くだん秘抄

八京間

くだん秘抄

 学生時代の知り合いに、実家が酪農家の奴がいて、久々に連絡を寄越してきた。

「くだんに興味はないか」

「突然どういうわけだ。ふざけるようなら切るぞ」

「いいや、絶対お前は来るだろうね。ついさっき牛舎で生まれたんだ」

「本当か? 人面牛が?」

「あぁ。できるだけ急いで来てくれ」

 旧友がやけに焦った様子で念押しするのに急かされ、私は疑い半分のまま家を飛び出し、夜中の高速道路を二時間かけて農場へ向かった。

 くだん。件というのは、伝承に聞く予言獣の一である。人面牛身、曰く予言をすると数日で死んでしまうという。過去には大震災やら、戦争やら、疫病やらを予言したため、凶事の前兆とさえも言われている。

 奴と知り合ったのは大学の民俗学の授業で、それでたまたま思い出して声をかけてきたのだろうか。そんな縁があってたまるかと、憤りを募らせるだけ募らせて、牧場への道を進んでいった。高速道路を降りて、峠道を下り、山道を登って、狐が通るのを目の当たりにした。相当な田舎に来てしまったようだ。

 深夜の農場は灯りがほとんどついていない。怒りのままにドアを閉めようとしていた腕が、思わずその無用の矛を納める程に、がらんとした土の道が恐ろしく感じられた。黄色い満月の月明かりが、消えたままの街灯の傘を曖昧に照らしている。遠くにぽつりと見える灯りの塊が、おそらく旧友の実家だろう。その向こうの黒黒とした塊が牛舎だろうか。

 入り口を塞ぐ柵に手をかけると、金網の柵を支える柱に似つかわしくない家庭用のドアベルが付いていることに気がついた。ボタンとスピーカー、カメラのついたマンションや一戸建ての家にあるのと同じものである。ご家族の迷惑になるのではないかと思うと、どことなく押すのが憚られる。そうして押そうかどうか迷っているうちに旧友から電話がかかってきた。

「着いたか。着いただろう」

「今入り口にいるよ。入っていいのかい?」

「あぁ、牛舎はわかるな」

「家の向こうのやつかい?」

「そのまま来てくれ」

「車はここに停めておいていいか?」

 つくづく勝手なやつである。車を道の端に停めたままにして、私は言われた通り牛舎へ向かうことにした。柵を開けて牧場に立ち入ると、電気をつけてくれたらしい。ぼんやりと白い灯りが土の道を照らした。足元の不安はない程度に明るいが、依然として遠くの景色は紺碧に沈み、やはりどことなく恐ろしかった。

 明るい母屋のそばを取り抜け、真っ黒な牛舎に向かって歩を進めていると、牛舎の入り口で旧友が手を振っているのが見えた。作業着らしきポケット付きのズボンに、薄ら汚れたTシャツ姿で、学生の頃より幾らか痩せたように見えた。

「久しぶりだな。待ってたよ」

「嘘じゃないだろうな、件が生まれたってのは」

「しッ! 家族に聞かれたらどうする」

「内緒にしてるのか」

「そうだ。下手に噂が広まって商売に影響が出たら困るだろう? 気味が悪いとかさ」

 それもそうか、とぼんやり思いながら、牛舎の古い木戸をくぐった。

 牛舎の中は一層ひんやりとしていて、そして、驚いたことに、牛の姿はなかった。

「ここは老朽化しているから、牛は新しい方の牛舎に移したんだ」

 私の疑問を悟ったかのように旧友は言った。

 彼が手にもつ懐中電灯で暗闇をまぁるく照らした先に、仔牛はいた。ふわふわと敷かれた藁の上に丸まって、己の懐に顔を埋めている。生まれたばかりの牛というのは、薄桃色の羊水まみれでベタベタしていると思っていたが、もうしばらく時間が経ち、一度舐めるなり現れるなりしたのであろう、乾き切って、ところどころ皮膚が透けて見えるまばらな白い毛並みをしていた。

「寝ているのか?」

「わからん、だが、生暖かいよ」

「まだ予言はしていないのか?」

「あぁ、お前が来るまで見張っていたが、何も喋ろうとしない」

「そうか」

 件の体が小さく上下しているのが見える。確かに、息はしているようだった。がらんとした牛舎の中に、一頭だけでいる心細さからか、それとも外界への恐怖からか、仔牛は頑なに顔を上げようとしなかった。

「母牛はどうした?」

「きりきり舞になって死んだよ」

「それは大変だったな」

「引き取ってくれないか。くれるだろう」

 旧友が突然そんなことを言うから、私はひどく驚いてしまって、何か言おうにも何も言えないまま、しばらく口をむやみに動かしていた。

「無茶を言わないでくれ。私は酪農家じゃないし、そんなスペースもないぞ」

「だが、うちにおいて行くわけにもいかない。誰かに悟られでもしたら困るし…… お前しかいないんだ。なぁ、引き取ってくれるだろう。頼むからさ」

「無理なものは無理だ」

「飼ってくれと言ってるわけじゃない。件はいずれ死ぬよ」

「なおさら嫌だな」

「お前以外看取ってやれるやつがいないんだ。それともなんだ、お前はこんな、可哀想なやつを、さらにかわいそうな目に合わせようってのか?」

 旧友はいよいよ錯乱まがいの様子で詰め寄ってくる。薄暗い牛舎の中にも関わらず、ギラついた目をして、何度断っても折れようとしない。次第に私も疲れてしまって、また旧友のおかしな様子に気圧されて、挙げ句の果てに件を連れ帰ることを了承してしまった。

 件は両腕を回せば抱えられるほどの大きさであったが、思いの外重かった。車の後部座席を倒し、念のため大きなタオルを敷いて座らせると、件は顔を上げた。

 リアルな人間というよりも、どこかキャラクターじみた顔をしていた。点が三つ並んでいれば人面に見えるというが、よくわからない顔をとりあえず人面と喩えただけで、牛の顔でも人の顔でもないように思われた。ほとんど全ての陸上の動物にある、生きた肉の感じ、例えるならば唇、犬猫の髭の生えている肌の部分、目の周りの粘膜だとか、その種のものが曖昧で、言うなれば生き物としての機能や威厳の無い顔だった。

「それじゃあ、任せたぞ。なに、心配いらないさ。予言をしたらすぐに死ぬからな」

 可哀想だと私を説得した割に、すぐに死ぬ、などと可哀想なことを言う旧友を心底軽蔑し、手短に別れを告げて、私は車を発進させた。

 こういう顛末で、私はしばらく件の世話を請け負う羽目になったのだった。



 帰りの道中、件はうんともすんとも言わず、眠っているのか起きているのかもわからない、置物のようであった。帰りの峠でまた狐が通り過ぎるのを見た。走り抜ける様はひょろり細長く、鼬のようでもあった。

 自宅に帰りつき、家の前に車を停める。築ウン十年の平屋は、元々祖父母が暮らしていた家で、祖父が他界し、祖母が施設に入ってからは、私に管理が任されている。職場がたまたま近かったこともあり、賃料が浮くと快諾したは良いものの、亡くなった祖父はまだしも、祖母のものを勝手に整理するのは気が引ける。それ故、片付ける、という名目で他の部屋に物を押しやって空けた六畳一間だけが私の居城であった。だから、この家に件を置ける場所は私の部屋くらいしかないのだった。

 先に家に入り、万年布団を退けてバスタオルを二重に敷いた。この間に件が予言をして一人でに死んでしまわないか不安だったが、どうやらまだ口を噤んだままでいたらしい。重かったのを体が覚えているので、少し身構えてから私は件を抱え上げた。件は足をばたつかせて嫌がるわけでもなく、ひたすらおとなしかった。

 件を抱き上げて、私はふと奇妙なことに気がついた。件からは何の匂いもしないのである。生まれたての乳臭い匂いだとか、牧草の匂いだとか、そういった類のものをはじめ、体臭に至るまで、徹底して無臭であった。部屋が牛臭くならないのは幸いである。

 えっちらおっちら部屋に運び込み、バスタオルの上へ件を置いてやった。件は鳴きもしないで、首をもたげてふっと鼻を鳴らし、牛舎でそうしていたように、己の懐に頭を埋めた。小鉢に水を注いでやって、目の前に差し置いたが、見えているのかいないのか、それとも欲しくないのか、特に反応はない。

 私は改めて、件をまじまじと観察した。扁平な円柱のような体躯を、ふわふわと薄い毛が覆っている。触れると柔らかい毛がこそばゆく、人よりも体温が低いのか、少しひんやりとしていた。牛であれば心臓があるあたりは、いっそう冷たく、どこまでも“生きている“要素に欠けた生き物のように思える。

 体が生まれたばかりの牛だというのならば、水でなく牛乳がいいのかもしれない。数日前、買い出しへ出かけた時のカゴの中身を思い出そうとしたが、記憶は朧げではっきりしない。台所の冷蔵庫の中へ思いを馳せるが、やはり思い出せそうにない。

「少し離れるけど、まだ予言はしないでいてくれるかい」

言葉を理解しているわけではあるまいが、件は頭をもたげてこちらを一瞥し、そしてまた胴に顔を埋めた。存外ふてぶてしい奴なのかもしれない。

 玄関扉のガラスの隙間から淡く光が差し込み、廊下は薄ら明るい。板間はほんのりと温められ、突っ立っていると眠気に襲われそうだった。ついでであるから自分も何か腹に入れようと思いながら、台所の引き戸を開く。

 冷蔵庫を開くと、ドア裏のポケットに低脂肪乳が入っていた。人用の調整牛乳を果たして飲ませて良いものか。人面牛身の消化管はどうなっているのだろうか。昔博物館で見た、丁寧にほぐし伸ばされた牛の胃腸を思い出すが、だからと言って可不可がわかる訳でもない。ないよりましと自身に言い聞かせ、また同じような小鉢に牛乳を注ぎ入れた。自分の小腹用に魚肉ソーセージを掴んで部屋へ戻った。

 件は死なずに待っていた。そして、案の定牛乳も飲もうとしなかった。手慰みに、魚肉ソーセージの皮膜をめくり、件の曖昧な顔の真ん中へ近づけてみると、鼻らしき突起を少し動かして、しかし食いつこうとはしなかった。太々しくそっぽをむいて、怠惰に寝っ転がっているだけだ。

 ひょっとすると、件は食事せずとも平気なのかもしれない。生まれてから飲まず、食わずで、もう半日ほど経つが、衰弱した様子もなく、緩くカーブを描いた腹はほどほどにぱつり張っている。

 魚肉ソーセージをかじると、独特のチープな匂いが鼻を掠めた。

 件というのは、伝承に聞く予言獣の一で、予言をすると数日で死んでしまうという。あまりに残酷な話であるが、彼らは予言という機能を持つ代わりに、他の機能を失っているのではないか。つまり、体の構造が“予言をすること“、ただそれだけに最適化されており、そも生存するためには作られていないのではないかと、頭の中で考えを巡らせた。

 蚕は繭を作るために生まれ、成虫は食事をするだけの顎も消化管もなく、役目を終えれば数日のうちに死んでしまう。件も同じように、一つの役目のために生まれ、死ぬように進化したのかもしれない。

 そう思うと、予言を聞くのが急に恐ろしくなってきた。凶事を先んじて知ことではなく、私が予言を聞き届けることで、この目の前の冷たい生き物が死んでしまうことが怖くなった。予言は聞き届けられなければ存在しない。誰もいない森では木の倒れた音がしないのと同じで、言う者と聞く者がいて初めて予言は成立するのだ。これでは、看取るなどという受け身の話とは大違いだ。私が聞くことにより、件を殺すのと変わらないではないか。

 私は魚肉ソーセージを飲み込んだ。件はまだ予言をしない。

「なぁくだん、お前はどうして欲しい」

件は相変わらず間抜けな面で横たわっている。口を引き結んでむっすりと黙ったまま、こちらを一瞥して、目を閉じて眠ってしまった。

 腹にものが入った安心と、小難しい思考から生じた不安を同時に抱えて持て余していると、だんだんと眠気がやってきて、いつの間にか私は寝入ってしまった。



 午後、私が目を覚ますと件はいなかった。バスタオルの上には、ちょうど件と同じくらいの、苔むした岩があるだけだった。触れるとひんやりと冷たく、柔らかい苔が手のひらに触れてこそばゆい。窪みが三つあって、両目と口のように並んでいた。

 何が何かわからぬまま、私は部屋を見回した。朽ちた天井から、傾き始めた太陽が覗いていた。上下左右どこにも勝手知ったる風景はなく、ここがどこかもわからない。慌てて携帯電話のマップを開くと、位置情報は旧友の牧場からさほど離れていない場所を示していた。

 私は車を走らせ、昨日と同じように牧場へ向かった。赤茶けた土の道の先に昨夜と同じ柵が見える。道の脇に車を停めて、混乱したまま柵へ近寄ると、通りがかった酪農家の親父が、こちらに近づいてきて、柵を開けた。

「どうした兄ちゃん、狐に化かされたみたいな顔をして」

牧場の奥の方に、昨日入った牛舎は見えなかった。代わりに、視界の隅で、ひょろり細長い狐の尻尾が逃げていくのが見えた。

 管狐は憑物の一で、憑かれた人間は操られ、また予言をするという。曰く、その読みはくだきつね、あるいはきつねとも呼ばれている。


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くだん秘抄 八京間 @irohani1682

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