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マスターは綿奈部のオーダーを見越していたようだった。注文の声と同時にバックヤードから姿を見せるとその手にはカップとソーサーのセットがあった。マスターと呼ばれる人物はいかにも筋骨隆々で厳しい容貌の持ち主だが、清潔感があるクラシカルなバーテンダーの格好をしている。
「いつ注文するのかと思っていたぞ、綱吉」
「オタクんとこのウェイターが客とイチャついてたもんでね。注文を聞いてもらえないもんかと思ったよ」
綿奈部の左目が白けた様子でカウンター上に提供された紅茶のカップを眺めていた。そしてソーサーに添えられたスティックシュガーを全量容赦なく赤茶の液体の中へ注ぎ込む。
「それは悪かったな……恵吾、仕事をしねえヤツは減給だ。祥貴もあんまりウチのウェイターを誑かすのは止めろ」
忙しいときなら激しく檄を飛ばすこともあるが、客の入りが落ち着いているためマスターの苦言もこの程度で収まっていた。しかしマスターのじっとりとした睨みに半ば剣呑な光が込められているように感じ、東雲は両手を挙げて降伏のジェスチャーをする。
「すまない、マスター。こちらのウェイターがあまりに馨しいから魅了されてしまってね。今後は気をつけよう」
「ウェイターちゃうって言ってるやろ。俺は用心棒や」
千葉が三方に睨みを利かせていると扉のベルが控えめに鳴った。
ベルの音に振り返ると、少女の佇まいをした――しかし彼女は成人している――目がくりくりと愛らしい女性が入り口に立っていた。古風なスタイルのワンピースに身を包んでいるが古臭くはなく、むしろ愛らしさが引き立つようなファッションでいかにも人の目を引く容姿をしている。『ユートピア』の常連・神園魔魅子だ。
ワクワクと好奇心に目をきらめかせながらマスターにホットチョコレートを注文し、カウンターの三人へ輝く視線を向けた。
「みんな楽しそうだけど、どんな話してたの?」
「魔魅子ちゃん、良いところに来たわ。祥ちゃんにめーっちゃだる絡みされてたところやってん」
「……悪意のある言い方だね」
「いつものじゃれあいね。で、その内容は?」
「やっぱり手ぇ握られるなら女の子の方が落ち着くわ」
魔魅子に経緯を説明すると「私も嗅いでみたい」と更なる好奇心で目を爛々に輝かせたため、文字通り千葉は手を貸していた。成人男性の手を握って手首の匂いを確かめているのが成人男性から成人女性に変わったが、なんとも異様な光景であることに違いない。
話題の中心である千葉はニヤついた笑顔を東雲へ向けていた。東雲は肩を竦めて千葉へ視線を返す。
「僕相手だと落ち着かないのかい?」
「まあな。祥ちゃんの目つき『マジ』っぽいし……」
「君が望むなら『マジ』に振舞おうか?」
そう言うと片目を瞑り、パチンと指を鳴らしてそのまま千葉の胸を差す。絵に描いた気障っぷりだが東雲だからこそ画になる。それを見て綿奈部は心底嫌そうに「ケッ」と声を出し、千葉はニヤついた笑みを苦笑いに変化させた。
「冗談冗談……」
「本当だ……少しだけど甘くて可愛らしい匂いがする。恵吾くん、いつもの香水以外に本当に何もつけてないの?」
男三人の落ち着きのなさはまったく眼中に入っていないらしい魔魅子は首を傾げて千葉の手を離した。
「やっぱり甘い香り、するよね?」
やっと味方を見つけられたと東雲はその表情に少々の安堵を浮かべて魔魅子へ頷くと、魔魅子も同じように頷きながら東雲に微笑みかける。
「すごく僅かにだからこのくらい近寄らないとわからないけど、確かに甘い花の匂いかなあ? そんな感じの香りがする……」
「ええ……ほんまに? 自分のにおいってわからんもんやな……」
同じ感覚で通じあったふたりの会話に千葉は困惑する。しかし、東雲以外にも同じ指摘をする人間が登場したとなると何かしらの変化があるということを認めざるを得ない。
戸惑いの表情で両腕を組んで首を傾げる。
「なんっも思い当たらんねんけど……体臭が変わるようなこともしてへんし」
「お花だけ食べる生活してるとか?」
「花だけ食って生きてくとか虫やん、俺」
「可愛いと思うけど?」
魔魅子の揶揄う言葉に目の前で手を横に振りながら有り得ないというジェスチャーをする。
「匂いが変わったところで臭くなければ生活に支障ないしどうでもええわ」
本人が変化を感じられず、大体の人間も知覚できないくらいのものであるならその変化は無いに等しい。千葉が肩を竦めて横目でチラリと東雲を見る。その表情は実に不服そうだ。
「でも謎を謎のまま放置しておくのかい」
悩ましげに額に手を当て、千葉を見つめている。その視線は尚も謎を解き明かそうとする執念が感じられた。
「ミステリアスでええやん」
「うーん……」
不満を隠さないまま東雲が唸り声を上げると、再び扉のベルが店内へ鳴り響いた。
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