第24話 ウサギ小屋(2)
葵先輩はわたしたち全員を見渡した。
「あのペットボトルの液体を浴びた領仙修吾が外に出て、バケモノを最大限活性化させるための最後の一押しをしてしまった気がする。古橋愁一は普通に走ってフェンスにたどり着くことができた。ユウキと老人も外に出られた。でも今はどう考えても」
「ハイハイ、俺が一番悪いってことね。すみませんね」
横井修が面白くもなさそうに言う。葵先輩は笑って首を横に振った。
「いや、逆だよ。僕たちの一人でも何も知らずお茶を飲んでいたら、もっと悲惨なことになっていたのは間違いない。ヤツは僕たち全員、生きてここから出す気はなかった。それが確認できただけでも良かった。それにヤツが外でとんでもないバケモノの姿を明示してくれたおかげで部下も逃げ、今なら、フェンスの扉にたどり着くだけで、多分外に出られる。が……」
葵先輩は迷惑そうに眉をひそめた。
「問題は、領仙修吾は一人じゃないということだ。彼以外の一族も彼のような考え方なら、今回の実験を外に漏らさないよう、まだ生き残っている僕たちを外に出さないために、つまり絶対に鍵を閉めに戻ってくるだろう。それまでに多少の危険を冒してでも外に出なければならないが……僕が一番気になっているのは、領仙修吾が最後のあたりに言った、『ウサギ小屋の戸をまだ閉めていないのに』というところだ。五年前は数か月の間に大人も含めて五人が消えた。しかし今回は、わずか数時間のうちに六人。その原因が、たぶん『ウサギ小屋の戸が開いている』ことなのだと思う。閉まっていれば、バケモノは何かの隙間からしか人を引きずり込めない。でも短時間の実験では、効率が悪いと考え、普段はバケモノの力をコントロールするために閉めている、ウサギ小屋にある何かの戸を開いて、直接襲えるようにしたのだろう。そして出てきたバケモノはウサギ小屋の前に広がる校庭に染み出し始める。フェンスに登った古橋愁一には、正面口の中にいた僕たちには見えないウサギ小屋の様子がよく見えたはずだ。距離も近かった。彼にはあの声が聞こえたんじゃないかな。そして染み出してくるあれを見てしまった。そう考えると、職員室に向かった時……僕たちはかなり運が良かった。あのルートはたまたまウサギ小屋や校庭とは真逆の方向で、まだバケモノに侵食されていなかった。だから僕たちは、直接バケモノに鉢合わせずに済んだのだと思うよ」
しかし今は違う。フェンスの扉に向かうには、あの領仙修吾が地面から染み出してきたバケモノに呑み込まれた校庭を、横切るほかない。
「つまり……その戸を閉めないと、俺たちは外に出られないってことか?」
横井修が仏頂面で言う。葵先輩は首を横に振った。
「いや。そこまでは必要ない気がする。戸がどういうものか分からないし、何より危険すぎる。それより、僕たちがフェンスの外に出るまでバケモノの気を逸らしておく方が現実的だ。つまり、これを使ってね」
そう言いながら、葵先輩があの白いナンバープレートを何個かポケットから取り出して見せたので、わたしたちは全員飛び退いた。
「せ、先輩!」
「それ持ってたら、バケモノが寄って来ますよ!」
わたしと茜が叫ぶと、先輩は苦笑いしながら、手の上でそれらを弾ませた。
「距離があるうちは大丈夫だよ。……でも、こんなもの持っていてもいなくても、いずれあのバケモノは、ここにも来る。時間の問題だ。だからなるべく早く、少し大回りになるけど、職員室寄りのルートでフェンスに向かい、その後はフェンス沿いに扉に向かう。襲ってきた時はこの白いプレートを遠くに投げて、そっちを襲わせる。……ただ僕も急いでいたし、どういう方法で逃げるか会議室を出る時はまだはっきり決めてなくて、持って出られたナンバープレートは3個だけ。これで完全に防ぐことができるかどうかは、分からない。また犠牲者が増えるか、最悪全員アウトかもしれない」
「でも、待っていても再度鍵をかけられたら、さらに絶望的な状況になるだけなんだろう?」
廊下の壁にもたれていたテツさんが言った。
「だったら今すぐやるしかないんじゃないかな。それに思い出したんだけど、俺も……」
そう言いながら、テツさんは背中に回していた手を前に差し出した。その手には、例の緑茶のペットボトルが握られている。
「なんとなく、役に立つかなと思って……」
「ひっ!」
「うわわっ!」
わたしも茜もアイラも悲鳴を上げ、テツさんの近くで寝転がっていた横井修も飛び起きて、走って逃げた。
「大丈夫だよ。まだ蓋は閉まってるから」
テツさんが頭をかき、なだめるように言う。
「じゃあ……そのお茶はかなり効果が強そうだから、最後の手段ということで……」
葵先輩はまた苦笑いして言い、外を見る。
「じゃあ……またちょっと雨が強くなってきたんだけれど、みんな……いいかな」
全員学校の外に出た。まだ軒下にいるが、もう数歩踏み出せばすぐにずぶ濡れ状態になるだろう。でもあのフェンスの向こうまで行けば、助かるのだ。
葵先輩がわたしを見たので、うなずいた。茜がわたしの腕を握る。アイラと横井修、一番後ろにテツさん。
「じゃあ……」
葵先輩が雨の中に一歩踏み出そうとした時だった。
「待て、葵」
テツさんが息を呑み、言った。
「フェンスのところ、誰かいる……!」
えっ……
わたしも茜も、暗い雨の中に目を凝らす。
本当だった。フェンスの扉の向こうに黒い影が動いている!
「くっそ、もう戻ってきたのかよ!」
横井修が吐き捨てるように言う。
でも……何か妙な気がした。車の影は見えない。人の動きもおかしい。猫背で、なんだかのろのろしている。大きさも大人ではなく、もっと小柄なような……
ふいにフェンスの扉がガシャンと音をたてて開いた。
「お、おい……あいつ入ってくるぞ」
横井修がぽかんとした声で言った。確かにその人影はよろよろしながら中に入ってきた。逃げて行った領仙修吾の部下なら、絶対に入ったりしないはずだ。一体……
「お姉ちゃん……」
茜がかすれた声で呟いた。
「え?」
「お姉ちゃん、ダメだよ!」
振り返った時にはもう、茜は雨の中に走り出していた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
ウサギ小屋の近くまで行った人影―難波鈴音に、ようやく茜が追いつき、引き返そうと腕を引っぱる。人影は思いのほか強い力で茜を突き飛ばした。
「無理だよ、お姉ちゃん。もうマユリちゃんはどこにもいないよ!」
茜が叫んでも、まったく難波鈴音はたじろぐことはなかった。真っ直ぐウサギ小屋に進んでいく。その足元にはもう無数の手がまとわりついているのが、遠くからでも分かった。茜は突き飛ばされて地面に手をついてしまったので、なおさらだ。立ち上がった茜の両手にも足元にも、どろどろとしたスライム状のものが貼りついている。動こうとしても大量のスライムに阻まれて、もう姉を追えなくなっている。
「茜……!」
気がついた時には、わたしは雨の中を走り出していた。
「助けて、未央!」
泥だらけになって絶叫している茜に手を伸ばす。やっと引っぱり起こしたと思ったところで、両足首に大量の手がぬるりと絡みつくのを感じた。あかねもろとも、ぬかるみの中に倒れこむ。腕をつかまれた。喉も押さえられた。
「ぐあっ」
助けて、と叫ぼうとした口の中にも、人の指のようなものが容赦なく入り込んでくる。吐きそうな臭いが口の周囲に広がる。痛い。口が裂ける。窒息する!
「未央ちゃん。茜ちゃん!」
体中を押さえ込んでいた感触が、いきなり消えた。
わたしは葵先輩に、茜はテツさんに引っ張り上げられて、ようやく立つことができた。せき込みながら顔を上げると、少し離れたところに、あの領仙修吾を呑み込んだのと同じ人体部品の噴水のような巨大な塔が出来上がっているのが見える。葵先輩は珍しく早口だった。
「あのプレートを投げたんだ。一個では足りなくて三個全部使ってしまったが、とにかくこの間に外に出よう」
わたしと茜がうかつに飛び出したから……と思ったが、反省している時間はなかった。地面にはもうあの気持ち悪い手足は生えていない。正面口から残っていた横井修とアイラが、フェンスの扉に向かって走り出すのが見える。
そうだ、茜のお姉さんは……
ウサギ小屋に向かおうとしていた難波鈴音を、テツさんが問答無用で肩に担ぎ上げるのが見えた。難波鈴音はテツさんの肩で暴れながら、何か叫んでいる。
う~……ま~まあ~~う~~~い~~~!
マユリ、と言いたいのだと思った。
「急げ!」
テツさんが叫び、わたしたちもフェンスに向かって走り出す。皆ずぶ濡れで泥だらけで、酷いありさまだった。でもとにかく外に出たら、この悪夢のような時間も終わるのだ。そう思って必死で走った。
「ぎゃっ!」
一番前を走っていた横井修が悲鳴を上げて、立ち止まった。次を走っていたアイラも身を縮めて立ち止まる。
「何、どうしたの?」
言いながら、わたしもまた次の絶望的な状況が生まれていることは、すぐに理解できた。
地面のあちこちがわずかに盛り上がり、土がひび割れ始めていた。割れたところから、何かがどろんと吹き出す。何か分かった途端、吐きそうになった。
目玉、内臓、髪の毛、指先……あれだ。また、あれだ。葵先輩が投げたナンバープレートにたかっている見上げるような塊とは別の人体部品のスライムが、再び吹き出している。それに押されて、わたしたちはまた後ろに下がるほかなくなった。
「葵、彼女を押さえていてくれ」
テツさんが難波鈴音を肩から降ろし、ペットボトルの蓋を開ける。葵先輩が、一瞬息をのんだ気がした。
「自分に掛けないよう……気をつけて」
葵先輩の忠告に頷きながら、テツさんがわたしたちから数メートル離れたところに狙いを定め、液体を撒く。
結果は分かりやす過ぎるものだった。
新たに噴き出していたバケモノも、プレートにたかって巨大な塔を作っていたバケモノも、一気にテツさんが液体を撒いた辺りに突っ込んでいった。一瞬で校舎より高いバケモノの塔が出来上がる。
「よっしゃ、今のうちに……」
走り出そうとした横井修の動きが止まった。
また新たなバケモノが地面から染み出し始めていたのだ。その量はさらに多く、染み出すスピードも速まっている。液体を撒けば、一時的にバケモノを集めることはできるが、バケモノ全体はさらに活性化するだけなのではないか。
「きりがない。テツさんのペットボトルもすぐに空になるだろうし。結局……面倒でも元をどうにかするほかない、ということか……」
葵先輩が暗い天を仰ぎ、珍しく感情を滲ませた声で呟いた。その感情は、絶望だった。雨に打たれながら、急に体が重くなってくるのを感じる。葵先輩でさえ嘆くのだ。一体いつになったら、この堂々巡りのような悪夢から、わたしたちは逃れることができるのだろう。
「ウサギ小屋に行くのか?」
テツさんが少し疲れた声で尋ねる。葵先輩は無言で頷いた。テツさんが、再び慎重に位置を定めてペットボトルの液体を撒く。
「あっ!」
滲み出ていたバケモノがどっと液体に飛びついた直後、葵先輩の手を振りほどいた難波鈴音が、止める間もなくウサギ小屋に向かって走り出した。わたしたちも後を追う。
元々重かった足取りは、ウサギ小屋に近づくにつれ、さらに重くなった。理由は明らかだった。ウサギ小屋までの道のりが、なんとなく坂道なのだ。しかし、ウサギ小屋は校舎の端に建てられていたが、いくら思い出しても平坦だった記憶しかない。たった数年のうちに地形が変わることがあるのだろうか。そういえば本池美月―ルナも同じようなことを言っていた気がする。
ここは……この学校の下は、一体……
ま~まあ~~う~~~い~~~!
い~~ま~~た~~~く~~え~~~~!
難波鈴音は、今はもう何もいないウサギ小屋の前で、溝に向かって叫んでいた。
「お姉ちゃんやめて! そんなところに、もうマユリちゃんはいないよ! そんなところ覗き込まないで!」
茜が走り寄り、後ろから難波鈴音の肩と腕を引っぱりながら、金切り声で叫んでいる。
そうだ、危険だ。
慌ててわたしも茜の横に行き、難波鈴音を溝から引き離そうと引っぱり始めた。すぐに葵先輩も来てくれる。
すごい力だった。三人でどれだけ引っぱっても、難波鈴音は溝から顔を離そうとしない。そして彼女の覗き込んでいる溝の奥を、どうしても私も覗き込んでしまう。
ふいに雨音が遠のいた。
光……が見えた。溝に流れ込む雨に何かが反射しているのではなく、燦々と降り注ぐ春の光。
わたしはこの光を知っていた。
ルナに初めて会った日、教室に降り注いでいた光だ。まるでずっと仲良しだった親友を見るように、偶然隣の席に座ったわたしに微笑みかけてくれた、あの日。
わたしが一番幸せだった……
「目をつぶれ!」
葵先輩が、飛び上がりそうな大声で怒鳴った。雨音が一気に戻ってくる。
「引き込まれるぞ!」
その直後、わたしが引っぱっていた難波鈴音の二の腕が、するりと軟体動物のように形を失い、両手の中をすり抜けた。
ごぎゅ……っ
茜が絶叫した。
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