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「ほら起きて」
朝六時。咲香が俺の顔を叩く。彼女が俺の家に住み始めてから二週間近くが経った。元々お互いに一人暮らしをしていたため、生活の仕方にズレがあって苦労するかと思っていたが、そこまで苦労していない。咲香が私に合わせてくれているのか、それとも俺が大雑把&適当な人間なので、彼女が何かしても気になっていないだけなのかわからないが、本当に苦労していないのだ。男女の関係にもならず、ただの友達として彼女のわがままに振り回された二週間。今日もまた、彼女のやりたいことに付き合う日なのである。
「水族館に行きたい!」
咲香がそう言ってきたのは昨日のことだった。彼女に〈七二〇時間〉をあげた俺に拒否権はない。俺は開かない瞼を冷たい水で強引に開ける。そのまま髭を剃り、髪の毛を直して服を選びに行った時には、咲香はまたベッドで眠っているのであった。
「おい、水族館行くんだろ? 準備しろって」
やっぱり咲香に六時起きは難しい。俺はそう言ったのだが、彼女が譲らなかった。よって俺は悪くない。時間はそろそろ六時三十分。彼女の頭の上には〈三七二時間〉の表示。今日で彼女にあげた時間の半分を消費する。残り〈三七二時間〉で彼女は死ぬ。俺の待ち望む瞬間がもうすぐ来る。まだ彼女に悟られていないこの気持ち、この感情。全ては最高の一瞬を作り出すための準備に過ぎない。
「おい、咲香」
「起こして」
「自分で起きられるだろ」
「起こしてよ」
いつものいたずら心の宿った目ではなく真剣な瞳。俺は渋々彼女の右手を握って引っ張ろうとした。が、彼女に引っ張られて体勢を崩し、押し倒す形になってしまった。何かを話して雰囲気を濁さないと。そう思っていたがこの状況をどうしていいのかわからず、声を発することができなかった。俺を引っ張って倒した張本人である咲香は俺に抱きついており、離そうとしない。
「ん、安心する」
突然何を言い出すのだ。この女は。俺は落ち着いて咲香を引き剥がそうとしたが、これがなかなか剥がせない。
「もう少しくらい、いいじゃん」
「上に行った時、舞美に殴られるぞ」
「同棲してる時点で殴られるのは確定してるし。これ以上やっても一緒」
こいつはそういうやつだった。
「まだきちんとキスしてないし、手を出してないだけ偉いでしょ」
「はぁ」
そういうことではない。俺は咲香をなんとか引き剥がして準備させる。結局、家を出たのは8時近くだった。
「着いたー!」
水族館に到着してすぐ咲香は走り出す。まるで犬のように。約二時間の運転ですでに疲れている俺は、彼女を追いかけることを諦めた。
「早くいくよ! 時間がないんだから!」
そういうなら、なぜ早く準備をしなかったのだろうか。咲香は俺の手を握ってひっぱっていく。普通に運動ができる彼女に追いつくのがやっとだった。入り口に着く頃には息も上がっていて、さらに疲労感が押し寄せてくる。
「はいこれ」
俺が膝に手をついて息を整えていると、彼女からチケットを渡される。いつの間に買っていたのだろうか。前売り券なところを見ると、俺が寝ている間にでも買いに行ったのか? この二週間、俺が起きている間はずっと一緒にいたから、それ以外考えられない。
くだらないことを考えていると、咲香は俺に腕を組んできた。
「ふふっ、カップルみたいだね」
「他の人から見たら、カップルだろうな」
それと同時に、俺への哀れみの目を向ける輩が一斉に増えた。咲香の頭の上に書いてある〈三六七時間三十五分十二秒〉の文字。これを見たら残り少ない彼女との思い出作りに水族館に来たと勘違いされていてもおかしくないだろう。咲香だってこのくらい予想できるはずなのに、どうして俺と腕を組んだのだろうか。ちらっと彼女の顔を見た時、満面の笑みを浮かべていたところを見ると、からかい……遊び心の部分が大きいのだろう。俺はいつも彼女の遊び心にいつも踊らされてばかりだ。
「この子、綺麗だね」
「どれだ?」
「この子だよ! この子!!」
暖かい地域の水槽はどの子も綺麗な魚のため、咲香が必死に水槽のガラス指差しているが全くわからない。というか、ずっとこの子としか言わないのも問題だと思うけども。
「なんか特徴を言ってくれないと困るんだが」
「あの、ピンクと黄色のツートンカラーの子!」
「そう言ってくれたら一発でわかっただろ」
俺の目の前を颯爽に泳いでいくピンクと黄色がはっきり分かれた魚。名前は【バイカラードティーバック】らしい。
「派手だな」
「派手だね」
彼女は水槽の中を真剣に見つめている。こうやって何かに夢中になっている姿は幼子を見ているような気分になる。俺と同い年なのだからこんなことを言ったら失礼なのだけれど、何かこう可愛げというか何というか言葉では表現できない気持ちになる。
熱帯地域の水槽からさらに奥、彼女に手を引っ張られて向かった先。
「わぁ……」
目の前に広がる大きな水槽。中では魚が群れを作って泳いでいた。大きな魚も泳いでいる。目をキラキラさせて水槽を見つめる彼女。俺も思わず見惚れてしまった。しばらくして、咲香が小さな声でこう言った。
「死を考えないで生きることができるって羨ましいな」
本当に小さい声であったが、確かにそう聞こえた。思い返してみれば、十年前から今日まで死を意識しない日はなかった。街中を歩けば誰かしら時間が短い人がいた。俺なんかは意図して探しに行っていたから尚更だった。この数字が現れる前は死ぬことなんて考えたこともなかったのに。時間が0になって、目の前で消えていく命を見て、人はこんなにも簡単に死ぬのかと思った。
「十年も経てば、この数字だって当たり前になるけどさ。本当は異常なんだよね。他人の死ぬ時間も、自分の死ぬ時間もわかるなんて」
水槽の前に置いてあったベンチに座る。本当は聞こえていないふりをしたかった。けれど、できなかった。彼女に失礼だと思ったから。いくら咲香といえ、だ。
「君は目の前で舞美が死んだ時、どんな気持ちだった?」
正直に言えば興奮だった。怯える顔が、それでも強がっている舞美がすごく綺麗に映った。
「悲しかった。ただただ悲しかった」
だけど、本当のことは言えない。そう、咲香の死もすぐそこまで迫ってきているのだから。
「私もそう。悲しかったよ。始めからそう決まっていた運命だとしてもね」
「どういうことだ?」
「これはさ。私なりの解釈なんだけど、人間って生まれてから死ぬまで何をするか始めから決まってるんじゃないかなって思うんだ。今まで私たちがやってきたこともこれからやることも、生まれた時に神様が始めから決めていたこと。だから」
咲香の顔が近づいたと思ったら、唇に柔らかい感触。
「これも始めから決められていたこと」
「……」
「私たちがどれだけ自分で決断していると思っていても、私たちがどれだけ努力して成功しても、それは自分のおかげじゃなくて神様が決めたこと。どれだけ神頼みをしても、決められた運命からは逃れられない。決められたレールの上を私たちは歩くだけなの」
彼女の視線は泳ぐ魚ではなく、どこか遠くを見ている。
「でもね、レール上でどうするかくらいは決められる。楽しんだもん勝ちなんだよ」
咲香と目が合った時、彼女はニコッと笑った。その笑顔が俺の脳に、記憶に酷くこびり付いた。
水族館から出ると太陽は沈みかけており、あたりは赤く染まっていた。俺たちは何も言わず、二人で近くの海に向かっていた。
「楽しかったね」
「楽しかったな」
それ以外の会話はなかった。十二月の風はとても冷たく長くはいられそうにない。
「あははっ、思ったより寒いや」
彼女がおどけてそう言った。俺はそれに何も言えなかった。数時間前にあんな話を聞かされた後だ。何を言えばいいのかさっぱりだった。
「ねぇ」
「なんだ」
「今日一日過ごしてわかったことない?」
そんなことを聞かれても途中からそれどころではなかったからわかるわけがなかった。俺は首を横に振った。
「まったくー、鈍いなぁ」
咲香は先へ進んで行ってしまう。
「何だよ」
「一回しか言わないからね。よく聞いててよ?」
流石にそこまで鈍くはないと思っている。この流れは
「私と付き合ってよ」
告白される。
「半月前に彼女を亡くした傷が癒えていないのに、さらに傷を負わせる気か?」
「わかってる。でも、私も君のこと好きだったんだから。最後くらいいいじゃん」
「お前はいいかもしれないけど、俺はその傷を背負って生きていかなくちゃいけないんだぞ?」
「それもわかってる」
いつも以上に真剣な表情で俺を見つめる。
「……すぐに答えを出さないとダメか?」
「あと〈三六二時間〉しかないんだけど?」
遠回しに答えを言えと言われている。今、ここで。深呼吸して気持ちを落ち着かせる。一旦冷静になる。俺の気持ちなんてどうでもいい。最高の最期を演出するために行動すればいい。そうだ。俺がここで選択すべき行動は。
「こちらこそよろしく頼む」
「やった」
彼女のわがままに付き合うことだ。
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