放恣クトゥルフ神話短編集
朝月刻
第1話身代わり人形
幼いころの私はとても弱い子供だったそうだ。ミルクを与えれば吐き戻し、わずかな物音で泣き喚く赤ん坊は、長じて散歩に出ると熱を出す子供になった。母は半狂乱で育児にあたった、といまでは笑う。さすがに健康体とはいかなかったけれど、いまにも死にそうではなくなった。
そんな私の、まだ幼少だったころのこと。発熱が酷く意識も朦朧とし、私はまったく覚えていない。ただ、母が今度こそは駄目かもしれないと不安に怯えていたとは後で聞いた。そこに父が持ってきた物があったのだそうだ。
「なんでこんなものを」
疲れきった母は父を詰る。無理もない、と私も思わないでもない、それは人形だった。大人になった目で見ても、率直に言って気味の悪い人形だった。それを持ち帰った父は「気休めのお守り」と言ったらしい。それにも母は激昂した。死にかけの子供を前に気休めとは、と。
だが、偶然ではあろうけれど、私は翌朝には快癒していた。枕元にあった人形をいまもまだ覚えている。窓から差し込む光にぬらぬらと光っていた気がした。
「男の子は怪獣が好きだろ。元気になったら遊ぼうな」
安堵した父の顔、憔悴しながらも笑みを浮かべた母の表情。不思議とよく覚えている。私は素直にうなずいて再び眠り、目覚めたときにはすっかりと元気だった。そして約束通り父と遊んだ。父が持ち帰った人形で。
――なんでこんなもんを持ってきたかな、親父は。
一人暮らしの狭い部屋、私はあのときの人形を前に苦笑していた。就職にあたって実家から持ってきた稚気がおかしい。子供時代の懐かしい思い出だったのだけれど、久しぶりにまじまじと見ればやはり、気持ちの悪い人形だ。
父は怪獣と言ったけれど、怪物の方が近い。蛸と魚を掛け合わせうねうねと触手を生やし、だが人間のようにもした悍ましい人形はいったいどんな人が何を意図して作ったものやら。父も貰い物だとかで由来も何も知らないらしい。
「けっこうな物じゃないかと思うんだけどな」
つい呟いてしまう。気持ち悪い怪物ではあるが、鱗や水掻き、鰓に至るまで精緻に作り上げられていて、とても子供の遊び道具にしていいようなものとも思えない。名のある作家の作なのでは、と疑っているけれど調べたことはない。
――もし、そうだったら。
取り上げられてしまうのではないか。杞憂にしても私はこれを手放したくはなかった。一人暮らし先にまで持参したのもそのせい。
就職も母は泣いて止めた。実家を離れるというだけで大騒ぎだったというのに、内定をもらったのが水産加工会社と知った母は頑固に反対し、最後は泣いた。何も船乗りになるわけでもあるまいし、体への負担もそこまで大きな仕事でもない、なだめるのに一苦労したものの、本心では母が納得していないのを私は知っている。
「けっこう楽しくやってるよ」
思っていたより仕事はつらい。運ばれてきた魚をさばき、運び、またさばく。運ぶ。そこには常に水があるせいで酷く体が冷えて最初のころは弱音を吐きそうだった。が、もう慣れた。私もいつまでも小さな子供ではない、と母に言ってやりたい気分だ。人形の頭をこん、と指で弾いて今日も仕事に向かった。
母はデスクワークを希望していた。それに逆らったわけでもなかったけれど、なぜかしら海に惹かれてこの会社を選んだのはよかったと思っている。体を動かしていると丈夫になる気もした。
「おはようさん」
社員の関係も良好だった。右も左もわからない私を根気よく導いてくれた先輩たちにいつか追いつきたいものだと思う。彼らが五匹さばく間に私はもたもたと一匹終わるかどうかというところ。
「ちょっとは慣れてきたねぇ。っと、ほっぺに鱗ついてるよ」
「え……あ、ありがとうございます」
「なにやってるんだか」
くすくすと笑われて気恥ずかしい。仕事中は厚手の手袋をはめているせいもあって頬についたゴミは取りにくい。あとでやろうと決めて仕事に戻った。
「まだついてるよ?」
仕事終わり、更衣室で着替える前にざっと顔を洗ったのだが、案外と鱗というやつは厄介で中々落ちない。帰ったらちゃんと落としますよ、笑って帰宅した私を待っていたのは。
「……うん?」
シャワーを浴びて落ちただろうと気にもしなかった。安い部屋の風呂場にあるのは小さな鏡で覗く気にもならない。髪を拭きながら麦茶をあおり、不意に視線が向いた。
なぜかは、わからない。あの人形に目が留まった理由などきっとない。が、違和感があった。見慣れたそれが、いつもと違うような。よくよく見て、眉を顰める。
――鱗が、薄くなってる……?
気のせいだろうとは思うものの、気味が悪い。仕事中についた頬の鱗がいやに気になった。とっくに落ちたはずの頬に手をやれば、指先に引っかかりが。
私は風呂場の鏡の前に飛んでいく。湯気に曇ったそれの中、青ざめた私の頬にはまだ、鱗がついていた。まさかと笑う。まだ落とし損なっていたとは。仕方ないな、と顔を洗い直しつつ私は悟っていた気もする。これは、落ちないのでは、と。
翌日は絆創膏を貼って出勤した。先輩は昨日のことなど忘れていてよもや鱗とは思いもしなかったらしいことにほっとする。いつも以上に仕事の手が遅かった。のろのろするな、と叱責されたが当然だと思う。私はまるで集中を欠いていたのだから。再び鱗が付着したら、そう思ったら仕事など手につかない。
酷く疲れて帰った私はあの人形を見る。鱗が薄くなっていたら。その恐怖に。そうして、息をついた。人形は変わっていない。
「馬鹿だなぁ」
偶然だろうに。何をしていたのか、自らを嘲笑う気分で人形を手に取った。その手が泳ぐ。おかしかった。幼いころからずっと側にあった人形だ。勘違いなどするはずもないのに、軽かった。あまりにも軽すぎた。
「気のせい、だ。うん」
まるで、人形から大事なものが抜け出して、どこかに行ってしまったかのよう。そう思う自分を笑い飛ばして、しかし声は震えた。
それ以来、私は変わり続けた。目に見える場所に鱗がつくことはほとんどない。手の甲に見つけたとき、私は人前で手袋を外さないと決めた。その指の間に水掻きを見たとき、人形を見た。やはり、人形から水掻きが薄くなっていた。
――そんな、馬鹿な。
偶然にもほどがある。まだ仕事にも慣れなくて、母が心配したよう疲労が募っているのだろう。そういえば幼いころは皮膚も弱かったと聞いている。これはきっと軽い皮膚病に違いない。鱗に見えるのも水掻きに見えるのも、目の惑いだ。人形があるから、そんな風に思い込むのだろう。
そう納得しながら、私には不思議なことがまだあった。どうしても、人形を手放そうとは思わない。造形は気持ち悪いし、嫌な偶然はあるしで捨ててしまった方がいいと誰でも言うだろうに。
――親父がくれたからな。
忙しかった父との思い出。そんな言い訳を作ってまで、私は人形を捨てなかった。
「最近は疲れ気味か?」
「いえ……それほど、でも……」
「そうか? なんかよろよろしてるからな。無理するなよ」
「はい、ありがとうございます」
ぽんと背中を叩かれて私は頭を下げる。足取りが、おかしいのだろうか。冷えるから、と理由をつけて二重にした手袋のせいもあって仕事は遅い。最後までかかって、着替えたのも一番遅かった。
更衣室には、大きな鏡がある。最近の私はできる限り目をそらしていたのだけれど、今日はその前に立つ。立った、はずだ。
悲鳴を飲むのが精一杯だった。いつから私はここまで変わってしまったのか。足取りが奇妙なのも当然だと思う。背中が曲がっていた。首は前に垂れ、不自然に歪んでいる。誰もいない更衣室だと見定めて、私は手袋を取り、仕事着を脱ぐ。声も出なかった。
なんだ、これは。自分が見ているものが信じがたい。肌にほろほろと浮かんだ鱗はあたかも魚のよう。よくよく見れば、顔つきも違う気がする。私の目はこれほどまでに大きく突き出していただろうか。
「な……何も、見てない。何も見てない」
繰り返し、服を着ては目をそらす。瞼の裏にくっきりと刻み込まれていて、視界から消えた程度では忘れ得なかった。逃げるよう更衣室をあとにする間際、ドアのガラスに映った私の首筋には、細く筋が入っていた。まるで、鰓のような筋が。
もうわかっていた。あえて確かめるまでもない。人形の鰓はやはり、薄れていた。もう鱗など影のよう。あれほど精緻に作り上げられていた人形は、冗談のよう姿が変わっていた。いまではこれを名のある作品と思う人は誰もいまい。子供が泥を握って作った人形のような土塊がそこにある。手に持てば予想通り、軽い。土とも木とも思えないほどに。今更ながら、これはいったい何でできているのか疑問に思った。
その晩、夢を見た。いい気分の夢だった。仕事に行くより実家にあるより、私がいるべき場所はあそこだとの思い。それなのにそこがどこなのかが、わからないもどかしさ。暖かく優しく、故郷のような安らぎ。
悲鳴を上げて飛び起きた。優しい夢の中、いたのは私だけではなかった。あの人形のような、そしていまの私に似た何かがいた。その向こう、人形よりなお気味の悪い、否、唾棄すべき悍しい何かが。
「あれ、は……。いや、夢だ。変な夢を、見ただけだ。最近は、妙なことばっかりだし、疲れてるし。そのせいだ。夢だ」
何度言い聞かせても手は震えた。声も震えた。目覚めてみて、理解した。あれは海の夢。魚に似て、まるで似ていない怪物が泳いでいた。そして、夢の中の私は一緒に泳いでいた。
その日、私ははじめて嘘をついて仕事を休んだ。風邪気味で。そう言った私に「無理しなくていい」と言ってくれた優しい上司に心の中で頭を下げる。こんないい職場なのに、私は何をしているのか。
だがしかし、だからこそ、仕事には行かれなかった。私は私が怖かった。私に何が起きているのか、怖かった。怯え頭を抱え、部屋でひとり震える。
気がついたら、夜だった。私の膝を海の水が洗っている。いつの間に、海に来たのか。ぼんやりとしている間にもたぷたぷと寄る波。ひどく気持ちがよかった。波間に見える――。
何をやっているのだ私は。何も見ていない。黒く丸い影が波間に見えたなど気のせいだ。そもそも夜の海になど私は行っていない、そんなはずはない。転がるように部屋に戻った私を待ち構えていたのは、人形。
なかった。
幼少時から常に傍らにあったあの人形が、消えていた。鱗が薄くなり、鰓は影と化し、小さく軽くなっていった人形は、ついに消えた。
馬鹿な、呟く。ばたばたと人形があった周囲を探りまわして痕跡を探した。古い人形だ、壊れることはあるだろう。劣化して造形が崩れていったに違いない。最後に形をなくしたとしても、納得はできる。
それならば、どうして何もないのか。土のひと欠片、木片の滓。なんでもいい、砂粒ひとつでもいい。何もないなど、あり得ない。馬鹿な、何度繰り返しただろう。
疲れきり、夢を見た私は、鏡の前に立つ勇気はない。今日は仕事に、いや、海に行かなくては。同胞が私を呼んでいる。
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