6

 数日後。お昼時を過ぎて数組の客がゆったりとした時間を過ごしている。バーカウンターではふたりの男が談笑していた。バーの用心棒の千葉と、もうひとりはオリーブ色のコートを身につけた中肉中背の男・山田拓である。ふたりの間には白い小さなボトルと二つ折りにされたリーフレットが置かれていた。

「――ってなわけで、これ。真理愛ちゃんから預かってた洗剤。いつ会えるかわからんからって置いていってくれてたヤツ」

「僕には柔軟剤ではなくて洗剤なんですね」

「柔軟剤は祥ちゃんと魔魅子ちゃんで売り切れ」

「残り物には福があると言いますしね、とりあえず喜んでおきましょうか」

 山田のセンター分けにした前髪が少し垂れ下がり、その髪の間からリーフレットの内容をチラリと確認する。ボトルと共に革製のビジネスバッグの中へ仕舞い込んだ。

「勝負事以外で祥ちゃんからあそこまで絡まれるのも久しぶりやったなあ……」

「東雲さんもこだわりだすとうるさい人ですからね。執念深いというか」

「ほんまそれ」

 千葉が両手を広げて肩を竦める。うんざりというジェスチャーは芝居掛かっており、それを見た山田は「ふふ」と笑うとカウンターに提供されていたホットコーヒーに口をつける。少しの間、沈黙が生まれる。カップをソーサーの上へ置くとカチャリと甲高い音が鳴った。ややあって山田はカバンからタバコケースとライターを取り出し、紙巻きタバコを咥える。山田は曖昧な微笑みを浮かべていた。愛想笑いとも捉えられるほど真意の読みづらい笑顔だ。

「――千葉さんだからこだわったんでしょう」

「……うん?」

 特にこだわりのなさそうなオイルライターでタバコの先に火を着け、目を伏せながらタバコをふかす。曖昧な笑みのまま言葉を続けた。

「たとえば、僕がいつもと違う匂いをしていたとして、東雲さんは香水を変えたのかと聞いてくるとは思いますが、納得のできる答えが得られなかったとしてもそこまで追及することはないと思いますね」

「えー? そうか?」

「ええ。わざわざ匂いを確かめることはないでしょう。千葉さんだから気になったんですよ。ある種ライバルのような人だから……いや、それよりも……」

 紙巻きタバコを親指と人差し指でつまみ上げて煙を吸い込む。山田が再び「ふふ」と笑い声をあげるとそのリズムと共に煙の塊が唇から漏れ出た。

 先程までの愛想笑いよりも随分と人間味のある笑顔で山田は突拍子もない発言をする。

「嗅覚は官能と繋がっている、というのはご存知ですか」

「……まあ……聞いたことはあるなあ」

 山田のやけに清々しい爽やかな笑顔に千葉は背に嫌な汗をかいているのを感じた。

 目の前の男が意図していることは千葉にとって本意ではない。千葉と東雲の間に何か艶かしい空気感が生まれたとしても、あくまで友情の延長でしかないと千葉は考えている。

 ――いや、友情の延長上であっても本来そういう雰囲気は生まれないものなのか?

「その線も有り得るのでは?」

「あんまり考えたくない可能性やな」

「『僕好みの匂いだ』といってわざわざ肌の匂いを確認するだなんて、かなり直接的なアプローチだと思いますけどね」

「――流石に冗談で言ってるやんな?」

 垂れ下がった黒髪の間から覗く弓形に曲げられた双眸。真っ黒な瞳は深淵そのもののように思えて目を逸らしたくなったが、逸らしてしまえば何かが終わってしまうような気がして意地でも山田の瞳を睨み続ける。

 山田はつまみ上げたタバコを再び口元へ運び、爽やかな笑顔のまま煙をたっぷり吸い込む。深呼吸をするように煙がゆっくりと吐き出された。

「――流石にね」

「はあ……山田くん、何考えてんのかわからん時あるの腹立つなあ」

「それは申し訳ない」

 千葉はそう言いながら苛立った様子は見せず、ベストの胸元から電子タバコを取り出すと手早くカートリッジを取り付ける。喫煙可能になるまでの時間がもどかしく、左手で額を押さえつけ、肘をカウンターへついた。

「単純に例の柔軟剤の香りが東雲さんの好みなだけだと思いますよ」

「そうやろなあ……」

「ええ。東雲さんがその柔軟剤を使って『違和感がなければ』ですけど」

「……どういう意味?」

 手元の電子タバコが振動して喫煙可能のランプが点灯するがすぐにカートリッジを咥えることはなくそのまま山田の瞳を見つめていた。山田はまだまだ爽やかな笑顔を崩さない。

「同じ柔軟剤を使っているのに違う匂いに感じたり、千葉さんから香る匂いの方が『好みの匂い』なら……それはやはり千葉さん自身の匂いが好きということに他ならないということです」

「はあ?」

「本気で受け止めるなら洒落にならないかもしれませんけど、あくまで僕の戯言なので――流石に冗談、ですよ」

 千葉は男を睨み付けながら、カートリッジを口に運ぶ。いよいよその大きな茶の目に苛立ちの感情が宿っていた。彫りの深い男らしい顔つきの男から厳しい表情で睨みつけられているというのに、山田は全く意に介する様子はなく涼しい顔で煙を吐き出す。

「そんな怖い顔しないでくださいよ」

「おもんない冗談は嫌いやねん」

「申し訳ない。でも千葉さん」

「まだなんかあんのか」

「本人が自覚していなければ恋心なんて無いも同然なので」

「山田くん……冗談やとしても人の心を勝手に判断するのはお行儀が悪いで。大体、祥ちゃんはしょっちゅう女の子と遊んでるし」

「――東雲さんは特別異性愛者だという訳でもないと思いますけどね。それは千葉さんも知っていることでは?」

「お前なあ……」

 千葉は山田に凄むのを諦めて盛大な溜め息と共に項垂れ、カウンターに額を擦り付けた。何をしても何を言っても、山田の中の持論は覆らないらしい。

「ふふ……千葉さん、冗談ですよ、冗談。そもそも柔軟剤を使った東雲さんの感想は誰も知らないことじゃないですか」

 何が真実で何が冗談なのか。

 千葉は己に混乱をもたらした隣に座る男をこれほどまでに恨めしく思ったことは、今までにない。



<完 ――?>

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suggestion AZUMA Tomo @tomo_azuma

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