黒猫は忍者に踏まれたい

ナナシマイ

 黒猫踏んづけた忍者は泣かれる前に土下座した。黒猫は泣かなかった。「ナァ」と鳴いた。いや、自分を踏んだ忍者に呼びかけた。

「お前、忍者に向いてないぞ」

「だ、だからすまないと……む? 向いていない? 忍者に? 私が?」

「忍ぶどころか、己の足もとにすら注意を向けられないンだからナァ。俺のほうがよっぽど向いているだろうよ」

「……く、黒猫がか?」

 忍者の疑わしげな目に、黒猫は「なんとでも言うがいいさ」と頤を上げてみせる。

「で、不注意な忍者はなにをそんなに急いでいるんだ」

「そうだ! 姫様が河童で病気は治るのを食べるために探しに行かなくては……!」

「……は?」

 忍者はよほど慌てているのか文法が危うい。それでも一拍おいて理解したらしい黒猫は、退屈そうに欠伸をしながら「なるほどナァ」と呟いた。そのまま目を瞑り、つややかな前足をぺろりと舐める姿は愛らしく、急いでいるはずの忍者も思わず見入ってしまう。

 やがて黒猫は満足したのか、片目を開けて忍者を見上げた。

「で、沢へ行こうと?」

 こくりと頷く忍者に、黒猫はさも呆れたように嘆息する。

 金色の瞳が細められるのを、忍者は食い入るように見つめた。

「河童ってのはナァ、海に棲んでいるのさ」

「……なに?」

「んでもって、……ふむ。お前は胡瓜を持っているようだが、もしそれが河童のために用意したものであるならば、大きな勘違いをしているな」

 しなやかに伸びる体躯に詰め寄られ、くんかと湿った鼻を腰に押し当てられた忍者は後ずさる。が、続いた言葉にさらに一歩引くこととなる。

「河童の好物は馬の睾丸だぞ」


 忍者は走った。野を越え、山を越え、もとの目的地であった沢も越えた。

 その後ろをぴたりと、まるで影のごとく黒猫がついていく。

 一人と一匹は音もなく走っていく。

 そうしてさらに二つほど山を越えたあたりで、黒猫はとある川を下るように指示を出した。そこは岩の多い急流で、ところどころが滝のように落ち込んでいたが、忍者は忍者らしい身のこなしでするりと飛び降りた。

「ずいぶんな岩礁地帯だな……」

 忍者が疑うのももっともだろう。砕け散ったような波しぶきの舞う海と山の狭間は、とても河童の棲む場所には見えなかった。しかし黒猫はニィッと笑う。

「だから河童ってのは、油断ならない奴なのさ」

 どこか険のある言いかたに忍者は言葉を重ねようとして、しかし金色の瞳が思いのほか穏やかではない光を宿しているのを見て押し黙った。それは激しく岩に当たる波よりもさらに苛烈な光であった。

「ナァ、吹き矢の用意はできてるか」

 黒猫が告げた狩りの始まりは、ひどく静かだった。

 忍者はその空気を壊さぬよう腰帯から慎重に笛を抜き取る。それを横目で見つつ、黒猫は近くの岩にへばりついていた海星を咥え剝がした。前足で器用に押さえて開けば、わずかに可食部が見える。

「普段の河童はこれを食う」

「……海星を。……いや、馬の睾丸でなくていいのか?」

「それを食った河童を口にすることになるが――」

「やめておこう」

 忍者は被せ気味に首を振り、黒猫は「ふむ」と頷いた。

「では俺があの辺りに置いてくるから、お前はやってきた奴を狙え」


 仕留めた河童は鍋焼きうどんの具となった。

 忍者が「やはり病には生のままがよいだろうか」と無知を晒したため、黒猫が慌てて止めたのだ。

「河童は山を嫌う。それは死しても変わらんからナァ、先に調理しておかねば戻る間に腐るぞ」

「わがままな身体なのだな……」

 近くの漁村で食材を買い、河童の皿を鍋代わりにして煮込んでいく。身は勿論のこと、皮も、爪も、甲羅も、病には有用であると言い伝えられていた。残る部分などほとんどない。

 それでも忍者は情報を与えてくれた黒猫にも河童を食わせてやるつもりであったし、黒猫も「どんな味かも知らないモンを姫に食わすのか」と二人で試食をすることを譲らなかった。

 うどんを入れることにしたのも、その姫が食べやすいようにという理由だ。

 ぼつぼつと煮立つ鍋からは、潮の香りと、醤油の香りと、どこか甘やかでふくらみのある香りが漂ってくる。

「さしずめ君は忍猫にんにゃってところか」

 大きな手を頭に乗せられ、指の腹で優しく撫でられながら、黒猫は「ああ」と満足げに溢した。

「そりゃあ、いいナァ……」

 表面には脂が浮かび、泡に揺らぐ。

 真白だったうどんは鈍い色を吸い込み、艶々と光っていた――。


       *


 未来視を終えた黒猫は眠たそうに欠伸をした。そろそろ昼寝の時間である。

 その前にと黒猫は思考する。この魂で最初に生を受けた命では、河童に散々な目に遭わされたものだ。奴らはいつだって他の生き物を見下しているのだと、黒猫は苦々しく思う。それでも生まれ変わるたびに賢くなっていく猫の特性を使い、少しずつ河童という種を削いできた。

「……河童は旨いが、それだけだ。病を治す力などない。呪いの力だって」

 そんなものは迷信だからだ。猫が九つの命しか・・持たないと思われているのと同じこと。

 ゆえに黒猫は、なんの罪もない人間を巻き込むことを躊躇わない。むしろ旨いものを食わせてやっているのだから、感謝されてもいいくらいだ。

 他の猫は、この魂の巡りを、永遠に等しい時間を生きねばならぬ拷問だと考えているようだが、黒猫はそうは思わなかった。好きなものを食べ、好きな時に眠り、好きな場所へ旅をする。甘美で、魅力に満ちた種だと誇りにすら思う。

 そのために、憂いなく、この身は自由でなくてはならない。

 河童を滅ぼすと決めたのだ。永い命があれば、それは不可能なことではないだろう。


 領主の館の、使用人が通る門の前。

 黒猫は、踏んでくれと言わんばかりに通行の妨げになりそうな場所で丸くなり、目を瞑った。

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