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 カフスボタンを外すと尺骨の浮き上がった手首が露わになった。東雲は遠慮することなく袖を捲り上げ、無駄なく筋肉のついた千葉の腕を露出させる。元来の骨っぽさがよく現れている手と手首。存外温度の高いその手を柔らかく掴み、掌を天井へ向けさせた。太い血管が通っている場所は体温が高い部分であり、そこは香水の香りが際立つ箇所である。香りを楽しみたい、もしくは香りを演出したい人間であれば手首や胸は香水をつける箇所として選びたくなる部分だ。千葉の普段の香水の香らせ方から、好んで手首へつけているだろうと予想を立てていた。千葉の手首を持ち上げて支えながら、同時に頭を僅かに下げて手首へ顔を寄せた。

 東雲の予想は概ね当たっていた。鼻先が千葉の肌に接近するほど、湿り気を帯びた重い香りが鼻腔に立ち込める。千葉の使う香水はドライさが目立つものの官能的に感じるのはシベットなどの動物由来のものが調香されているからだろう。そして皮膚に近づくほどに甘い。ユリやベルガモット以外にジャスミンのような香りがこの男の肌から感じることができた。

 鼻先が皮膚に触れるか触れないかの距離まで近寄ったが、もはや香水の香りなのか千葉本人の匂いなのか判別することが難しいように思えた。体温を感じられる距離では香水の香り方も変わってきてしまう。

「くすぐったいんやけど」

 東雲が香りの判別に没頭していると頭上から笑い声を含んだ文句が飛んできた。手首へ鼻先を寄せたまま視線だけをチラリと上げれば、カウンターに頬杖をついた男と目が合った。その端整な顔立ちに企みの笑顔を浮かべ、彫りの深い眼窩に嵌まったブラウンダイヤモンドは夜の到来を告げる妖しい光で満ちている。ともすれば人を支配するような視線だった。

 ――つくづく、危ない男だ。

 千葉の笑顔を見た東雲の顔にも薄らと微笑みが上る。

「こうやって祥ちゃんに見上げられるのはなかなかええ気分や」

「大体の人間より背が高いからね……僕が人を見上げるのは滅多にないことだよ」

「使用人がかしずいてるみたいやな?」

 見る人が見れば人を小馬鹿にしたような表情だが、その笑みを形作る柔らかい頬と生来持ち合わせた品のある顔立ちのおかげで相手に対して不快な思いを与えづらい。恵まれた容貌という天賦の才を人を挑発するためだけに如何なく発揮していると言っても差し支えなかった。

 東雲は職業柄、挑発を受けても特に心を波立たせることもなく無視を決め込むことができた。捜査の中で被疑者に挑発されることもあるが、それに乗ることなどないし、そのような振る舞いをしても打算があることがほとんどだ。

 しかし、千葉にイニシアチブを握られたままなのは東雲の信条に反するところであった。挑発をしてくる人物が千葉であるならば、東雲は特別口を閉ざしたままにすることはできない。

「――それならご奉仕してみせようか? 寝首を掻かれる覚悟があるなら、だけど」

 ブルーグレイの瞳の中に燃えるようなガーネットが輝き、その光が千葉の視線と交わる。

 瞬間、鼻先を寄せたままの手首からむせかえるほどのウイスキーに似たウッディな匂いとその奥から主張してくるジャスミンの香りが立ち上り、東雲の肺を満たした。紙一枚ほどしかない空間に互いの熱が迸るようだった。

 千葉は人を見下した表情のままくつくつと喉の奥で笑う。

「怖いこと言うなあ、祥ちゃん……そのまま噛みついてきそうな目してるやん」

「ご主人様のご要望ならやぶさかではないよ。君がそうしてほしいなら命令すればいいさ」

「へえ……」

 どちらがどちらを喰らうか。そのような闘争の中にもはや会話は必要ない。

 それ以上の言葉はなく、ふたりは互いに不敵な笑みを作り、独特の緊張感の中で睨み合っていた。

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