第2話ザイルパートナー




 いまもまだ、目の前で見ているこれが信じられない。いま僕は、いったい何を見ているのか。血の気が音を立てて引いていくのを感じていた。

 彼が行方不明になったのは、半年前の冬だった。僕と二人で難易度の高い氷壁に挑戦する前の練習に、と登った山でのこと。いま正に目の前にしている、ここだ。

 何度か挑戦している壁だった。だからといって侮っていたわけでは決してない。冬の壁はそれだけで充分すぎるほど危険だ。僕らはザイルパートナーとして、多くの山に登ってきた。あの冬もそうして奴がトップを行き、僕が確保にまわっていた。壁の途中の棚に立つ僕のザイルには、まるで奴の吐く息すら感じるかのような手ごたえ。ハーケンを打ち込むときの音、振動。僕の手にそれが伝わる。

 何度経験しても、怖いものだった。僕の腕一本に奴の生命を握っている、そう思うのは身震いがするほど恐ろしい。同じことを奴も言う、お前の命を預かっている、と。それを言えるからこそパートナーなのかもしれない。

 次に挑戦する氷壁に向けて登っているかのような奴の背中。少しずつ高く遠くなっていく。いつもと同じ、頼もしい背中だと思った。これならば、大丈夫だとも思った。

 不意に、奴の腰でカラビナが鳴った。そんな些細な音がどうして聞こえたのか、僕にはわからない。けれど、確かに僕はそれを聞いた。

 次の瞬間だった。いまだかつてこの壁で経験したことのない、僕の知識ではここで起きるはずのない、あまりの突風が。

「おい……!」

 ふわり、奴の体が浮き上がる。いまも僕の目に焼き付いているかのように。ザイルから離れた手が、なんとかもう一度それを掴む。

 酷い衝撃を僕も感じていた。人ひとりの体重をザイルで支えるのは並大抵のことではない。まして落下の速度がかかっている。それはただの体重を支えるだけのものでは断じてない。

 氷を削り、撒き散らし、奴は落ちた。途中の支点も蹴散らして、凄まじい勢いで落ちてくる。僕の手にあるザイルだけが奴の命を。

 だが、僕は勢いに負けた。姿勢が崩れた、と思ったときには遅かった。跳ね飛ばされるよう仰け反った僕の横、奴が下へと落ちていく。目があったのを、僕は一生忘れない。奴は笑っていた。

 ぴんと張ったザイルに正気づき、僕は体勢を整え直してザイルを引く。手には重い感触。ザイルが引っかかっているだけではないことに息をつき、下へと声を張り上げた。

「……おう」

 返ってきた声にいったいどれほど安堵したことか。けれど奴は無理だと告げてきた。衝撃で腕が折れた、と。足も動かないと。頭が真っ白になった。僕の技術で、奴を引き上げられるだろうか。

「無理すんな」

 声が遠い。覗き込めば、案外と近いように見えてほっとする。が、落下の衝撃があったのは、奴だけでもなかった。僕は思うように動かない体を叱咤しザイルを引く。ごりごりと氷を削る音。陽はもうすぐ暮れる。装備はあるけれど、負傷した奴の体力を考えたら。そう思うといても立ってもいられない。

「楽しかったなぁ」

 ふと呟くような声がして、僕は奴を覗き込む。暗くなりはじめた山中に表情は見えなかった。それなのに、笑っていたと信じて疑えない声音。

 僕の体が後方に跳ねた。咄嗟にザイルを引く。信じられなかった。ザイルは、いとも容易く引かれた。戻ってきたそれは、切断され。

 そんな馬鹿な、と思った。何を考えている、下に向けて怒鳴った。けれど、僕にもわかっていた。共倒れよりパートナーだけでも助かってほしいと願った奴の気持ちが。

 あるいは僕以上に奴の方が僕を知っていた。落下の衝撃は、僕の体を本人が気づかなかったところまで痛めつけていて、救助が来たとき僕は死にかけていた。もし奴を引き上げようとし続けていたら、たぶん二人とも死んでいた。

 それがわかっても気休めにもならない。僕のパートナーは、僕のために、僕のせいで死んだ。

 たかが半年。割り切れるものではなかった。僕は療養を終えるとすぐにも山へと向かおうとしたのだが、家族が泣いて止めて仕方なかった。逆に山の仲間は、わかると無言で同意してくれもした。積極的に支持してくれはしなかったけれど、僕が奴の死んだ場所へと向かうことに対して淡い理解を示してくれたのは彼らだけ。

 体力が落ちているな、当たり前のことを思いながら登った。夏場でもそこそこの山で、以前ならば僕らにとっては楽しい遊び場同然の山。夏のいま、難易度は高くはない。素人が山登りを楽しめる程度だ。だから病み上がりの僕でも充分に登ることはできた。

「お前――」

 あのときの壁を前にして立つ。凍っていた冬の壁。けれど、次のための練習であった壁。なぜ、ここで突風が吹いたのか。しかも不慮の事故とはいえ、経験を積んだ奴があれほど軽々と煽られた不思議。

 空を見て、僕の横を通って、下まで滑り落ちて。

 僕は壁に向けて瞑目する。まだ、下を見ることはできなかった。素人が登れるとはいっても、隈なく踏破されているようなものでもない。奴の遺体は、まだ見つかっていなかった。僕がここに来るまで。春になって探索が行われたけれど、雪に埋もれたか更に滑ったか、奴はどこにもいなかった。

 ――ごめん。

 見つけてやることもまだできない。だから僕は手を合わせる。下ではなく、壁に。奴が登った壁に。遠くなっていく背中を見た気がした。そのまま天にまで登っていくような背中を。

 それだけであれば、僕の感傷にすぎない。命を預けあったパートナーの死に幻視したのだ、それで終わりだ。

 が。僕は聞いた。耳にした。あのときのカラビナの音を。なぜ、どこから。振り返ることはできない。

 なぜというならば、音は、上から、聞こえたから。音に導かれるよう、僕は見上げる。夏の晴れ渡った空の色。木々と壁とに縁取られた空が。だがしかし、音は聞こえる、確かに聞こえる。

「あれは、なんだ……」

 嫌なものを見た、と思う。あのときの突風のよう、唐突にすぎる雲の発生。山の天気は変わりやすいなどと言うけれど、山をやっていれば天候は読める。むしろ読めない山屋はいない。なのに、またも突然に天候が。

 緑に額装された空に湧き上がる雲がひとつ。ぽ、と湧いたと思ったときには、みるみるうちにと大きく巨大に育ち上がる。積乱雲、とも思えない。雨の気配のある雲ではない。むしろ、僕には、あれは雲なのか、と。

 雲が雲に見えない馬鹿らしさを笑う。響いた笑い声は空虚にこだまし、そうしている間にも雲はまだ大きくなっていった。

 まるで鹿だな、と僕はそれを眺めていた。のんびりと見ているのは、少し恐ろしかったせいもあるし、雨が降りそうにないことも一因だった。雲の形を鹿になぞらえ指差してみる。伸び上がったあれは角、あのあたりは頭で、だからあの辺は。

 声にならない悲鳴に、喉が潰れた。目のある部分に、本当に目を見た。気のせいではない。見直しても、確かにそれはそこにある。まして、目は光っていた。赤く爛々と輝いていた。雲だというのに。飛行機、否、違う。そんな人工物ではない。もっと生物的で、しかも異様な光。

 遠く、近くだったのかもしれない。雷鳴が聞こえた。びりびりと肌を刺すようなそれに、僕は唖然と空を見ている。

「いったい、どこで……」

 何はともあれ、退避せねば。思うのに体が動かない。目は吸い寄せられたよう、雲を見ていた。のろり、風に流されたわけでもない動き方で雲が形を変える。ひどく人めいた形へと。細く長く異様な姿。渦巻く雲が、角だった部分が、赤い目だけはそのままに。まだカラビナの音は聞こえた。

 そして、信じがたいことに、雲が動いた。腕らしき部分を振り上げ、振り下ろし。こんなもの、動いたとしか言いようがないではないか。震えて見上げる僕の前、何かが。

 投げられたのだ、僕は悟る。あれが、あの雲が、いま何かを投げたのだと。咄嗟に見たくない、思ったのにままならない僕の目は、それを見ていた。

 いまもまだ、僕の眼前にある、これを、僕は見た。瞬きしようが頬を叩こうが消えないものを、頬は見続けている。

 壁にぶち当てられたかのよう、めり込んでいた。さっきまでは、絶対になかったものが、ここにある。まして、それは。遺体だった。

 壁にめり込み、奴は僕の方を見ていた。閉ざされることのない目に奴と知ったのではない。最初、僕にはそれが奴とはわからなかった。

 いいや、人間とは、思わなかった。

 細く長く異様な肢体。虚ろで人めいているのに、人らしくない。強引に引き伸ばされたかのようでいて、はじめからそうしてある身体。それなのに、目の前にある遺体は、奴だった。

 からん、と音がする。異様なまでに長くなった腕の先から音がする。視線を動かした僕の目に入ったのは、あのカラビナだった。見間違えるはずもない。握られているそれは、僕が奴の誕生日にやったもの。不思議とまるで劣化していないカラビナだった。

「おい、なんで。うそだろ」

 僕の握ったザイルを切って、自ら落下を選んだパートナーが、なぜこんなところに、こんな形で。冒涜だと思った。馬鹿らしいと思った。それ以上に、僕は怖かった。

 奴の目は、いったい何を見たのだろうか。人間味のなくなった奴の体より、僕にはその目が怖かった。かっと見開かれた目には、いまだ恐怖がこびりついている。奴に何が起きたのか。半年しか経っていないのに、着ていたものはぼろぼろだった。

 ――まるで。

 風雪を何年もしのいだかのように。至るところを連れまわされ、悍しいものだけを見せられて、そして、飽きて捨てられた。そんな妄想を僕は振り払えない。

 それは、本当にこの世なのか。ここで僕のために死んだ奴が冥土を旅してまわったと言われたならばうなずいたかもしれない。奴の身体には様々なものが付いたままだったから。

 震える手で、それに触れる。咄嗟に引き戻すほど、痛みを感じるほど、冷たかった。凍りついていた。この夏山で。

 袖で拭い、じっと見る。悪戯書きだと笑い飛ばせない。見たこともない、実在するのかどうか疑わしい文字らしき何かと絵らしき何か。他にも、色々。光っていたり腐っていたり。いずれも到底この世のものとも思われないものが奴の体にはついたまま。風にカラビナが揺れる。けれど揺れるだけ。カラビナもまた凍りついていた。音などするはずもないほどに。

 奴は僕のパートナーだった。生命を預けあったパートナーだった。奴の尊厳を穢された思いに僕は立ち直り、空を睨む。雲はもう欠片もなかった。晴れた夏空があるだけ。

 それなのに、ああ。なぜだ。僕は聞いてしまった。笑い声にして声ではない何かを。奴の遺体から、空から。至るところから。響きこだまする唾棄すべき笑声が。

 これだ。奴の顔に浮かんだ恐怖はこれなのだ。何を見たかなど些末。この声が、その持ち主が。渦巻く風が鳴る、響く、笑う。風に乗り歩み来る恐怖が僕をも捉えに来た。逃げ場はない。僕は。




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