言葉を聞いて、また葵先輩が笑い出す。先輩はこの不躾な横井修のことを気に入っているのだなと感じる。これほど図々しい態度で葵先輩と話せる中学生は、まずいない。

「一トンはないよ。重機でしか動かないようなものは目立つし、機動性に欠ける。たぶん大人二人くらいでなんとか動かせるくらいの重さじゃないかな。この溝に入れるのも二人くらいだし」

「いやいや、俺もおまえも大人じゃないし……それに……」

 横井修の声が急に低くなった。

「……大丈夫なのか」

 え……? よく聞こえなかった。

「全然、大丈夫だよ」

 葵先輩は答え、それからゆっくりとわたしの方に顔を向ける。

「それから、未央ちゃん」

「は、はい」

暗い中で雨に打たれている先輩の表情はよく見えなかったが、じっとわたしを見ているのは分かった。

「未央ちゃんにも手伝ってもらうことがある。これはもう、今となっては君にしか頼めないことだ」

「……はい」

 わたしは横で放心している茜を、後ろで両膝を地面についてうずくまっているテツさんに目を遣り、葵先輩の方に向き直った。

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