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「いや、私はまったくわからないですね……香水の香りの方が気になっちゃって」
「……そうなのかい?」
「えー、私は甘い匂いすると思ったんだけどなあ」
千葉恵吾は三度その手を人に『貸して』いた。千葉の手を握る女性――金髪で毛先に行くほどにピンクのグラデーションの掛かっている派手な見た目をしている――はいつもの太陽のような笑顔ではなく不思議そうにしかし真剣な目つきで匂いを嗅いでいたが何もわからない様子だった。
アヴェ・真理愛もこのバー『ユートピア』の常連で四人の顔馴染みであった。普段は底抜けに明るい溌剌とした女性であるが、この不可解な現象に頬に手を添えて首を傾げていた。
「東雲さんと魔魅子ちゃんは確実に匂いを感じられたということですよね?」
「確かだよ。流石にこの距離で匂いを嗅げば間違いはないと思う」
「そうですよね……まあ、五感の感度は人それぞれですから、私が感じ取れなかっただけで、匂いがするというのは事実なんだと思います。ちなみに具体的にどんな匂いか判別はできたりしますか?」
「僕がわかる範囲としてはユリ、ベルガモット――今はジャスミンの香りが一番強く感じるかな」
「よくそこまでわかりますね……鼻の受容体どうなってるんですか……」
真理愛は驚愕を通り越して呆れにも見える表情で東雲をまじまじと見つめる。そして隣の千葉へ視線を向けると「それらの香りに心当たりは?」と尋ねるが、千葉は眉を顰めて左右に首を振った。
「さっきも言ったけど香水変えたりとか、シャンプー変えたりとかしてへんで。勿論ボディソープの類も」
「――ボディソープ?」
千葉の言葉を繰り返すと真理愛は表情をパッと明るいものへ変化させ、両手を叩いた。肩に掛けていたトートバッグの中からプラスチック製のボトルを取り出してカウンターに置く。容量が三百ミリリットルほどの小さな真っ白のボトルで、ラベルは何も貼られていない。
千葉の発言と真理愛の行動の意図が繋がらず、東雲は目を数回瞬かせる。ボトルを手に取って左右に揺らすと、手に伝わる振動から、中身は水に近い液体だとわかった。
「これは?」
「もう、千葉さんってば……心当たりあるでしょう?」
真理愛は敢えて東雲の発言を無視し、その手の中にあるボトルを指差しながら千葉に笑いかける。千葉は眉を顰めたまま頬杖をついていたが、しばらく思考を巡らせた後、真理愛と同じようにボトルを指差して目を見開いた。
「ああ! これ!」
「ね。答えは簡単だったでしょう?」
真理愛が再び一度手を叩くと頷く。ここに来て初めて置いてけぼりを喰らっている東雲は苦笑いで真理愛のしたり顔を見つめた。
「……僕にもそろそろ答えを教えてもらえるかな? 結局千葉くんはボディソープを変えていたということなのかい?」
「いいえ。ボディソープではないんですよ」
「とりあえず匂い嗅いでみたらええやん。これ、祥ちゃん用のテスターなんやろ?」
「そうですね。東雲さんに差し上げるつもりで持ってきたものなので開封していただいて大丈夫ですよ」
千葉と真理愛のふたりに促され、東雲はそのボトルのキャップを捻る。ボトルの中には無色透明の液体が入れられていた。粘性はなく、真理愛の言う通りボディソープではないらしい。ボトルを開けた瞬間から甘い花の香りが一気に立ち上っている。それは千葉の皮膚から感じられた香りを何十倍も強くした香りだった。
「この香り……僕の探していたものだよ」
「でしょう? 千葉さんが忘れてただけですよ」
「で、この正体は?」
「オーガニック柔軟剤――そういえばこのシャツ洗濯した時に使ってたわ」
真理愛はトートバッグの中から二つ折りにされたリーフレットを取り出すとカウンターの上へ広げてみせた。リーフレットにはオーガニック柔軟剤の成分表示と取り扱い店舗の情報が記載されていた。
「私の知り合いでオーガニック石鹸を取り扱っている子がいるんですよ。洗顔料とか、ボディソープとか。新たに洗濯洗剤や柔軟剤を開発しているとかでテスターを配ってほしいと頼まれていて……『ユートピア』のみんなにぜひと思って持ってきたんです。でも前に来た時は東雲さんはいなかったので、マスターとツナさんには洗剤、千葉さんには柔軟剤をお渡ししたんです」
「なるほど、そういうことが……このチラシに書いてある香り、僕の感じていたものと一致しているね」
「香水の匂いを邪魔したくなかったし少なめに使ってたら、柔軟剤の匂いほぼせんかったなあ」
「そのご意見、フィードバックしておきますね」
あっけない結末に納得はしているものの、東雲は悔しそうな表情でボトルを眺めている。世界の一大事を憂うような大袈裟な表情だ。しかしその大袈裟さも写真家が人生を賭けて撮影した渾身の一枚と等しく美しい。その表情に見合う大それたことを考えているわけではないだろうと千葉は分かっていたものの、それでも東雲に声をかけた。
「どうしたん?」
「いや……服の香りだと気付かなかったのが不覚でね。肌に匂いが移っていたのかもしれないが、てっきり君自身の香りだとばかり思い込んでいたんだ」
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