幕間 緋と蒼白
「禊様、海へ行きませんか?」
朝、いつもと同じように禊様と二人で朝食を摂った後。
ゆっくりと香りを楽しむように、私の淹れた紅茶を口へと運ぶ、そんな禊様へと私は声をかけた。そんな私の言葉に、禊様が眉を顰めて訝しむ。
「・・・貴女、唐突に何を言っているのかしら?」
ここからが、私の腕の見せ所だ。先ずは軽くジャブで攻めてみましょうか。
「海へ、遊びに行きませんか?」
「・・・聞こえなかった訳ではないのだけれど?」
不機嫌というわけではなさそう。言葉の意味が理解らないだとか、そういうことではないでしょう。ただ言葉の意図が分からない、そんな表情。
禊様は、何か理由がなければ動きません。最近は少しマシになった、というよりも、以前よりは少し角が取れました。けれど、だからといって人の本質はそう簡単には変わらない。それが興味のない分野の話なら尚更です。
要するに、返答など最初から分かり切っているということ。
「私の返答が分かっていて聞いているのだろうけれど、勿論行かないわよ?」
ほら。
けれど長年禊様の侍女を務めてきた私だ。彼女の事は誰よりも、それこそ禊様本人よりも理解しているつもりです。この程度は想定内で、この程度で引き下がる私ではありません。
「一応、理由を伺っても?」
「理由が無いのが理由よ。
これだ。
禊様は、興味が無い分野に関してはとことん興味がない。理由が無いのが理由だなんて、
「泳ぐだとか、西瓜を割るだとか、楽しみ方は色々とあるかと思いますが」
「・・・何が楽しいのよ、それ」
そうでしょうとも。
これに関しては、実は私も同意見。海で泳ぐことも、スイカ割りに興じることも、それ自体には大した面白みはない。アレは気心のしれた友人、あるいは家族等の身内でやるから面白いのだ。行為そのものというよりも、その雰囲気を楽しむもの。知識としてそう理解しています。
とはいえ、禊様程ではないにしても、私もそれなりに特殊な家庭で育っています。そういった行為の楽しみを、実体験として持っているわけではありません。だから禊様がこれらの行為に惹かれたりはしないということが、私には良く分かります。
私自身が『何が面白いのだろう』と思っているものを人に勧めるという今の状況は、とても滑稽でしょう。
これは所詮、最終的に禊様を頷かせるための撒き餌、或いは囮です。この天邪鬼な私の主人が、興味のない事に二つ返事で了承することなど、基本的にはありません。
けれど何度も頼みを断り続ける事で、徐々に態度を軟化させます。罪悪感、というわけではないでしょうけれど、根の素直な禊様は、断りすぎると居心地が悪くなるのでしょう。
「では、海の家での食事等はどうでしょう。身体に悪そうな油まみれの料理に、無駄に高い値段。海という開放的な雰囲気を加味しても、さすがにあんまりではないかと思えるような微妙な味。唆られませんか?」
「・・・貴女は何でもそつなくこなすと思っていたけれど、実はプレゼンが下手だったのね。今の説明でその気になる人間が居るとは思えないわよ?」
でしょうね。
斯く言う私も、実物を食べたことがあるわけではありません。ただの聞きかじりと、勝手なイメージだけで喋っているに過ぎないのです。ラーメンは伸び切っていて不味いし、焼きそばは油でカチカチに固まっていて、とても美味しいとはいえない。それでもその場の空気を調味料とすることで、何故だかとても美味しく感じてしまう。まさに夏の海マジック。そんな風に聞いたことがあります。
というよりも、そんな大衆向けの海水浴場に禊様を連れて行くことなんて出来はしません。そんな事をすれば私の給料が下がるのは必至。凪様は兎も角、神楽様に知られればどうなることやら。
「ではビーチバレーなどは如何でしょう」
これも一般的、というよりも古来から伝わる代表的な海の遊びです。近頃はマリンスポーツなどが主流らしいですけど、禊様が興じるとはとても思えません。結局、ビーチバレーあたりが現実的な案になってしまう。とはいえこれも────
「死人が出るわよ?」
知っていましたとも。確かに、ありえないとは言い切れない。
少なくとも、禊様が全力でスパイクを打とうものなら私では受けられないでしょう。両手が折れる程度で済めば御の字、当たりどころが悪ければそのままお陀仏です。
しかしこの時点で、禊様が居心地の悪さを感じ始めていることが分かります。もしもまだ最初の頃と変わらない態度だったなら、答えは『やるわけがないでしょう』です。それが今は、興味がないから『やらない』ではなく、怪我人が出るから『出来ない』に変化しています。もう一推しといったところでしょうか。
「そもそも、どうしてそこまで海に行きたいのよ。貴女、そんな
失敬な。
確かに私は別に海が好きだ、などということはありません。どちらかと言えば禊様と同様、何が楽しいのかと思ってしまう側の人間です。頼まれでもしなければ、嫌がる禊様を連れ出そうとはしません。そう、頼まれなければ。
正直に理由を話したりはしませんけれど。
「禊様、今年はまだ何処へも旅行に出かけていませんよね?」
「そんなの毎年のことじゃない。それに、少し前に北海道にいったわよ?あれでは駄目なのかしら?」
「失礼ながら、あれは旅行とは呼びません」
一体何処の世界に、S
そんな軽い気持ちで壊される彼らの気持ちを思えば────いえ、やはり特には何も思いませんね。彼らとて
「はぁ・・・それで?何時、何処へ行くつもりなのかしら?私が何を言おうと、どうせもう決めてあるのでしょう?」
やりました。我が軍の勝利です。
一見嫌々のように見えますが、本当に嫌ならば、私が予定を決めていようとなんであろうと、禊様は断るでしょう。結局のところ、この主は押しに弱いきらいがある。いえ、面倒だと考えているのは恐らく本心なのでしょうけれど。
「一週間後の日曜日、場所は────まだ秘密です。先程は色々と言いましたが、一般の海水浴場などではありませんのでご安心を。水着等はこちらで準備しておきますので、禊様は当日寝坊しなければ問題ありません。最悪眠っていても勝手に移動させておきますので」
「水着は要らないわ。行くのはもう諦めるけれど、泳いだりはしないもの。私は仕方なく付き添うだけ。それ以上は御免だわ」
「またまた。どうせ現地に着けば嫌々着ることになりますよ」
「貴女ねぇ・・・あぁ・・・今から最悪の気分だわ」
ここで調子に乗って破廉恥な水着を用意しようものなら、本当に怒られます。それに、私もそこまでは期待していません。禊様を連れて行くまでが私の限界。それ以上は彼女達の努力次第でしょう。一週間後にどんな光景が見られるのか、なんとなくは想像がついてしまいますが。
* * *
一週間後。
信じられない程に気分が乗らない顔をした禊様を乗せ、車を走らせること数時間。更にそこから船で進むこと数十分。あ、もちろん操舵は私です。流石に大型までは持っていませんが、小型であれば船舶免許も所持しておりますので。
そうして私達は今、白雪家の私有地である無人島へとやって来ております。無人島とはいったものの、白雪の別荘が建てられておりますし、島を管理する者も居ます。常に使用する訳でもない施設をしっかりと管理しているあたり、流石は白雪家と言ったところでしょうか。
隣へと視線を向ければ、酷くムスっとした表情の禊様。
船に乗り換えたあたりから、既にご覧の有様でした。それもその筈、流石に白雪家所有の無人島だとは思っていなかったでしょうが、少なくとも、そう簡単に引き返すことが出来ない場所であることは容易に想像が出来るでしょう。
そんな不機嫌そうな禊様と私が島へと着いた時の事。私達からみて右手方向の砂浜から、なにやら声が聞こえてきます。
遠く小さく見えるのは、陽の光を反射してきらきらと輝く銀色の頭。侍女という立場である私が、他家のお嬢様に対してこのような事を考えるのは不遜極まりないのですが────なるほど。いつぞや禊様が言っていたように、こうしてみると、どこかゴールデンレトリバー的な雰囲気がありますね。色こそ異なりますが、揺れる縦ロールがまるで振り回される尻尾のようです。
「──────ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
徐々にハッキリと聞こえてくるその声は、恐らく禊様の名前を叫んでいるのでしょう。その姿を見た禊様は、酷く疲れた顔をしていました。
「騙したわね、社」
「はて」
「・・・ここまで来た以上はもう諦めているけれど・・・どのくらいここに滞在するつもりなのかしら?」
「二泊三日です」
「はぁ・・・疲れる三日間になりそうだわ」
徐々に大きくなってきた純白様の姿。よく見てみれば、既に水着を着用しているようです。海外育ちの純白様らしい、随分と派手で大胆な水着です。そしてぶんぶんと振り回しているその手には、何やら自分のものと同タイプの水着をハンガー付きで持っているようです。
「あの子が持っているの、何かしら?」
「察するに、禊様用の水着ではないでしょうか」
「私にアレを着ろ、と?───あの布だか紐だか分からないような物を?」
「恐らく」
今回二泊三日を共にする方々は、純白様と純麗様、そして聖様の三人。彼女達は我々よりも一日早くこちらに到着していると伺っています。そして純白様が既に水着に着替えている以上、恐らくは残りの方々も、既に水着に着替えて海で遊んでおられるのでしょう。つまり、まだ水着に着替えていないのは禊様のみです。となれば、自ずと答えは理解るというものでしょう。
禊様もそれは理解っている筈です。ただ現実を認めたくない一身で、一縷の望みにかけて聞いているに過ぎません。『誰か違うと言ってくれ』という訳ですね。ちなみに私は侍女服のままで過ごす予定です。あのような怪しげな水着、仮に用意されていたとしても御免蒙ります。禊様には申し訳無く思っております。本当ですよ?
そんな風に、私が憐れみの目を自らの主人へと向けていた時でした。
心底面倒そうに大きく息を吐いた禊様が、そっと地面を蹴りつけたのを目撃してしまいました。上陸したばかりの私達が今いる船着き場の、しっかりと舗装された地面が僅かに揺れたのを感じます。
直後、数十メートル離れた砂浜で爆発が起きました。
対抗戦で見せた時よりも、ずっとずっと加減がされているそれは、大きな音と共に美しい白砂と純白様を巻き上げ、そのまま海のほうへと吹き飛ばしてしまいました。
「・・・大丈夫でしょうか」
「大丈夫よ。無駄に頑丈だもの、あの子」
「それもそうですね。では、先ずは荷物を置きに行きましょうか」
「・・・はぁ。憂鬱だわ・・・」
宙を舞う純白様には一瞥もせず、まるで『早く休ませろ』とでも言いたげに別荘の方へと歩きだす禊様。そんな主の背中を眺めているだけで、自然と笑みが溢れました。口ではなんだかんだと言いながらも、直ぐに引き返そうとはしない。そんな禊様の姿が、なんだかとても嬉しくて。
「ふふっ。良いですね」
「何か言ったかしら?早くしなさい。暑いのよ、此処」
「────いいえ、何も」
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