第5話 雨降ってまだ降る

 リアに案内されるまま、ベイブなる老人の元へ歩を進める。トマスと一緒に入店したときと比べると、少し店の雰囲気は物々しくなっていた。先ほどまで楽しそうに歌っていた漁師たちは壁向きの長椅子席で窮屈そうに横並びで酒を飲み、陽気な旋律を奏でていた吟遊詩人も今はバラード調の演奏で、哀愁と寂寥感を店内に蔓延させている。

 そして、どのテーブルも警戒心と後ろめたさに満ちていた。ボソボソと同じテーブルに座る相手にしか聞き取らせないように抑えた声量で会話し、他人が近づくと、ピタリと会話をやめ、通り過ぎるのを待ってから再び話始める。どこか夜の公園の虫のさざめきじみた後ろめたい秘密と疎外感を感じる店内ホールをようやく抜け、カウンターへとたどり着く。

 夜も更け、ろうそくの明かりだけがともる仄暗いカウンター席に座る大柄な老人の背中をまじまじと見つめる。

 本当は声をかけなければならないのだが、老人の背中から発せられる無言の威圧感がそれを阻み、ただただ見つめることしかできなくなってしまったためだ。

「ベイブおじいちゃん!さっき話したアキラさん!おじいちゃんのとこで働きたいんだって」

見かねたリアが助け舟を出してくれた。

リアに感謝しながら、好印象を与えるべく元気な声であいさつをする。

「初めまして、ベイブさん!アキラと言います。鍛冶仕事は経験ありませんが、精一杯言われたことを守り、毎日真面目に仕事をさせていただき、一人前になれるよう努力していく所存です!よろしくお願いいたします!」

30度の敬礼を意識し、しっかりと腰を曲げ精一杯の敬意を表す。

 チラリと、ベイブおじいさんの方に目をやると、彼はこちらを見ることなく、無言で自分の左隣の席を叩いて、座るように促した。テーブルには水が入ったコップが既に置かれている。

「失礼します……」

恐る恐る隣に座ると汗と油が混ざった匂いが鼻をくすぐる。

 隣に座る老人の精悍な眉毛とサンタクロースのように生え茂った髭は間違いなくおじいちゃんを象徴していたが、その表情と肉体はあまりにも愛嬌がなく無骨だった。何十年にもわたって火に向き合ってきたためか、目はほとんど開いておらず眉間の皴も相まって常に険しい表情で焼き固められており、手の皮は腫れたように分厚く、左の親指の爪がなかった。

 ベイブおじいさんは相変わらずこちらを見ないまま、髭を上下させて地鳴りのような声を響かせた。

「……粗末な鉄ほどよく響く。良い職人は『寡黙』でなくてはならん。『寡黙』とは音を上げず、文句も垂れず、争わないこと。ただひたすらに火と向き合うこと。もちろん、素人のお前さんに職人を求めてはおらん。ただ、お前さんが足を踏み入れようとしている世界はそういう場所だ。そのことを肝に銘じてほしい」

ベイブおじいさんが初めて隣に座る僕を見た。

 おじいさんの視線は瞳の中に火を宿しているかのように強く、熱く、それでいてどこか優しかった。そんなおじいさんの視線を受けたせいか、目を筆頭に顔中が熱くなってしまい、目が逸らせなくなる。

(なにか言わなくてはッ!相手の話を聞いておいて同意の言葉を発することなく、相手の目を見続けて沈黙するなど、無礼極まりない。これでは喧嘩を売っているようなものじゃないか!)

と、理性が訴えるも本能はこの状況を最も的確に理解していた。沈黙が答えであると。

 だから、言葉が喉元まで出かけても我慢することができた。途中で目の前のコップの水を飲んで逃げることもなく、おじいさんと向き合い続けることができた。

やがて、おじいさんは再びカウンターに向き直り、酒をあおった。

「よろしい――

明日ワシの工房に来なさい。リアに案内するようワシから言っておく」

乗り切った、大事な試験のようなものを突破したように思えた。

 トマスおじいさんにとって重要な何かを自分は認めてもらうことができたのだ、と。ひとまず安堵し、水をようやく口にし、飲み干し、感謝の言葉を述べる。

「ありがとうございます!ところで、私は家族を連れてこの町に来ているのですが……」

「それがどうかしたのか?」

相変わらず他人に何かを頼むのは苦手だ。他人に借りを作ってしまうということは、自分の世界の一部を他人に委ねるということ。それは弱みを握られ、支配されることに他ならない。それは非常に居心地の悪い決断だが、背に腹は代えられない。この世界で家族を養っていくために必要な犠牲だ。苦汁を飲んだ時のように吐き気を抑え、あふれる唾液がこぼれないように頼みごとを口にする。

「実は、家族の住む場所がまだ見つけられていなくて……できれば、トマスさんのところで家族と一緒に住み込みで働かせてもらうことはできないでしょうか?」

トマスおじいさんはうなり声を上げながら考え込んでしまう。

僕はただ返事を待つ。

このお互いを牽制しあうかのような居心地の悪い『間』が僕はいつも耐えられない。

「もちろん、タダで住ませてもらおうとは思っていません。家族みんなでおじいさんの生活を支えます!なので、どうか一緒に住ませてはもらえないでしょうか?」

おじいさんは深いため息をつきながら返事を返してきた。

「すまんな、アキラ。うちには家内がおる。恐らく家内はあんたら家族を泊めたがらないだろう。いや家内だけじゃない。今は時期が悪い。この町で暮らす、まともな人間なら、この時期は誰でも断ってる」

今は時期が悪い――

冒険者希望のゴロツキが集まってきている、トマスが昼間に語った言葉を思い出し、そのことについて慌てて弁明する。

「冒険者希望の旅人がこの町に集まってきていることは知っています。でも、僕たち家族は無関係です。ただここに住みたいだけ。そのことを奥様にお伝えいただくことができれば、何とか納得していただけないでしょうか?」

おじいさんは目をつむり無言で首を横に振った。

「そうじゃない。ほんの1週間前くらいの話じゃ。トマスがお前さんの時と同じように旅人の一行を町に連れてきた。男3人組だったそうじゃ。トマス曰く行き倒れのような状態だったから放っておけなかったそうでな、この店で飯を食わせ、親切なカリム夫妻が泊るところのないそいつらを自宅に快く迎え入れた。じゃが、そいつらは盗賊じゃった。カリム夫妻はその日の晩に殺され、金目のものはすべて持ち去られた。髪の毛も歯の詰め物も文字通り根こそぎ奪われたのさ。小さい町だから、葬式は総出で執り行われる。そして皆に知れ渡る、というわけじゃ。詳細以上にな」

考えうる限り最悪の悲劇、その凄惨な夜を想像する。

 愛を誓い、共に幸せな日々を過ごした夫妻の家と体を我が物顔で冒涜し、二人の思い出の品たちを笑いながら汚す悪党たちの下品な会話とニヤケ顔、したり顔、所得顔。そして、夜明け前に誰にも見られることなく悠々と町を去る3人の男たちの後ろ姿。

 トマスと出会った時のことを思い出す。トマスは自分が強盗を町に呼び込んだことに責任を感じていたのだろう。だから、最初に会った時、トマスは僕たち家族を何となく警戒していたのだ、と今になってようやく僕は理解した。そして、この町で居候させてもらうことが絶望的であることも。


 家族とトマスのいるテーブルに戻る途中、明徳が僕の横を足早に通り過ぎ、そのまま店を出て行った。すれ違う際に明徳をとっさに止めることができたらよかったのだが、その時は家族の生活について考えを巡らせていたため、反応することができなかった。

 後を追いかけようか迷ったが、状況確認を優先して一旦家族の元へ。

「何があった!?」

テーブルから少し距離を置いての僕からの問いかけに対して、壁の方を向く優奈、驚いた様子でこちらを見る優子さん、バツの悪そうな表情で優奈を指さすトマス、「ワン!」と鳴くフライ。

 一瞬の沈黙の後、優子さんが縋るように叫んだ。

「明徳と優奈が喧嘩しちゃって――

明徳の方をお願い!優奈とは私が話すから!」

優子さんの叫びを背に受けながら、僕はすでに店の出口を目指していた。

いや、あるいはもっと早い段階でとっくに走りだしていたかもしれない。優子さんのあの助けを求めるような表情が、声色が、無性に僕を駆り立てた。周りの喧騒と陰口が織りなすざわめきも気にせず店を飛び出し、土砂降りのベッヘレムの夜を駆けた。


 明徳を見つけた――

 小さな石橋の下の土手で。

 自らの足元に影のように深く濃い水たまりを生成しながら明徳は座り込んでいた。すぐ目の前に決壊しそうな川が激しく音を立てて流れているのも気にせずに。明徳を見つけるころには服の吸水機能はとっくに限界を迎え、体中を雨水がはい回り、むずがゆくなっていた。

 肩を縮み上がらせ、膝の間に顔を埋めて震える明徳の姿は、自分の存在を最小限にしながら消えてしまいたい、という自暴自棄な願望を体現しているかのようで、いたたまれない光景だった。

「明徳……」

と小さく呼びかけてゆっくりとおびえさせないように近づく。また、いつでも飛び掛かれるように、歩を刻むのは左足だけ。右足はかかとを浮かせ、すり足でジリジリと。瞬きせずに目の前の息子に集中する。踏み込む度に生じる視界のブレさえ煩わしかった。

 歩数にして約15歩を20秒ほどかけてようやく明徳のすぐ近くに到着する。

 明徳を視界に繋ぎ止めるのに必死だったためか、かける言葉が思いつかず、隣に座り、ただ明徳の言葉を待つ。

 胡坐をかくようにして座り込むと、僕の体から染み出た水が、ゆっくりと横に延びるように広がり、明徳が作り上げた大きく深い水たまりとつながった。やがて沈み込んだ明徳の頭の奥から、命からがらのかすれ声が岩から染み出た湧き水のように辛うじて湧いてきた

「……ぉとう…さん…………」

「どうした?」

過度に刺激しないようなるべく平坦に聞き返す。

「……ぉとう、さん?」

「ん」

明徳はようやく目が見えるくらいまで顔を上げた。

「おとうさ……お父さん。お父さん、ごめん。本当にごめんなさい」

「……うん」

明徳はまだこちらを見ることができないでいた。真っすぐ川の方を向いたままだ。

「……謝ってもどうしようもないかもしれないけど、それくらいしか僕できないから」

明徳は自分のしでかしてしまったことを整理しながら話しているようだった。一度言葉を区切り、さらに続ける。

「こうなるって思ってなかったんだ。本気で信じてたわけじゃなかったんだよ。儀式で異世界に行けるーなんて。でも、何だか、あれをやってる時だけ安心できたんだ。弱くてどうしようもない、空っぽな自分を忘れることができた」

明徳の顔が険しいものに変わっていき、川の流れを見ている、というより睨んでいるように見えた。

「いじめられた、情けない弱い自分のまま学校に行くのがどうしてもいやだった。いじめはすぐに終わるってわかってた。小学校の時からそういうことの繰り返しだったから。定期的に友達同士の輪から弾かれる奴が選ばれる。んで、収まるとまた輪の中に戻るんだ。謝ることも謝られることもなく、いじめなんてなかったかのように。僕は小学校6年間選ばれなかったから、勘違いしてた。自分は選ばれない、僕は皆から信頼されてる、好かれてるからって。でも、結局選ばれたんだ。中学生になって。知らない奴と今まで仲良かった奴が僕を選んだ。あんなに一緒に遊んだのに。あんなに話したのに。そんなのあいつらにとってどうでもよかったんだ。僕は今まで生きてきて、無条件で心から誰かに好かれたことなんてなかったんだってその時初めて分かった」

たまらなくなって何かを言おうとしたが、言葉が出なかった。情けなく口を半開きにしながらとうとう下を向かされてしまった。

「僕は僕をいじめてきた奴らと一緒に流されながら生きていくのが嫌だった。

そうなるところを想像するとゴキブリとかムカデが体を這い回ってくるような、グロくて気持ち悪いものを無理矢理背中に入れられたような、身震いと鳥肌が止まらなくなるんだ。朝起きられないときとか、お風呂でボーッと考えこんで動けないときとかによくそのイメージ頭に思い浮かべて、無理やり体動かしたりとかしてさ。AEDだっけ?あれ打たれた人みたいに、ドクンって嫌悪感が走って体が跳ね起きるんだ」

明徳の言葉は降りしきる雨のように止むことなく、容赦なく打ち付ける。

「大人で言うとお酒に似てるかもしれないね。適度に付き合えばきつけになるけど、段々やめられなくなって、頭にこびりついて離れなくなって、抜け出せなくなる」

明徳の顔が話始めたときよりもさらに深く、自らの中に沈み込んだ。

「一人になりたかったんだ。誰もいない世界で一人っきり。何不自由なく都合よく生きたかった。仕返しがしてやりたいとか、仲直りしたいとかはなかった。家族が嫌いになったとかそんなのもない。ただ周りの現実と何一つ向き合いたくなかったんだ」

明徳は鼻をすすり、嗚咽交じりの独白がここで一度止まる。フィナーレ直前のブレイクのような一瞬の静止。それは僕から一時的に重力を奪い、避けようのない落下を予感させた。

「お父さん、死ぬのって――

死ぬのって怖いね。死ねば楽になれるって……みんな喜ぶって……生きてても周りに迷惑かけるだけだって……分かってるのに」

「優奈にそう言われたのか?」

「さっき姉ちゃんに言われて、思い出したんだ。クラスの奴らにも同じこと言われたのを。結局あいつらが正しかったんだって改めて分からされたみたいだった。

だから、何も言い返せずに逃げて、死ぬこともできずに、ただただ、ここで寿命を待ってる」

明徳から音がしなくなった。もうすべて出し尽くしてしまったのだろうか。今明徳の体を測ってみるといくらか軽くなっているのだろうか。濁流にのまれたように、もみくちゃにされてしまった僕の頭はもはや思考を放棄し、考えをまとめることなど到底できそうにない。ただ、明徳の肩に手を置き、石橋を叩きつける雨音に打ちひしがれるがまま、川をじっと見つめていた。

 ――どれくらい時間がたっただろう。そろそろ雨水によって冷やされた体が耐えがたい寒気に見舞われ、震えだしそうになったので、そろそろ明徳に声をかけようかと考え始めた時だった。


タタタタタタタタッ

後方から対話を拒む誰かが明確な意思を持って走り寄ってくる音が聞こえた。

ゾッと悪寒が走り、振り向いた瞬間見えたのは三日月のような形で歯茎をむき出しにした男の満面の笑みだった。

ゴッ!!

という鈍い音が後頭部から響き、意識が闇に吸い込まれるように遠のいた。

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