第3話画廊




 なぜ、その画廊に入ってみようと思ったのかはわからない。寂れた町のうらぶれた路地にあった画廊だった。潮風と饐えた臭いのする町から逃れたかったのかもしれない。

 ぎぃ、と軋んだ音と共に開いたドアの向こうには小綺麗な絵画と奇妙な彫刻が少し。なんとも取り合わせの悪い展示に苦笑が漏れる。

「いらっしゃいませ」

 迎えてくれたのは、古風な立襟のシャツを着た青年だった。無邪気そうな笑顔が店主とも思えない、店番だろう。少し見せてもらうよ、断った私に彼は照れくさそうに微笑む。

 ――おや?

 その態度に店番とは誤りかと感じた。あるいは作者かと。ならば小綺麗な絵画の方にと私は向かう。絵の心得などまったくなかったけれど、さして感銘を受けない綺麗なだけの絵だった。

「中々に綺麗な絵だね」

「ありがとうございます」

「私みたいな無骨者にはちょっとああいった彫刻はねぇ」

「すみません」

「うん?」

「僕の作品なんです、その……」

 失敗した、と天を仰ぎたくなった。作者本人の前で褒めたつもりが逆だったとは。まさか彫刻の方だとは夢にも思わなかったせい。

 ――こんな青年がなぁ。

 気弱そうな、優しげな青年であるのに、と私は不可解な気分だった。もっとも芸術とはそのようなものであるのかもしれない。

「それは悪いことを言ってしまった。いい機会といったらなんだけれど、よく見せていただくよ」

 見る目が変わるかもしれないからね。言いつつ彫刻の前へと移動した。青年は気にしないでくださいと身を縮めていたが、どこか嬉しげな佇まいにほだされたのかもしれない。

 少しばかり飾ってあるだけの彫刻だった。鑿跡というのだろうか、彫った痕跡も鮮やかであるのに、だがしかし奇妙にも生々しいぬめりを感じるような。

 まるで粘体だった。どろりと蕩けた物体が見事に彫り込まれ描かれているさま。伸びた触腕は蛸のようで蛞蝓のようで、正直に言えば気味が悪いのに、なぜか心惹かれるものがある。

「こういうものは、はじめて見たよ」

「慣れない方は苦手だと思います」

「そうだね。苦手な部類なんだが……なぜだろう、そもそも彫刻に興味がなかったんだが、あなたの作品は目が惹きつけられてしまう」

 自分で口にしていて、本当に不思議だった。排水溝に溜まった泥とてこれほどではないと思わせるほど、汚く悍しい粘体。この世のものとは思えないこれを、眼前の青年が作り上げたとは。人とはわからないものだとしみじみ思う。

「あなたは、こういうものをどう作るのだろう。抽象的な質問で申し訳ないが」

「そう、ですね。夢、でしょうか」

 含羞む青年に私は納得していた。夢ならば悪夢だろうそれを、青年は彫刻という形で昇華するのだろうと思えば素晴らしいことにも思える。

 旅の目的は別の街にあり、だが私はこの町に滞在し、そして毎日画廊に通い続けた。そのうちに絵画の方は生活のために展示販売しているだけの、彼の作品ではないと知った。さもありなん、私はうなずく。あの彫刻とは似ても似つかない。絵画にはただ綺麗だとしか感じなかった。彫刻は、気持ちが悪いのに、目が離せない。心に突き刺さり、そのまま拡散しては私という存在を侵食していくかの力強さがある。

「何度見てもいいな」

 数日で青年と私は他愛ない世間話をかわすようにもなっていた。互いに名乗り合い、気安く呼び合うようにも。けれど多くは彫刻について語り合う。まるで素人の私に彼は快くなんでも教えてくれた。

「ありがとう。嬉しく思います」

 照れた眼差しも心地よい、昨今稀な青年だと思う。そんな彼が彫刻に関して語り出すと滔々と持説を述べるのだから面白い。

「そういえば、作品にタイトルはつけていないのかい?」

 どこを見てもそれらしき題が書いていなかった。見れば絵画の方にはきちんとつけられているから、彼の方針なのかとも思ったのだが。

「ちょっと、気恥ずかしくて。聞いていただけますか?」

「もちろんだとも。是非」

「――落とし子、と言います」

 ほう、と声を上げてしまった。何を以てしてそのような題をつけたのか、私にはわからない。それでいて、これ以上ない題だとも思う。

「もしよかったら、触れてみてください」

「いいのかね? もし――」

「大丈夫です。触ることを想定して作っているんです」

 触れて感触を楽しむ、そのような作品なのだ、彼は言う。ならば遠慮はいらない、と私は嬉々として手を伸ばした。実のところ、触れてみたくてたまらなかった。

 このような、粘体を表したものに触れたいとは、我ながらわからないものだと苦笑する。だが、そうしたいと思わせる作品だった。

「これ、は……」

 知らず息を飲む。彼からは素材は木と聞いている。なのに、これは、本当に木なのだろうか。木材にある温かみがまったくなかった。逆に指先に感じたのはひんやりとした粘液質。

「どうぞ、思い切って」

 にこりと笑った彼に促され、私は掌全体で触れた。ぴしゃり。音がしたのは錯覚に違いない。だけれど、そう感じてしまうほどの冷たさ。慌てて引き剥がせば、掌に粘りつくような。

「すごいな……」

「どうでしたか?」

「本当に、ねばねばした物を触っているような気がしたよ。素晴らしい」

「ありがとう存じます」

 恥ずかしげに頭を下げた青年を私は絶賛し続けた。彼がもうやめてくれ、と半ば悲鳴じみた声を上げるまで。それでも言い足りない気分であったのだが。

「もう……本当に恥ずかしい……。そこまでお褒めを頂戴しましたから、もしよかったらアトリエをご覧になりますか」

「いいのかい! 嬉しいよ、ありがとう」

「とんでもないことです。ただ、都合がありまして夜になってしまいますが」

「問題ないとも」

 勢い込む私に彼はアトリエの場所を教えてくれた。なんのことはない、この画廊の裏手だという。ならば迷う気遣いもないと私は一旦画廊をあとにして時間を潰した。

 気もそぞろ、とはこれを言うのだろうと思っては自らを笑う。早く見てみたい。彼が制作中の作品はいったいどんなものなのか。画廊にあるものだけでは私は飽きたらなくなっていた。

 そのアトリエは、画廊よりなお暗かった。それで私ははじめて違和感を抱く。思えば画廊は明かりも少なく、作品が見にくいこともあった。

 ――違う、絵の方だけだ。

 見えにくく感じたのは絵画だけ。彼の彫刻はまったくそんなことはなかった。ならば彫刻にだけ光が当てられていたのか。否。私の記憶にそれはない。

「どうぞ、入ってください」

 散らかっていますが。照れた声音に私の違和感は飛んでいく。妙なことを気にしたものだと苦笑する程度に。それもすぐさま消えた。

 アトリエは彼が言う通り、物が散乱していた。素材なのか、木切れがあちこちに落ちている。絵の具と思しき染みもあった。

「絵の具だったのか……」

「違うと思ってくださったならば望外の幸せです」

「そうかな?」

「それだけ生々しく感じてくださった証ですから」

 もっともだった。彼の言葉通り、私はあの彫刻が着色されたものとはついぞ思わずここまできた。いまもまだ塗ったもの、とは思えない。

 彼の案内で狭いアトリエを見てまわった。塑像らしきものもたくさんあって目に飽きない。どれもこれもが粘体だった。落とし子、と名付けた作品は一連のものなのかもしれない。

「スケッチも、よかったら」

 画帳を差し出してくれた彼の手から、私は奪い取ったのではないだろうか。己の興奮ぶりが恥ずかしい。が、彼は嬉しげに微笑んでいるばかり。画帳を開けば、そこには彫刻よりなお悍しいスケッチが。

「それをいつか、表現できればと思うのです」

「なんと……」

「技術が足らなくて」

 含羞む彼をまじまじと見る。彼ならばいつか、そう思ったままに告げた私に、頼りなく微笑んだ青年は「あなたならば」と言っては壁際へと連れて行ってくれた。

 制作中の何かがあるのだとばかり私は思っていた。なぜならば、白い布をかけた大きな物体がそこにはあったせい。まだ人目に晒したくない習作かもしれない。しかし彼は私を振り返り、小さく微笑む。そして布を取り去った。

 ばさりと音がして、私は息を飲む。驚いたのもあった。布の向こうは鏡であった。否、違う。鏡であったのは一瞬のこと。我々二人が映ったと思う間もなく、それは別のものを映しはじめる。

 声もなく見据えていた。自分の目が、見ているものが信じられない。鏡にして鏡ではないものの中、彼の作品に酷似した何かがあった。否、いた。動いていた、蠢き、もがいていた。足掻き、くねり、這い出そうとしていた。ぬらぬらと光る黒い粘塊から伸びる触肢がちろちろと周囲を探る。触肢は時に口であり目であった。歪んだ手足であった。

「映像……」

「違いますとも。どうぞ、もっとよくご覧になってください」

 無邪気に並んで向こうを覗く彼につられた。私を見やっては楽しげに微笑む彼に、私まで同じように。

 あまりにも生々しかった、映像と口にした私だが信じてなど端からいない。これは、現実だと。だがしかし、いったいどこにこんな現実があるものか。

「美しい、そうお思いになりませんか」

 胡乱げなところなどまったくない青年だった。ただただこの景色に美を見ている彫刻家がそこにいた。私が間違っているのか。これは美なのか。再度、向こう側に視線を戻した私は飛び上がる。

「い、いま……!?」

「どうされました?」

「目が。目が……あった……」

「それくらいはよくあることです。落とし子たちは、生きていますから。ほら」

 屈託なく微笑んだ彼が手を伸ばした。鏡であった何かに触れようと。私の呼吸は止まる。

「可愛いものだと思いませんか?」

 そうして、彼が伸ばした手は、鏡の、向こうに。断じて目の錯覚などではない。私の見ている目の前で彼は向こうに手を差し入れ、あの悍しい粘体に触れている。私は確かに見た。彼の手が、粘体に塗れるのを。黒とも思えない黒に染まりゆくのを。

 悲鳴を上げて逃げ出した。身も世もなく駆け出して、私はどこをどう通ったのかすら覚えていない。気がついたときには、自宅だった。手にはしっかりと旅行鞄を持っていたから、ホテルには寄ったのだろう。まったく記憶にない。

 それでもまだ怯え慄いていた。自宅のポストには旅行前に頼んでおいた仕事の資料が届いている。何もかも忘れたくて、私はその百年ほど前の新聞記事にと取りかかった。読みにくいそれを読んでいれば、あの経験など忘れてしまえるに違いないと。

 だが、そんな私を嘲笑うよう目に飛び込んできた記事。とある彫刻家の死亡記事だった。悪魔的と評された作風から風紀紊乱の咎で逮捕されたこともあるとか。自然と私の目は記事を追う。そこには、彼の名があった。




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