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AZUMA Tomo
1
いつもより甘い香りが鼻腔をくすぐったのを感じ、男は真っ赤なアイラインに縁取られた目を何度も瞬かせた。香りの源はどこだろうと首を左右に振りながら店内を見渡す。首を傾けるたびに整えられた金糸がきらきらと輝き、その光輝の優美さは見る者を釘付けにするほどだ。男の素性を知らない者が見れば、モデルや俳優を生業としていると勘違いするほどの美貌で、彼――東雲祥貴は様々なところへ視線を向けていた。普段ならその描かれたような美しい形の瞳に少しでも留まりたいがために彼と視線を交わらせようと策をめぐらせる人間もいるところだが、ここはボードゲームバー『ユートピア』であり、お昼時を過ぎて数組の客がゆったりとした午後の時間を過ごしているのみだ。東雲が何かを探して視線を彷徨わせていても誰も気に留めない。
東雲の探す匂いというのはその場に滞留し続けるほど強烈なものでもなく、ほのかに香る程度の甘い匂いだったため誰かの香水だろうと目星をつける。スパイシーな中にユリやベルガモットなどの華やかな甘さを感じるこの匂い。今までこのバーで嗅いだことのないものだった。
香りの発生源は意外なことにバーの用心棒である千葉恵吾だった。何が意外なのかというとこの男はスモーキーでスパイシーな香りを好む傾向があり、いつも使っている香水は重めの香りのはずだった。特徴的なゆるく癖のついた黒髪に彫りの深い顔立ちで、ギラついた光を放つ明るい茶の目を持つ男。いかにも遊び人風といった小洒落た、しかし上品な誂えのベストとドレスシャツを着用した大柄な男はその見た目に似合った色っぽい夜の香りをいつも身に纏っていた。そんな男から僅かだが甘めの匂いがする。
本当にささやかな匂いとはいえ、普段の千葉とのあまりのギャップにこの甘い香りがどこから漂ってくるのか判断するのが遅れた。思い込みというのは真に自分の敵だと思い、己の油断めいた思考に少しの落胆を覚えながら、東雲は千葉に声をかけた。
「ねえ、千葉くん。君はどこの香水を使ってるんだい?」
客へドリンクを提供し、バーカウンター内へ戻ろうとする千葉を引き留めた。
思いもよらぬ東雲の質問に虚をつかれた千葉は目をぱちくりとさせ、ほんの僅かに首を傾げる。
「え? ……オリジナルやで」
質問の意図を図りかねているだろう千葉は訝しげな表情ながら、東雲の疑問に端的に返答する。先程までドリンクを乗せていた盆をカウンター内へ押しやると、東雲の隣の席へ腰をかけた。
男が隣に座ると香りの出処についてますます確信を持つことが出来た。やはりこの甘い香りは千葉恵吾から漂っているものだ。しかも『オリジナル』という返事も東雲の納得感を強める。東雲の知り合いの中で、この様な香りはあまり馴染みのある組み合わせではない。
「ああ、それで……因みに香調の内容は最近変更した?」
「いや、結構前から同じの作ってもらってるけど」
「……そうなのかい?」
東雲の中でまたもや謎が深まった。以前からこの香りを身に纏っているのであれば、ここまで違和感はないはずだ。東雲にとって千葉のこの甘い香りは今までと決定的に違うものなのだ。
次々に表情を変化させていく東雲を見て、千葉も異様な気配を感じ取ったらしい。
「――祥ちゃん、今日なんか変やで?」
しかし東雲は千葉に様子が変と指摘されたことよりも、己の違和感の正体が気に掛かって仕方なかった。仕事以外では見せることの珍しい思い詰めた真剣な眼差しで千葉を見つめる。
「いや、何かいつもと違う雰囲気を感じて……今その香水は持っているかな。よければ試してもいいかい?」
この表情の東雲は『引く』ことを知らない。取るに足らない謎でも、己の気に掛かったことは自分の手で解き明かしたいという執着心が稀に発露することがあるが、今回はまさしくそうだった。青み掛かったグレイの瞳の奥に、朱色が鈍く輝く。東雲の瞳が不可思議に光を放つときに逆らうのは得策ではないことを千葉は承知していた。
東雲の目を呆れながら見つめ返しつつ黙って頷くと、ベストの内側から人差し指サイズほどの小さなアトマイザーを取り出して手渡す。東雲は「ありがとう」と礼を述べるとジャケットの中からハンカチを取り出してアトマイザーから香水を吹きかける。
ハンカチから漂う香りはいつもの千葉の香水の匂いとなんら変わらない。東雲はその事実にますます混乱した。己の嗅覚が狂ったとも思えないが、千葉の『甘さ』の原因がわからない。
「うーん……たしかに、香水はいつもと同じものだね……」
「せやで。なんも変えてへんよ」
千葉自身も東雲が言う違和感について身に覚えがないらしく、呆れた表情の顔面に「わけわからん」という気持ちが書かれているようだった。東雲は曲げた人差し指で眉間を揉みながら目を伏せた。そして思案の中で一通り唸った後、珍しく歯切れの悪い調子で口を開く。
「でも君、今日はなんだか……妙な言い方かもしれないけど――可憐な女性の香りがするよ。昨晩、誰かと過ごしたとか?」
「俺から女の子の匂いがするって言いたいん? ……昨日は速攻家帰って寝てたわ。そもそも女の子と寝てもシャワー浴びてから出勤してるし」
千葉の返答に東雲は不満げな表情でカウンターに左腕で頬杖をつき、右手人差し指をトントンと天板に打ち鳴らす。決して千葉に対して不満があるわけではない。長年信頼を置いていた自身の身体感覚が狂ったかもしれないという不安感と物寂しさが東雲の振る舞いに現れていた。
「……嗅覚には自信があるのになあ……」
「そんなに気になる?」
落ち込んだ様子の東雲を見て、思い当たるところはなくとも千葉は自身のシャツの胸元を少し持ち上げ、自分の匂いを確かめようとする。やはり千葉自身にはいつもと変化を感じられない。
しかしシャツを持ち上げた弾みで甘い香りが再び強く漂う。華やかで温もりのある香りはほんの少し情欲を刺激されるものだと感じる。
――この匂いは明らかに千葉くんのものだ。
「僕好みの匂いだなあと思ってね。気のせいではないはずなんだけど……少し失礼」
東雲は唐突に千葉の左腕を掴み、己の胸の方へ引き寄せる。千葉も諦めた様子で男のしたいようにさせていた。
ブルーグレイの瞳に紅がチラチラと不穏に輝く。その輝きは千葉の手首を包むカフスに注がれていた。夜を感じさせる男の手首が貞操を守るようなしっかりとした造りのカフスに覆われているのはより一層色っぽさを演出している。右手の親指をカフスボタンにかけながら、東雲は千葉の瞳を上目遣いで見上げた。
「匂いを確かめても?」
千葉は盛大に溜め息を吐き出して、好奇心の塊となった輝く美貌を見下ろした。
「先に手ぇ握っといて今更言うんかい……かまへんよ」
承諾の合図と共に千葉のカフスを繋ぎ止めていたボタンがいとも容易く外された。
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