プラナリア・ディスコ
枕目
本文
それは死んだ金魚の目から生まれた。
はじめに飼っていたのは金魚、去年の夏休みにふたりで縁日に行ったとき、さっちゃんが欲しがったので、金魚すくいをやった。残念賞で二匹。次の日二人で水槽を買いに行った。
理科が得意なさっちゃんは、タイマーとモーターを組み合わせて自動餌やり機を作り、水槽のふちにとりつけた。エアポンプがぶくぶくと泡を立てる水槽の中で、仲良くエサをつつく二匹の金魚は、つがいのようにも兄弟のようにも見えた。
しばらくして片方が死んだ。
死んだ金魚ははじめ浮かんでいたが、やがて水槽の底に沈んだ。一日ぐらい経つともう一度浮かんできて、しばらくするとまた沈んだ。
「体にガスが溜まって浮くんだよ」とさっちゃんは言った。
やがて金魚の死骸は腐り始め、目には水カビが生えて、金の鱗も濁っていった。水槽はドブのような臭いを放ちはじめた。そろそろ埋めようかと話し始めたころ、死骸の上に動くものが現れた。ココア色の小さな生き物だ。
「プラナリアだ」
さっちゃんは生物を見て、命名するように言った。
二匹の軟体生物は、細い体をくねらせながら死骸の上を這いまわっていた。食べているのだ。いつの間にか金魚の目玉はからっぽになっていた。
金魚の死体が石けんみたいにすり減っていくにしたがって、プラナリアは四匹、八匹、十六匹と増えていった。金魚は内臓をすっかり食べられて、水槽の底で骨に変わっていった。糸のようなあばら骨のすき間を銅色のプラナリアたちが出入りしていた。まるで生まれ変わりみたいだ。
「かわいいね」
さっちゃんは笑う。金魚よりも彼らを気に入ったようだった。
プラナリア、矢印を丸めたような形のこの生物は、ヒルに近い種族だ。→の先端の方に小さな目が二つある。流れの少ないない栄養豊富な水を好む。つまり汚れてよどんだ水ってことで、さっちゃんの水槽はぴったりな環境だったわけだ。
こうしてプラナリアは水槽の一員になった。その後、もう一匹の金魚も死んで、水槽の支配者はプラナリアになった。
「この子たち、切り刻むと楽しいんだよ」と、さっちゃんは言う。
長い髪をしているさっちゃんは、名前を藤々木沙希といった。トトキサキ。彼女は優等生なのだけれど、クラスのみんなはなぜかさっちゃんを避けていた。二年前に転校してきた僕には、事情はよくわからなかったし、とくに知りたくもなかった。
有名な実験がある。プラナリアの頭部を縦に切り裂くと、左右のパーツがそれぞれ再生して頭がふたつのプラナリアができるのだ。ためしたら、実際その通りになった。頭が二つになったプラナリアは、それぞれの頭をちぐはぐに動かしながら、実験用のガラス皿をさまよっていた。しっぽでも同じことができる。
このように、プラナリアには再生能力がある。胴体をまっぷたつにすると、上半身と下半身がそれぞれ別のプラナリアになる。三等分でも同じことができる。
さっちゃんはバタフライナイフを持っていて、プラナリアを切るのによくそれを使った。
僕は実験がいつも楽しみだった。プラナリアを切ることより、むしろそれをするさっちゃんの横顔が好きだった。彼女の輪郭が蛍光灯に照らされて光っているのと、細い指がナイフを器用に操るところが。
冬のあいだも、プラナリアはヒーターの効いた水槽の中でぬくぬくと繁殖をつづけていた。彼らはときどきヒーターにからまって焼け死んだが、それでも数は増えつづけた。
そして春休み。
僕は毎日のように彼女の家に通っていた。水槽はさっちゃんの家にあるから、通うちょうどいい口実だった。彼女の家に通う口実があることは嬉しかった。
風の強い日で、新しい葉を出したばかりの街路樹がしきりにうなりをあげていた。
僕たちの住んでいる場所は新興住宅街で、似たような家が並んでいるから地元でも時々迷ってしまう。昔は田んぼや畑だったのが順番に住宅地と置きかわっていったらしい。西に行くほど新しい家が建っている。西の端には「せくと」のエメラルド色をした大きな建物がある。「せくと」がどういう意味なのかはよくわからない。ただ大人たちはそう呼んでいる。
さっちゃんの家は、西の高台の、とくに新しい家が並ぶ一角にある。角砂糖を重ねたみたいな二階建てだ。広い庭には大きなざくろが植えてある。
インターホンを押すと、さっちゃんのお母さんの声がする。
「ハヤト君、いらっしゃい」
僕は頭を下げて、きちんと運動靴をそろえてから、二階にあるさっちゃんの部屋へ駆け上がる。さっちゃんは無表情で僕を出迎えた。しょっちゅう遊びに来ているものだから、それほど歓迎はしてくれない。
「きたね」
さっちゃんは机に座っていた。同じ机の上にプラナリアの水槽も置いてある。机のわきには大人向けの分厚い本がつまった本棚がふたつ並んで壁を作っていて、床には入りきらない本が散らばっている。ベッドのわきに白いランドセルが放ってある。
「だいぶ増えたよ」
さっちゃんは水槽のふちをなでる。うっすら緑色ににごった水槽の底で、プラナリアの群れがお互いにからまりあって、あめ色のかたまりになっている。図鑑には、プラナリアの体調はせいぜい二センチと書かれているが、僕たちのプラナリアはもっと大きい。
「また殺してあげないと。あ、そのまえにエサ」
そう言ってさっちゃんは一階の冷蔵庫からタッパーを持ってきた。タッパーにはたぷたぷした赤黒いものが入っている。豚の肝臓だ。プラナリアは肉食性なのだ。
さっちゃんが小さく切ったレバーを落としてやると、プラナリアが群がってすぐにレバーは見えなくなる。その様子を、さっちゃんは愉快そうに見ている。
「ドブ臭いよね、その水槽」
「タバコよりいいよ」
「そうかなあ」
「私のお父さんヘビースモーカーでさ」
そう言いながらさっちゃんは机の引きだしを開け、金属のかたまりをとりだした。拳銃。一瞬、本物かと考えてびくりとする。さっちゃんなら本物を持っていてもおかしくないような気がするのだ。さっちゃんは僕のひたいに銃口を向けた。プラスチックの弾が飛び出してくるかと思って、僕は目を細めた。
さっちゃんが引き金を引くと、銃口が火を噴いた。
僕の前髪がすこし焦げた。
「お父さん、変なライター集めるのが趣味」
さっちゃんは笑う。冗談のつもりだったようだ。彼女はぼくの前髪を焦がしたぐらいでいちいち謝りはしない。彼女は水槽に視線を戻す。プラナリアたちは肉をほとんど食べ尽くしていた。
「そろそろまた、トウタしようか」
さっちゃんはそう言って足をぱたぱたと動かす。トウタというのはさっちゃんから教えてもらった言葉で、よくわからないんだけど、たぶん殺すという意味らしいのだった。
「明日はお母さんと買い物にいくけど、夕方はヒマなんだよ」
「じゃあ明日、沼でね」
「うん」
トウタは、まずさっちゃんがプラナリアを選び出して、新しい水が入った別の容器に移すことから始まる。彼らが選ばれたものだ、引き続き水槽で飼われ、ここで繁殖する。
選ばれなかった残りのプラナリアはどうでもいい存在だ。殺してもかまわない。ぼくたちは、はじめそれを踏みつぶしたりライターで焼いて殺していた。けどそれも面倒になってしまって、今ではぼくたちが「沼」と呼んでいる場所に捨てに行くことになっている。
翌日、僕たちは「沼」で待ち合わせた。
僕は沼を囲んでいるフェンスの一枚にもたれて、さっちゃんを待っていた。つる草がからみついたフェンスの金網は、きしみながら僕の体重を受けとめている。
沼は、フェンスで囲われた四角い空間だ。僕たちは沼と呼ぶが、自然のものではなくて、コンクリートの人工池だ。むかしは農業用のため池だったらしい、このあたりにはもう畑や田んぼはないから、ほとんど使われていない。夏が来るたびに蚊の発生源になる。沼の敷地をとり囲むように樹が植えられていて、離れて見るとちょっとした雑木林のように見える。
「またせたね」
さっちゃんが来た。彼女は水色のパーカーを着て、金魚のイラストが印刷された子供っぽいバケツを持っていた。バケツの中にはプラナリアがたぷたぷに入っている。
僕たちはさびたフェンスの扉をあけ、薄ぐらい沼の敷地に入った。扉のカギは錆びて茶色い塊になってしまっているから、誰でも入れるのだ。
この人工池は、呼ばれているとおり本物の沼みたいに見える。周囲をふちどるコンクリートは、溶けて砂利が浮き出し、ところどころひどく割れている。その周囲には苔がかさぶたのように成長して、たまった土にシダが生えている。
沼の水面はどろどろだ。抹茶のような水に腐った落ち葉が浮かんでいる。目をこらすと、水中に藻がからみあいながら茂っているのが見える。。
「ここってさ、いらないものを捨てるにはぴったりだよね」
「まあね」
僕たちはプラナリアを沼に流し込んだ。バケツをかたむけると、汚れた水とともに沼の中に放たれていく。水面は内臓みたいに波打ちながら、新しい汚水とプラナリアを受け入れる。
水面に、ぼっ、と大きな泡がひとつ立った。
「何か聞こえた」さっちゃんが言う。
「泡だよ」
「声が聞こえた気がしない?」
「気のせいだよ」
僕はバケツの内側に張りついていたプラナリアを叩いて落とした。
「もう帰ろうよ」
僕はさっちゃんの手をにぎって引く。さっちゃんはうっとうしそうに僕の手を払って、自分で歩き出した。フェンスをくぐって外に出ると、その場でお別れして、家に帰った。
さっちゃんの家とは違い、僕の家は醤油で煮付けたみたいな色の建物だ。玄関で靴を脱いでいると、母さんが玄関まで走り寄ってきた。
「僕だよ」
お母さんは僕の顔を見て、安心したような、残念なような、奇妙な顔をする。
「ああ、ハヤト。おかえり」
母さんは疲れた顔で言った。「ご飯にするから」
「あいつ、帰ってきた?」
母さんは首を振る。
「ふうん」
夕飯はハンバーグだった。お母さんははじめ二人分の食器を用意して、あわててひとつ引っ込めた。最近はずっとこんな調子だ。
僕の兄が失踪してから、ずっと同じことをくり返している。
「ユウトはもう戻ってこないかもね」
食事をしながら、母さんは自分に言い聞かせるみたいに言った。
「あんまり考えすぎると赤ちゃんによくないよ」
僕が言うと、母さんはうなずいた。母さんは最近どんどんやせていて、いっぽうお腹はブドウのようにふくれていっている。赤ちゃんに栄養を吸いとられているのだ。やつれた顔は、目だけがぎらぎら光って見える。
「こんなこと言ってはよくないけれど、いなくなったのがユウトのほうだったのは不幸中の幸いだったかも。ハヤトのほうがお勉強もできるし、先生の評判だっていいもの。食べ物の好き嫌いだってしないもんね」
「うん」
僕は苦手なハンバーグを口に押し込んだ。
「残ったのがハヤトでよかった」
母さんは笑う。
それから一週間は、同じことのくり返しで過ごした。僕は毎日のようにさっちゃんの家に通った。通うのはさっちゃんが好きな事もあるけど、それ以上に家にいたくないからだ。
兄を捜索している警察からは何も連絡がなかった。捜査は進んでいないのだ。
変わったことといえば、地元の新聞が取材に来たぐらいだ。断ったけど結局小さく記事が載った。春日井優人くん失踪事件。その新聞記事が載った日は、僕にとってもちょっと特別だった。
さっちゃんの誕生日なのだ。
彼女は上機嫌だった。僕がプレゼントをあげたからだ。
「すごいね、継ぎ目や血管の穴までよくわかるよ」
ぼくのあげた頭蓋骨模型を抱いて、さっちゃんはうれしそうだった。僕がお年玉をはたいたこの頭蓋骨模型はとても高価なものなのだ。なにしろ、大人のお医者さんや学者が持つもので、本物の人間の頭蓋骨から型をとった本物そのままのコピーなのだ。
「ありがとう」
さっちゃんはひとしきり頭蓋骨模型を愛でると、それを机の上に飾った。骸骨は笑っているようにみえる。
「ねえ、こっちもおもしろいことが起こったんだよ」
そう言って彼女は僕にプラナリアの乗ったガラスの皿を見せた。
そのプラナリアは、頭がふたつ、尻尾がふたつ、胴体のところで二匹がくっついたような形をしていた。ちょうどXの形だ。そして前の世代のプラナリアよりさらに体が大きいみたいだった。僕たちの飼っているプラナリアはトウタのたびにだんだん大きくなっている。大きい方がさっちゃんに選ばれやすいのだろう。
「切ったの?」
X型のプラナリアを見て、僕はさっちゃんが再生実験をしたんだと思った。頭としっぽを割って再生させれば、この形になる。
「ちがう、自然にできた。このプラナリアたちね。分裂するときに、うまく自分の体を切り離せなかったみたい。中途半端に分裂した二つの体がくっついたまま再生して。双子になったの」
「ふうん、分裂に失敗したんだ」
プラナリアは僕たちが切らなくても、自分で体をちぎって分裂することができる。そうやって自分とそっくり同じコピーを作るのだ。
「この世代の子たちは、みんな分裂がヘタ」
見ると、水槽の底を埋め尽くすプラナリアの群れの中に、X字になったプラナリアがぽつぽつ混じっていた。
「双子のプラナリアは、普通のよりうまく動けないけど、体が大きいから餌の取り合いで勝つみたいね。だんだん数が増えてる」
「それって、進化してるってこと?」
「まだ変種ってとこかな。新種になるのはこれから。増えたらまたトウタしないとね」
さっちゃんは嬉しそうに言った。そのとき僕はようやく気付いた。彼女はプラナリアが増えすぎたから減らしていたわけではなくて、はじめから品種改良をするつもりだったのだ。トウタとはそういう意味だったらしい。
「ところで、今日は何ごっこしようか?」
さっちゃんは言って、にいっと笑った。そしておもちゃの手錠をとりだして、僕の手首にかけた。
「探偵ごっこがいいかな。君は死体ね。朝ベッドで死んでいるのが見つかったの」
「また? あれ、僕じっとしてるだけだからおもしろくないよ」
「私はおもしろいの」
さっちゃんは頭がいいのに幼稚なところがある。ごっこ遊びが大好きなのだ。小学校の高学年なのに、本気でごっこ遊びをする。本気の本気だ。探偵ごっこ、薬やさんごっこ、自殺ごっこ、内容はなんでもいいらしい。同級生はみんなごっこ遊びなんかとっくに卒業しているし、さっちゃんを避けている、相手はぼくしかいない。
さっちゃんはクローゼットにごっこ遊びの道具を山ほど持っている。帽子やネクタイ、ロープや手錠、セミの抜け殻、ナイフ。何でもありだ。彼女は手に入るもので、何かになりきるのに使えそうなものはぜんぶとっておく。彼女のお父さんのライターコレクションも、ときどきくすねて小道具にする。
「わかったよ」
僕はさっちゃんのベッドにごろんと横になった。いい匂いがした。
彼女のごっこ遊びは特別な意味があるようで、拒絶は許されない。薬屋さんごっこの時はチョークの粉や色水を飲まされたし、何から作ったのかわからないものだって飲んだ。解剖ごっこの時は新品のカッターナイフを使ったから、お腹にちょっと傷がついた。
僕はいつだっておとなしく従うことにしていた。優等生のさっちゃんのこんな面を知っているのは、僕ぐらいなのだ。
さっちゃんは死体になったぼくにいろいろ設定をつけ加えた。よくあることだが、彼女は途中で気が変わった。探偵ごっこは解剖ごっこになって、彼女は僕のお腹から、胃に見立てた弁当箱や、肝臓に見立てたヌイグルミや、心臓に見立てた貯金箱を取り出した。水槽の中では、プラナリアが内臓を食べていた。
夕方になって家に帰ると、また母親と顔をつきあわせて食事。
そんな調子でさらに一週間が過ぎた。わずか一週間で、水槽は双子プラナリアでいっぱいになってしまった。ぼくたちはまたトウタをすることにした。
前と同じように僕は沼の外で待っていた。沼をとりかこむ樹が盛んにざわめいていた。しばらくするとバケツを持ったさっちゃんが来る。
「声がするね」
なまり色に波打つ沼の水面を見て、さっちゃんがぽつりといった。
「風の音だよ」
「ちがうよ」
さっちゃんは沼の水面をじっと眺めていた。じっと、そのときの彼女は人形かなにかのようだった。
ふっと風がやんで、やがて水面は氷が張ったみたいに静かになった。僕は早く用を済まそうと、固まっているさっちゃんからバケツをうばいとった。
「ゆっくりしてけよ」
錆びたような声で、さっちゃんが呟いた。それはふだんの彼女の柔らかい声とはまるで違っていた。まるでラジオを通して聞く声みたいだった。
「浮かんでくる」
沼に大きな泡がひとつ浮かんだ。
「お」
声がきこえた。それはたしかに声だった。
水面に茶色い固まりが浮かび上がってきた。茶色い固まりには手と足と頭があって、服を着ていた。死体。
あおむけの死体は、水の上を船のようにすべってこちらにきた。死体の全身は、水飴をぬりつけたように褐色に光っていた。近づくにつれ死体の細かいディテールが見えてくる。唇のない口から黄ばんだ歯がのぞいている。手の皮膚ははがれてところどころ骨が見えている。水草のからまった髪が皮膚ごとはがれおちつつある。
卵と大便がまじったような腐敗臭があたりに立ちこめていた。
やがて死体は僕たちの足もとに来たきた。
死体の全身は、びっしりとプラナリアに覆われていた。褐色に見えた肌は、すべてプラナリアの背中だった。目玉は食い尽くされ、ぽっかり空いた穴には無数のプラナリアがからまりあっておさまっていた。
僕は叫んだ。
逃げだそうとさっちゃんの手をつかんで引っ張ったが、さっちゃんは動こうとしない。それどころか、彼女は強い力で僕の手を引っぱり返した。細い腕なのに、まるで大人の男のような力だった。
彼女の目はじっと死体を眺めている。
「逃げなくてもいいじゃないか、兄弟なのに」
さっちゃんは蛙のような声で言った。その声は崩れていたが、聞きおぼえがあった。兄の声だ。さっちゃんの口から、兄の声が聞こえてくる。まるで電話みたいに。
彼女はすごい力で僕の腕を引っぱり、地面に引き倒した。手をついた僕のすぐ目の前に、死体の顔があった。
「お」
死体ののどから声が漏れた。それはまちがいなく死体ののどから聞こえた。
「お」
さっちゃんが同じ声を出した。僕を見おろして笑っている。
「なーんちゃってね」
次の瞬間、彼女はふだんの表情に戻っていた。声もいつも通り。
「汚いよね、これ」
彼女は死体をつま先でつついた。彼女の白いスニーカーに褐色の汁がついて、プラナリアが一匹張りついた。
「何でしんじゃったんだろうね?」
僕は飛び起きて死体と距離をとり、深呼吸する。心臓が針金で締めつけられたみたいだった。
ぼくはどうにか息をととのえて、返事した。
「な、なんでかな。誘拐されて殺されちゃったんじゃないのかな」
「どうして殺したと思うの?」
「ど、どうしてって。刺し傷があるから」
死体の腹部には、包丁で刺された傷がぽっかり開いていた。着ている服もおなじ形に裂けている。傷口は小さな水たまりのようになって、褐色の液体が染み出している。
「刺したんだ」
さっちゃんは僕を見て、猫みたいに笑った。
「ぼ、僕じゃない」
「こんなところに捨てちゃったら、大人がすぐ見つけちゃうなんて思わなかったの? いつも私たちがここでプラナリアを捨ててたから、ここが思い浮かんだんでしょ」
僕はあとじさる。死体の腐敗臭が鼻をついて、吐きそうになった。
「ふうん、君じゃないんだ? 残念だな、私は探偵には向いてないかも知れないね。じゃあ探偵ごっこはおしまいにして警察に届けようか。警察だったら私と違って、簡単に犯人を見つけるよ。刃物の刺さった角度で犯人の背の高さが分かったりするんだよ」
膝がふるえ始めた。まるで自分の体ではないようだった。
さっちゃんの声がまた変わった。彼女は人形のような無表情になり、すうっと息を吸い込んで、口をひらいた。
「かえせよ、かえせよ」
兄の声だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
唱えるように言いながら僕はあとじさった。股間にあたたかい湿気が広がった。次の瞬間、さっちゃんはぱっとふだんの顔に戻った。
「なーんてね。じょうだんだよ。じょうだん」
さっちゃんは僕の頭に手を置く。
「声まねだよ」
僕はしゃっくりが止まらなかった。
「さっきのだって、屍体ののどから空気が漏れただけだよ。肺にたまったガスが、のどを通るときに音をだすの。死体はしゃべるんだよ。当たり前だよ」
さっちゃんがささやく。
「黙っててほしい?」
選択の余地はなかった。もともとないに等しかったけど。
沼から帰ったあと、僕はさっちゃんの家に寄ってシャワーを浴びさせてもらった。彼女のお父さんのズボンを借りてはく。足の間がスースーした。
僕の服は洗濯機の中で回っている。さっちゃんのお母さんが家にいなかったのが救いだった。
「だいじょうぶだよ。たくさんのプラナリアが、死体の肉を食べてくれるよ。すぐに白骨死体になっちゃう。そうしたら刺し傷のあともわからない。きみのしたことははんぶんは正解だよ」
「うん」僕は力なく返事した。
「プラナリアたちは頭蓋骨の中に入って、死体の脳まできれいに食べちゃうよ。たぶん、もうそうなってる。あの死体の頭の中にはプラナリアがぎっちり詰まってるはず」
僕は吐きそうになる。
さっちゃんは、僕のあげた頭蓋骨模型を熱心に眺めている。プラナリアが頭の内側に入り込むルートを想像しているみたいだ。頭蓋骨を見るとまた思い出してしまう。
「きれいに骨だけになったら、拾いにいこうかな。漂白剤で洗えばたぶん真っ白になるから、君からもらったこれの隣に置こうよ。兄弟ってことにしよう」
さっちゃんはくすくす笑う。
「明日もうちに来ないとだめだよ」
そういって彼女は僕を解放した。外はもう暗くなっていた。
家に帰る。夕食はカキフライだった。豪華だ。大好物だったけど、カキの断面を見て思い出してしまう。胃が凍ったみたいになっていて、食欲は全くなかった。僕は吐き気をどうにか押さえながら食べた。お母さんは食事をする僕をぼんやり見て、言った。
「さいきんはユウトのことはあまり考えないことにしてるの」
母さんは赤ちゃんの入っているお腹を撫でながら、カキフライをもりもり食べていた。食欲が戻ったみたいだ。ユウトはもういらないのだ。
「それがいいよ」僕は言った。
お風呂に入って体を洗っているあいだ。僕は怖くて鏡が見られなかった。自分の顔を見ると、死体を思い出す。僕と兄は一卵性双生児だった。ハヤトとユウトは同じ顔。
豆電球を残して明かりを消して、目を閉じた。つかれていたせいか、水面に投げたコインのように、僕は一瞬で墜ちた。
気がつくと、ぼくは沼のほとりにいた。
月が出ていた。沼が月を映して、水銀みたいに光っていた。暗がりに目が慣れてくると、夜露にぬれたこけや、シダの葉の輪郭が浮かび上がってくる。
沼に泡が浮いた。もうひとつ浮いた。もうひとつ、もうひとつ。泡の間隔は次第に短くなり、腐敗臭がたちこめた。沼の中央に固まりが浮かび上がった。
それは水面をすべって足許まできて、月明かりに浮かびあがった。
ふやけた肌はところどころ破れていた。その皮膚の裂け目は茶色いかさぶたのようなものでおおわれている。膜はゆっくり動いていた。それはプラナリアの群れだった。
死体は口を開けた。かくんと頭が傾いて、空っぽの両目が僕に向く。のどから大きな泡とともに何か言葉が飛び出てきた。
「お」
僕は逃げだした。
ひざの力が抜けて上手く走れない。僕は木の根に足を引っかけながらも、どうにかフェンスにまでたどり着いた。
しかし扉は開かない。沼と外を隔てる扉には、なかったはずのカギがかかっていた。扉に体当たりをしたが、金網にはじき返されただけだった。
うしろから髪の毛をつかまれ、引きずり倒された。ぼくは湿った落ち葉の中に頭をつっこんだ。死体が馬乗りになって首に手を伸ばしてきた。僕の顔にボタボタと冷たいものがおちてくる。悪臭が鼻いっぱいに広がった。
僕は腕を振りはらい、反射的にそいつの胸を殴りつけた。拳は腐った肉に沈んだ。また冷たいものがぼたぼた顔に落ちてきた。それは僕の顔の上を這い回る。プラナリアだった。
また僕の首にそいつの手が伸びる。冷たい感触が僕の首筋を這う。僕はその手をつかんで、ひきはがそうともがいた。
ぶちん、と感触がして、しめつけてくる力が弱まった。ちぎれた親指が僕の手の中にあった。
指を引きちぎられても、死体はひるまずに僕を絞め殺そうとし続けた。液体にまみれながら、どうにか抵抗し続けて体勢をたてなおした。近くにあった石を拾ってやつの頭にたたきつけると、大量の液体とプラナリアが周囲にぶちまけられた。
それでも奴はひるまなかった。僕は再び組み伏せられた。
どれぐらい抵抗を続けただろうか。あきらめかけた瞬間、ふいにやつは立ち上がり、口を開いて痙攣した。笑っているようにみえる。 見上げると、空の端が白くなってきていた。
僕の顔の上に濡れた筆のようなものが落ちてきた。それは皮膚ごとはがれ落ちた髪の毛で、裏側には脂身のようなものがついていた。
「またな」
死体は潰れた声で言った。
そして僕は布団の中で目を覚ました。
眠ったのに、疲れは少しもとれていなかった。僕は息をついて、自分の体の臭いに気がついた。僕の全身にはプラナリアの水槽と同じ臭いがしみついていた。軟体生物のぬるぬるした臭い、餌の肝臓が腐った臭い。
ぼくは臭いを洗い落とそうと風呂場に走り、鏡を見て叫んだ。僕の首はまだら模様になっていた。紫色のあざが、のどを覆うようにびっしりついていた。
何度洗っても、臭いは落ちなかった。
「なんか、きみちょっと臭いよ」
さっちゃんは笑顔で僕を指さす。
僕の頭に顔を近づけてさっちゃんは鼻を鳴らす。臭いといわれて、僕はむしろこの臭いが幻覚でないとわかって安心した。
「髪の毛がくさい」
さっちゃんは、よし、と言って立ち上がり、机の引き出しからハサミを取り出した。
「床屋さんごっこしよう」
髪に臭いがしみついているから、髪を切る、ということらしい。
「どうしたの? いやなの? 美容院ごっこの方がいい? どっちかすきなほう選んで」
同じじゃないか、と思ったが。僕は眠気で頭が回らなかった。
「じゃ、じゃあ、美容院」
さっちゃんは床に新聞紙をしいて、僕の服を脱がせた。服に髪がつくからだという。上半身裸の僕は、頭を押さえつけられ、前髪にはさみをあてがわれた。前髪が束になって、ばさりと落ちた。毛の何本かがハサミの継ぎ目に引っかかってブチブチ抜けた。
美容院に行ったことはないけど、これは違うと思う。
「あ、切りすぎちゃったかな。まあ大丈夫だよ、ごまかすから」
さっちゃんは僕の髪の毛を冷たい水で濡らし、粘土みたいにこねまわして、オールバックにしたり、ななめにしたりした。ごまかしかたを考えているらしい。彼女の息がおでこにかかる。
「ち、近いよ」
さっちゃんが顔をしかめていることからすると、もう取り返しがつかない。
「よけいなこと言わないで。あ、また切りすぎちゃったよ。どうしてくれるの?」
また髪の束がばさっと新聞紙に落ちる。さっちゃんは反対側の前髪もざっくり切った。本当にどうしてくれるんだろう。
「はい、できあがり。えーと、まあ、うん、すっきりした」
さっちゃんのコメントはそれだけだった。僕の髪の毛は新聞紙にくるまれてゴミ箱に捨てられた。
「犬みたいでかわいいってば」
そう言われて少し嬉しいと思ってしまう。さっちゃんは手鏡をとりだして僕の顔を写してくれた。犬みたいというのはひかえめな表現で、実際には発狂したウニみたいだった。
「まあ、すぐまたのびるよ」
僕は疲れで気を失いそうだったので、どうでもいいと思った。
さっちゃんはやさしくなって、部屋で休ませてくれた。
「ハヤト、どうしたの? その頭?」
家に帰った僕が発狂したウニみたいな頭をしているのを見て、お母さんは叫んだ。僕が黙っていると、母さんはそれ以上何も訊かなかった。母はどうやら、僕がユウトを失ったショックで少しおかしくなっていると考えたみたいだった。
僕はご飯を少しだけ食べて、風呂に入った。泡に混じって髪の切れ端がたくさん排水溝に吸い込まれていった。
自分の部屋に戻ると、夢の記憶がまたよみがえってきて、僕は恐怖した。しかし同時に強烈な眠気も感じた。僕は布団に吸いこまれるみたいに堕ちた。
そして、僕はまた沼の前に立っていた。
昨日と同じように、それは、死体は水の中から現れた。僕は前の晩と同じように逃げだしたが、やはり扉は同じように開かなかった。うしろから髪の毛をつかまれた。しかし僕の髪は短かった。指は僕の髪をすりぬけた。
僕は扉に上半身を預け、思い切り死体を蹴った。相手は倒れ、あたりに液体が飛びちった。相手はひるむことなく、起きあがって首に手を伸ばしてきた。振り払う。やつはまた手を伸ばしてくる。振り払う。手が伸びる。テレビゲームの敵キャラみたいな愚直さ。
「かえせよ」
それははっきり言葉に聞こえた。
「かえせ」
月明かりに照らされた顔の目はただの空洞だった。いつかの金魚のように。鼻ももうない。僕は近くにあったコンクリートの破片をつかんで、叩きつけた。
「誰が返すか!」気がつくと僕は叫んでいた。
「何度でも殺してやる!」
僕は昨日よりも優勢だった。何度もやつの頭を殴りつけた。そのたび、プラナリアと体液の混じったものが飛び散った。
「ぜんぶ僕のものだ!」
その言葉に反応するように、死体ははね起きて、僕の持っていたコンクリートを払って押し倒した。組みしかれた僕は、昨日と同じように抵抗した。数回やりあったあと、僕は自分の両肩を抱くようにして首を防御した。するとやつは僕の口の中に手を突っ込んできた。はがれかけた爪があごの裏を掻き、舌の上を軟体生物が這い回った。
どうせ夢だ。
僕は意を決してやつの指を噛みちぎった。フライドチキンの骨を食いちぎったような感触。僕は石でやつの肩をなぐりつけて横に倒した。体を起こし、やつの腹を全力で踏みつけた。それから三本の腐った指を吐き出して、嘔吐した。
僕はその夜も戦いぬいた。自分が夢の中にいることは分かっていたが、この夢の中で死ぬことがとても怖かった。だから空が明るくなって、星が消え始めたとき、本当に安心した。
そして僕は布団のなかで目を覚ます。
朝ご飯はコーンフレークだった。お母さんははじめからユウトなんかいなかったような顔をして、いとおしそうにお腹をなでていた。
「この子が生まれたら、また家もにぎやかになるから」
「そうだね」僕はうなずく。
「残ったのがハヤトでよかった。ユウトは、暗い子だったから」
もういらない、と僕は頭の中でつけ加えた。
そして夜が来る。眠る。気がつくと、僕は沼に立っている。
そのくりかえし。
夜がくるたびに僕は戦った。僕はだんだんと戦うことに慣れていった。つかみかかってくる腕をふりはらうこと、相手を組み敷くこと、組み敷かれたときに相手の腹に蹴りをくれてやること、石を相手の頭に思い切り叩きつけること。
「なんだか、やせたね」
さっちゃんは僕をじゅうたんの上に座らせ、犬の体調でも確かめるみたいに僕の体をためすがめすした。口をあけさせて中をみる。
「私が死体のことをしゃべるのが怖いの?」
僕は首を振る。
「お兄ちゃんを殺したのに罪の意識があるのかな、ユウトくんは」
「僕はハヤトだよ」
しばしの沈黙。水槽の泡の音だけが部屋に響いていた。
「バカじゃないの」さっちゃんは笑う。
「いくら双子だって区別ぐらいつくよ」
僕はさっちゃんから目をそらし、水槽の中の双子たちを見た。双子のプラナリアは、どんどん大きくなっている。大きいものがエサにありつけるので、よけい大きくなるのかも知れない。
「きみがあんまり必死にハヤト君のふりするから、すこしほうっておいただけ。なんで殺して入れ替わろうなんて思ったの? バカなの?」
さっちゃんはおかしそうに笑い転げた。
「うちのお母さんは、区別つかないよ」
僕は言った。口の中で腐った肉の味がした。夢の中の味だ。
「僕がハヤトを殺して、沼に捨てた。母さんが警察に電話したのはその日の夜。それから一週間ぐらいたってから。母さんが僕のことハヤトって呼ぶようになったんだ。ハヤト、ハヤトって。いなくなったのがユウトで良かったって何度も言うんだ。警察にもユウトがいなくなったって話してるから」
「そう。ハヤトくんのほうが大事なんだ」
さっちゃんが言う。口の中で藻のような味がした。
「ユウトはいらない子供なんだ。だからハヤトになるんだよ」
僕は笑う。さっちゃんは何か変わった生き物でも見るような目で僕をみている。
「ふーん」
「さっちゃんも、僕のことハヤトって呼んでよ」
「いいよ。じゃあハヤト君、今日は何してあそぼうか」
「何でもいいよ」
「そうだ。せっかくだから殺人ごっこしよ。私がハヤト君で、きみを殺すの。殺して死体を沼に捨てるの」
さっちゃんは机の引き出しからバタフライナイフを取り出した。プラナリアを切るのに使ったナイフだ。
彼女は床にタオルケットをしいて、それを沼ということにした。ハヤトくん役のさっちゃんは、僕のお腹をナイフで刺して殺し、死体になった僕をタオルの沼に捨てる。
ようするに僕がやったことがそこで演じられた。
日が暮れるまで、僕とさっちゃんは何度も何度もその遊びをくり返した。ユウトは何度も何度も刺し殺されて、タオルの沼に捨てられた。ユウトは何度も何度も死んだ。
十六回目、さっちゃんはうっかり手をすべらせて僕の額を本当に切ってしまった。眉間をつたって血がしたたり落ちた。さっちゃんは手当てしてくれて。血が止まったのを確認してから、死体役の僕をタオルの沼に捨てた。
「夢の中にハヤトがでてくるんだよ」
タオルの沼の中で僕は言った。
「ん? 死体がしゃべったらダメだよ」
「夢にハヤトが出てきて、僕を殺しにくるんだ。何度でも生き返って沼の中から僕を殺しにくるんだ。どうしたらいい? いつか殺されると思う」
「ふーん」さっちゃんは絨毯に手をついて、僕を見下ろす。
「殺しちゃえばいいのに」
「どうやって?」
「さあ」
僕はタオルの沼の中で目を閉じた。
それから、さっちゃんは殺人ごっこが気に入ったようで、毎日僕を殺した。夢の中で毎晩ハヤトと戦った。お母さんのお腹は日増しに大きくなっていく。警察はまだどこにもいないユウトを探し続けている。同じことのくり返しの毎日が、少しずつ軌道を外れていく。
殺人ごっこをくり返すたび、僕は自分がどんどんハヤトになっていくのを感じた。というより、自分の中のユウトはゆっくり死んでいった。自分が死んで、何者でもなくなって、なにかになる。
「屈葬って知ってるかな」
さっちゃんは僕を刺しながら言った。
「昔の人は、死体を埋めるときに手足をしばって埋めたんだよ。火葬が発明されるまえの話だけどね」
さっちゃんはそう言いながら、死体役の僕を沼に捨てた。
屈葬の話は、僕も本で読んだことがあった。そのときには、僕は昔の人たちがなんで死体の手足をしばったりしたのかよくわからなかった。でも今はその気持ちがよくわかる。
「怖かったんだよ。きっと」
「死体が怖いの?」
死体役の僕は、沼の中で首をふる。
「死体は怖くないけど、死体が死体じゃなくなっちゃったら……」
「なっちゃったら?」
「なんて言うか……」
「いうか?」さっちゃんはくすくす笑う。
「困る」
僕たちは笑った。
さっちゃんは機嫌が良くなって、鼻歌を歌いながら、死体の僕を沼から引っ張り上げ、もう一度殺人ごっこを始める。
彼女の鼻歌は「ロンドン橋落ちた」だった。たしか、あの何度も橋が崩れ落ちる歌だ。皮肉な歌を歌いながら、さっちゃんはまた僕を殺す。
ロンドン橋が落ちる 落ちた 落ちる ロンドン橋が落ちる
マイ・フェア・レディ。と僕は頭の中で歌った。
翌日、さっちゃんの家に行くために歩いていると、二人組の少年に呼び止められた。相手はおなじ学校の上級生のようだった。僕から小銭をまきあげようとしたのだ。
僕は近くに止められていた自転車を持ち上げ、ためらいなく片方の頭に叩きつけた。相手が倒れたのを確認して、今度は腰を入れて。もう一度。もう一度。もう一度。
ハヤトは指をちぎったぐらいでひるんだりはしないから、殴り続けるのが鉄則なのだ。
僕はすばやく相手の腕を道路の段差に置いて、その上に飛び乗った。相手は悲鳴をあげ、もう一人は逃げた。僕は鼻歌を歌いながら、もう一度自転車を持ちあげて、振り下ろす。相手の耳が半分とれかけているのに気付いて、つかんで引っぱる。
「やあ、ハヤトくん」
さっちゃんが僕をハヤトと呼ぶようになって、もう一週間が経っていた。その呼び声で僕は笑顔になる。
「お母さんがいないときでよかったよ」
さっちゃんはウェットティッシュをとり出し、僕の顔についた血をきれいに拭いてくれた。服は黒と紺だったので、血は目立たない。
「ハヤトくん、さいきんは顔色がよくなったね。目つきもいい感じになったし、なかなかおもしろくなってきたよ。夢はどう? 悪い夢を見るって言ってたけど」
「もう大丈夫だよ」
「夢はもう見ないの?」
僕はくつくつ笑う。「毎日見るよ」
「悪い夢じゃなくなったの?」
歯を見せて笑う。「前よりはね」
「夢の中で前のハヤトくんと戦うの?」
「慣れた」
「ふーん」
「ゲームみたいなものだから」
「そうなの?」
「なかなか殺せないんだ」
「じゃあ殺す?」さっちゃんは満足げにうなずいた。
「そろそろ、前のハヤト君の死体見に行こっか」
沼は以前来たよりも澄んでいた。
緑色に濁っていた沼は、今では褐色になっていた。油の膜が水面に浮かび、青っぽく光っていた。ほとりに生えているシダはしばらく見ない間に大きく成長し、緑の球体のになってコンクリートを覆っていた。暖かくなったからか、それとも沼の水が養分に満ちたせいか。
ハヤトの死体は、沼のほとりに浮かんでいた。皮膚はそっくり剥がれおちていた。ぞうげ色の骨の周囲を、無数のプラナリアが這い回っていた。臭いにおびき寄せられた蠅が水に墜ちて死んでいた。
なんで大人たちは気がつかないんだろう、こんなに臭いのに。
「もーすぐ白骨になるねっ」
すさまじい腐敗臭の中で、さっちゃんは箱入りの板チョコレートをぽりぽり食べている。ひじに提げたコンビニの袋からは、スポーツドリンクのペットボトルがはみ出していた。
「ジュース、いる?」
「いらない」
「あげない」
さっちゃんはチョコレートを食べ終わると、その箱を袋に戻した。そして、袋から銀色に光るものを出した。
「これ、なんに見える?」
「ナイフ」
それはさっちゃんのバタフライナイフより二回りは大きかった。
「夢の中では、沼で襲われるんでしょ、じゃあここにナイフを置いておけばいいよ。ここから出して戦えばいい。殺しちゃいなよ」
さっちゃんは、それをシダの葉のなかに隠した。
「あ、大事に使ってよね、借りたものなんだからね」
「わかった」
さっちゃんはチョコレートを食べ終わると、箱を地面に捨てた。
「じゃあ、もう行こうか」
「そうだね」
僕はきびすを返し、さっちゃんの手を引いた。
扉をくぐるまぎわ、さっちゃんはビニール袋を地面に捨てた。
「家帰ったら、バイクごっこしようか。君がバイクね、バイクだからガソリン飲まなきゃダメ」
「そんなの無理だよ」
「ジュースもガソリンも似たようなものだよ」
さっちゃんの家に寄ると、お母さんは留守だった。彼女はめずらしくにこにこしていて、お茶なんか入れてくれた。ちょっと濃すぎる紅茶を飲みながら、ふと水槽のプラナリアを見る。双子のプラナリアたちは、完全に別の生物になっていた。彼らは長い頭部と尾を触手のようにゆらめかせて、水槽の中をさかんに動き回っていた。もう、図鑑に乗っているプラナリアとは似ても似つかない種族だ。
「もう、別の種類だね」
「そうだよ」さっちゃんはにっこり笑う。
「品種改良に成功したんだよ」
さっちゃんは紅茶に砂糖をもりもり入れて、それから僕の紅茶にも同じだけ入れてくれた。やけに親切だ。さっちゃんは頭蓋骨の模型を抱きしめ、その頭をぽんぽん叩いている。
僕は紅茶を飲み干した。溶け残った砂糖がじゃりじゃりする。
家に帰るころには、日はすっかり暮れていた。テーブルの上に置き手紙が置かれていた。久しぶりに見る父の字で、お母さんを病院に連れて行くと書かれていた。風は強さを増していた。雨戸ががんがん揺れる音が、人気のない家に響いていた。
夢の中で殺されたら自分はどうなるんだろう。
僕はシャワーを浴びた。いつもより念入りに、二回体を洗った。ぼくは熱いシャワーを長いこと頭からかぶっていた。熱い液体が頭からしたたり落ちるのを感じながら、少しの間祈った。祈るといっても、兄を殺して沼に捨てた弟の願いなんか、まともな神様は聞いてくれやしないだろうけど。
ベッドの中で目を閉じる。
眠る瞬間の墜落を通り過ぎると、僕は沼の前に立っていた。
濃密な腐敗臭があたりをねっとりと満たしていた。上を見上げると、空の中央で丸い月が輝いていた。空をふちどる木々は、不規則な形のシルエットになって、ざわざわと揺れていた。
月に照らされた沼の水面は銅の鏡のように見えた。やがて中央にあぶくが浮かんで、それを追うようにやつが浮かびあがった。
「なまえをかえせ」
やつははっきりと言った。
やつの肉体はわずかに青く光っていた。もう奴には皮膚はない、代わりに、体の表面はプラナリアにおおわれていた。双頭と双尾をもった無数のプラナリアが、その双子の体を互いにからみあわせながら、びっしりと群がっていた。それはうっすら青く光っていた。
「ぼくの、なまえ、かえせよ」
僕は足もとに転がっていたコンクリートの破片をつかんだ。
「うるさいな、ぼくがハヤトだ。母さんは、あの日以来僕を一度もユウトって呼んでないよ。僕はハヤトなんだ。お前は、もう誰でもない。誰でもないまま死ね。お兄ちゃん」
死体は素早く動いた。それは這うみたいな姿勢で走って、シダの茂みの中に手をつっこんだ。死体の手の中で金属が光る。
ナイフを取られたが、恐怖はなかった。
「僕ね、少し勉強もがんばってみたんだ。そうしたら意外とわかるってことに気がついたんだ。さっちゃんもいろいろ教えてくれるし、母さんを満足させられる点が取れそうだよ。運動も、練習したらけっこうできるかもね」
僕はチョコレートの箱を拾い上げ、中を裂いてチョコレートの空き箱を取り出した。箱を逆さに振るとバタフライナイフが出てきた。中指ほどの刃は月光に濡れて銀色にきらめいた。
「だから、安心してもういちど死んでくれていいよ。お兄ちゃん」
死体は襲いかかってきた。僕は避けた。いっぽう、僕のバタフライナイフは相手の手に刺さり、腐った肉をくぐり抜けた。しかし効果はないようだった。こいつは切り刻まれても平気なのだ。僕は左手にもったコンクリートの破片を相手の顔面に叩きつけた。ナイフよりはこっちのほうが効く。僕は頭をコンクリートの破片で殴る。殴り続ける。
死体の顔は完全に潰れて、ミキサーにかけたようになっていた。手を振り下ろすたび、あたりにプラナリアが飛びちった。何度目かに叩きつけたとき、相手の頭蓋骨が割れた。中からたくさんのプラナリアが這いだしてきた。
僕は体勢を崩した相手に馬乗りになった。組み敷かれた死体は、そのまま武器を振り回してくる。僕はどうにか避けて、相手の手首をつかんだ。僕はバタフライナイフを相手の手首にさし込んで、ぐりぐりと押し切ろうとした。振りはらわれたが、死体の手は武器をにぎったまま半分ほど切りおとされていた。
僕は頭上を見上げた。月はさっきと同じ位置で輝いている。
「あさは来ない」
あごを殴りつけられた。頭を半壊させても、死体は動き続けていた。死体は僕をふりほどき、足を叩きつけてきた。死体はそのまま立ち上がり、立てなくなった僕の腹を踏みつけてくる。
見上げると、月を背にした死体のシルエットは元通りになっていた。さっき砕いた頭の部分がふくふくと盛りあがりつつある。無数のプラナリアがからまり合って、欠けた部分を埋めていた。
僕は体を丸めて転がって、どうにか体を起こし、逃げだした。なにか考えがあったわけではなく、ただ逃げた。蹴られた腹が刺すように傷んだ。うしろから湿った足音が追ってくる。
僕はバタフライナイフを握りしめたままだったが、こんなものは役に立たない。いくら切り刻んでも相手は平気なのに、僕はそうではない。このまま斬り合ったら、絶対にこちらの負けなのだ。
空を見上げても、月は動いていない。朝はこない。
沼の周囲を走って逃げる。相手のほうが足が遅いから、逃げていれば時間は稼げる。僕が疲れ果てるまでの間は、だが。
走りながら、さっちゃんは僕を恨んでいたろうか、とふいに考えた。彼女も元のハヤトのことを気に入っていたんじゃないんだろうか? お母さんがそうだったように。
ハヤトを殺した僕を、できるだけ長く苦しめようとしたんじゃないだろうか。
僕は考えながら、そのまま沼の周囲をぐるりと一周した。
「それは、ないか」
僕は足を止めた。足もとにさっちゃんの捨てたビニール袋が落ちている。拾いあげた。
「どっちでもいいんだもんね」
死体が銀色に光るものをにぎりしめて走ってくる。死体は笑っていた。肉のすっかりそげ落ちた頭蓋骨を、無数のプラナリアがくるんでいて、その口元はスマイルマークに似ていた。
「あの子にたまたま気に入られた方が勝つんだ。それがトウタってことなんだ」
僕はペットボトルのふたをあけて、容器をおしつぶした。中の液体が飛び出して、相手の上半身にふりかかった。
死体は笑っている。
僕も笑う。
死体は僕の肩に、手にした武器を突き立てた。
光が空中で膨れあがり、熱波がぼくの前髪を焼く。やつの腕から炎が吹き出して、すぐにやつの上半身に燃え移る。
ガソリンの臭いと、腐った肉の焦げる臭い。
やつはしばらく炎を振り払う動作をしていたが、無駄と知れると、きびすを返した。水に飛び込もうとしていた奴の脚に、僕は飛びついてバタフライナイフを突き刺した。死体のアキレス腱を思い切り引き切った。もう片方もそうした。
やつは破壊された両足をばたつかせながら、燃えていく。
「火葬にしてやれば、もう生き返らないよな」
四つん這いになったハヤトが、燃え上がる顔を僕に向ける。無数のプラナリアが焼け死んで地面に落ちて行く。
「あの子は必要なことは全部含めてくれた。僕が選ばれたんだ」
その瞬間、ハヤトは体をはねあげて、僕に倒れ込んで抱きついてきた。僕の体にも火が移っていた。僕は押しのけようとするが、冷たい肉に手が沈み込むだけ。
僕らは一本の火柱になった。
炎は沼をなめるように照らし。植物たちの輪郭が暗闇に浮かびあがった。すべてが真昼みたいにかがやいた。
沼の水面は鏡みたいになった。
「返すよ」
僕は二本のナイフをさっちゃんの机に置く。
さっちゃんは大ぶりなほうを手にとり、刃を手に当てて押す。ナイフの刃が沈み、かちゃん、と火がともる。
「お父さんのだから、戻しとかないと」
さっちゃんはバタフライナイフをくるりと開いて、また閉じてから机の引き出しにしまった。ナイフ型のライターは机の上に置いた。
「今はハヤト君? ユウト君?」
僕は笑う。
さっちゃんも僕の顔を見て笑う。
「まあ、いいか、どっちでも」
水槽の中では、双子のプラナリアがうごめいている。こないだ沼に行ったついでに、またトウタをした。僕たちのプラナリアは以前よりさらに大きくなっている。
さっちゃんのひざの上には、頭蓋骨がふたつ置かれている。大きな方は模型だ。僕がプレゼントしたものだった。もう一つの頭蓋骨はひとまわり小さかった。洗って漂白したばかりだから、まだ塩素の臭いがする。
あの燃える夢の夜、お母さんは双子を生んだ。
「あの医者どうかしてる。ずっと子供はひとりだって言ってたのに。急に双子だって言い出したのよ。産む直前になっていきなり。超音波検査だってしたのに。あんなでも医者ができるのね」
病室のベッドで、母さんはそう毒づいた。彼女は疲れ果てていたが、すっかり元気になっていた。
お母さんは、ユウトのことなんてすっかり忘れたようだった。かわいそうなユウト。
僕はガラス越しに、新しく生まれた弟たちを見せてもらった。
弟たちは一卵性双生児だった。鏡で映したみたいにそっくりな双子が、僕の顔をしっかり見つめていた。
ふたりの赤ちゃんが、声をそろえた。
「つぎはなかよくしようね。お兄ちゃん」
プラナリア・ディスコ 枕目 @macrame
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