第2話 朝と出会い
まだ薄暗い部屋に薄っすら差し込む陽の光も、少しだけ開いた窓から吹くそよ風も。
風に乗って微かに香る緑の香りも、小鳥たちの囀りも。
私はどれも嫌いではなかった。
時刻は6時。いつもと同じ時間だ。
数分の誤差はあるけれど、私はいつもこの時間に起床する。
目覚ましなんて必要ない。すっかり身に染み付いた習慣が、望まなくても私を目覚めさせる。
まだ少しだけ気怠い身体で服を脱ぎ捨て、一階の浴室へと向う。
天枷家の別邸は、今はその全てが私だけのものだった。誰に遠慮する必要もない。
本邸より多少小さい程度で、一般的な家よりも余程大きく、屋敷と言ってもいいくらい。流石に私一人では管理しきれないので、各部屋や風呂場の清掃等はメイドがしてくれる。
けれど今ここに住んでいるのは私だけ。両親や妹は本邸で生活している。
両親との仲は至って良好。両親に嫌われて別邸に押し込められている、なんてことはない。むしろ二人は何かにつけて私に会いに別邸へとやってくる。
妹とは───どうだろうか。
仲が悪いとまでは言わないけれど、仲が良いとも言えないような微妙な関係だと思う。私は妹を可愛がっているつもりだったけれど、私に対する妹の反応はどこか余所余所しかった。
祖父母との関係は、直截に言えば悪かった。
その理由も理解できない事もない。祖父母に言われせれば、私は気味が悪いらしい。
子供の頃から無愛想で、にこりともせずただ日々の訓練をこなす。子供らしからぬその態度がどうにも気に入らないと、彼らが私を煙たく思い始めた時、私に
『力だけは強い、何を考えているのかまるで分からない不気味な娘』
つまりはそういうこと。
そうして、未だ影響力の強い祖父母の言葉のおかげで、私は一人別邸で生活している。両親はもちろん反対してくれたけれど、祖父母に言わせれば『家から追い出さないだけでも譲歩している』だそうだ。
何を考えているのか分からない、なんて言うけれど、私に言わせれば祖父母らはそもそも私の事を理解しようとしていない。記憶を遡ってみても会話は数えるほどしかなかった筈だ。
人は所詮他人を理解することなど出来ない。
ただでさえそうだというのに、会話すらしていないのだから、私のことなど解るはずもないだろう。
私は自分が異常な性癖を持っていることは自覚している。けれど誰かに理解して欲しいなどと頼んだことは一度だって無い。
勝手に期待して、勝手に怯えて、勝手に私を嫌って。
そんな祖父母らと良い関係を築く理由なんて、私には無かった。
私に見切りをつけた祖父母らが、次に目を向けたのは当然妹だった。
妹に対する彼らの可愛がり様と言ったら、私に対する両親のそれ以上だ。
妹が私に余所余所しいのは、きっと祖父母らから有ること無いこと吹き込まれているせいだろう。
姉妹仲に軋轢が生まれる事は残念だとは思うけれど、私には積極的に是正しようと思うだけの理由がない。きっと私達姉妹はずっとこのままなのだろう。
シャワーを浴びるうちに意識はすっかり覚醒して、身体からは気怠さが消えてゆく。
普段ならばこれから訓練着に着替えて朝の訓練を始めるのだけれど、今日はそのまま制服へと袖を通す。今日は人生で初めての入学式だった。万が一にも遅刻など出来ない。
あまり自覚したことはないのだけれど、私の家は大層な名家だそうで。
そんな家の長女である私が、入学早々遅刻などすれば両親に迷惑がかかる。お父様やお母様の顔に泥を塗るわけにはいかない。ついでにあの祖父母から何を言われるか分かったものではない。彼らに何を言われたところで別段気にはならないけれど、余計な弱みを作らないに越したことはないだろう。
一人で使うには広すぎる厨房でエプロンを身に着け、少し早めの朝食を作り始める。
別邸で暮らすようになってからはずっとそうだった。
いいところのお嬢様である私が自分で料理をするなど、きっと他の家の者達は想像も出来ないだろう。もちろん、頼めば天枷家お抱えの料理人が作ってくれる。
それでも私は自分で料理をしている。理由なんて単純だ。
本邸の朝食を運んでもらえば料理が冷めてしまうし、わざわざ私一人のために料理をしてもらうなんて効率が悪い。それだけのことだ。
作る料理は二人分。朝から凝った料理なんて必要ない。
卵とベーコンを焼いて、パンをトーストしたらあとはサラダを添えるだけ。
そうしているうちに玄関の扉を叩く音が聞こえてきた。ノッカーを使って律儀に3回のノック。時間もいつも通りだ。
こちらに向かってパタパタと廊下を歩く音が耳に届く。勿論走ったりなどはしない。
そうして厨房へとやってきたのは一人のメイド。
彼女は別邸で暮らすことになった私に、両親がつけてくれた私専属のメイドだ。
私のことを怖がらず、私の悪癖を受け入れてくれた得難い人物。
「おはようございます、禊様。本日は禊様の晴れ舞台に相応しく良い天気ですね」
にっこりと微笑みを浮かべ挨拶をした後、しっかりと腰を45度に曲げて私に向かって礼をする。律儀に先言後礼を徹底した彼女は、やはり律儀に3秒間姿勢をキープしており、その後ゆっくりと頭を上げる。
「ええ、おはよう
私が返事をすると社は再度にこりと微笑み、配膳を手伝ってくれる。
ちなみに社は姓ではなく名前だ。
初めて出会った頃は『蘇芳さん』と呼んでいたのだけれど、彼女の希望ですぐに名前呼びになった。彼女はあまり自分の姓が好きではないらしい。
専属のメイドであるはずの彼女が、私の起床よりも遅く別邸を訪れたのは、偏に私の要望の所為だ。彼女が私についた初日、朝は一人の時間が欲しいからと言って遅く来てもらうよう頼んだのだ。
朝食を一緒に採るのも同様だ。メイドが主人と食事を採るなど出来るはずがないと固辞する彼女に、一人で食べるのは味気ないからと無理を言って一緒に食べてもらっている。料理は私が作る時もあれば彼女が作る時もある。朝の訓練が押した場合は彼女が作ってくれている。
時刻は七時を回ったところ。遅刻するわけにはいかないとはいえ、車で通学するのだから時間にはまだまだ余裕がある。ゆっくりと朝食を採ることができそうだ。
簡単な朝食を二人で配膳し、そのまま二人で席に着き、二人で食べる。
普段と何も変わらない、いつも通りの朝だ。
「制服姿も大変お似合いですよ。目の保養になります」
「あら、ありがとう。準備のほうは問題ないかしら?」
「車はいつでも出発出来るよう、既に表へ回しておきましたから。ゆっくりしても十分間に合いますよ」
「相変わらずそつがないわね。少しくらい失敗してくれたほうが可愛げがあるのだけれど」
「ふふ、もしそうだとしても、今日だけは絶対に失敗しませんよ」
社は私よりも年上の24歳。
贔屓目抜きに見ても可愛らしい顔立ちの、笑顔の似合うお茶目なお姉さんといった印象だ。
メイドとしての仕事ぶりには文句の付けようも無く、彼女がミスを犯したところなど私は見たことがなかった。私の世話をする傍ら、この広い別邸を実質一人で管理している、まさに完璧人間と言えるだろう。ちなみに現在恋人募集中らしい。
なお車の運転も社が行う。彼女は様々な運転免許を持っている。
準中型はもちろん、普通、大型、大型二輪、大型特殊、果ては牽引免許まで。
大型特殊と牽引に至っては何故か二種を取得している。一体何処で使うのだろうか。
そんな彼女は週に一度の休日に愛車の大型二輪でツーリングをしているらしい。
「当人の私よりも、貴方の方がよほど気合が入っているわね」
「ええ、もちろんですとも。私がどれだけこの日を待ち望んでいたか。見て下さい、今日の為にカメラを用意したんですよ」
そう言って彼女がいそいそと取り出したのは、馬鹿みたいな長さの望遠レンズが装着された、まるでバズーカのようなカメラだった。
彼女がここに来た時にはそんなものは持っていなかった気がするのだけれど、一体何処に持っていたのだろうか。
「待ちなさい。まさかそれを持って保護者席に居座るつもりなのかしら?」
「お任せください。一瞬たりとも禊様を枠から外しはしませんよ。それにご当主様からも頼まれておりますので」
その光景を脳裏に描いてみれば、あまりの恥ずかしさに悲鳴が出そうだった。
昨夜にどうしても、どうしても都合がつかないと、悔しさの余り唇から血を流すほどに歯を食いしばりながら私に土下座をしてきたお父様には申し訳ないけれど。
「ダメよ。壊すわよ?」
「そんな!砲身だけで10万円もしたんですよ!これのために愛車の部品を諦めたんですよ!?」
砲身とは。しかも自腹だった。
「10万円くらい私が出してあげるわよ。私の尊厳を守るためなら安いものだわ」
「いいえ、いいえ!いくら禊様のお言葉でも、これだけは譲れませんっ!」
既に家業を手伝って───好き放題に
13歳のころから数多くの仕事をこなしてきた私は、家のことが無くとも大きな態度を取れる程度にはお金持ちである。さらには使い道がないのでお金は貯まる一方だ。
10万円程度で済むのならと思ったけれど、社は強情だった。
カメラを守るように抱え込んで、私から少しでも遠ざけようとしている。
そもそも彼女もなかなかの高給だったはずだ。10万円では動かせない。
それに抜け目のない彼女の事、恐らくは破壊したところで予備が出てくるだけだろう。
つまり私は、既に詰んでいるということだ。
「はぁ・・・お願いだから、せめて目立たないようにして頂戴」
私に出来ることはもはや懇願することだけだった。
食器を片付けたところで、出発するのに丁度よい時間となっていた。
今から向かえば、少し余裕を持って到着するだろう。
別邸の扉を出れば、社が車の扉を引いて待ってくれている。
頬を撫で、髪を靡かせる風が心地よい。
木々が風に踊り、さわさわと謳う声が、舞い散る桜と共に景色を彩る。
私は春が嫌いではなかった。
「どうぞ、禊様の鞄は既に中に入れてあります」
「そ。それじゃあお願いね」
彼女の言葉通り、車内には真新しい手持ち鞄が置かれていた。
飾り気も何もないシンプルな鞄だけれど、学園生になったのだと実感させる。
無駄に広い家の敷地を抜ければ、天枷家の門が見えた。
警備の者がこちらに向かって深々と礼をしている。彼らもまた分家の
車に乗っているのが私だと知っているであろう彼らのそれは、敬意というよりは畏怖の念が強い。過去に使用人を壊したことを知っているのか、機嫌を損ねれば取って食われるとでも思っているのだろう。この家で私を恐れていないのは両親と社だけだ。
そうして数分後、学園へと向う道中のことだった。
「禊様。どうやらこの先で何かあったようです」
街中が騒がしいことに気づいた社が運転席から声をかけてきた。
車内から周囲を見渡して見れば確かに、慌ただしく走る人達の姿が見えた。
皆一様に顔を青ざめさせていて、私達とは逆方向へと去ってゆく。まるで何かから逃げるようだ。大きな事故でも起こったのだろうか。
「迂回しますか?」
「そうね、道が塞がっているかも知れないわ。少し遠回りして───」
社の提案を許可し、指示を出そうとしたその時だった。
『───境界振発生。境界振発生。
街中に響いたのは警報と避難放送。
だが周囲の様子を見れば、既に
街中だからと油断して警戒を疎かにしたのか。
警報を出すには遅すぎる。事前に通達できないのであれば警報の意味がない。
天枷のお膝元でまぁよくもやるものだ。監視担当者の首は間違いなく飛ぶだろう。
ともあれ、だ。
「───話が変わったわね。社、向かって頂戴」
「ですが禊様。今から向かえば入学式に遅れてしまいます。既に
社の言うことはもっともだ。私は遅刻するわけには行かない。
けれど─────
「ダメよ。分かっているでしょう。アレは私の物よ」
「・・・3分だけです。3分以内ならば、なんとしても間に合わせて見せます」
「それは重畳」
社は知っている。
社がアクセルを踏み込み騒ぎの中心へと車を進ませれば、ものの一分も立たないうちに現場へ到着した。途中で逃げ惑う一般人を轢きそうになっていたが。
予想通り、既に
とはいえ丁度今、といったところだろう。被害者は出ていないようだった。今はまだ、ではあるのだけれど。
私は車を飛び出し、今にもその凶刃の犠牲になろうとしている彼女を庇うように、
別に彼女を護るためではないけれど、だからといって目の前で人が細切れになるところを見て愉悦に浸る趣味は私には無い。
私にあるのは、今も昔も変わらず一つだけ。これが生き甲斐。これだけが私の愉悦。
倒れた彼女には一瞥もくれず、
大きさは3メートルほどで額には1本の角。その強さはギリギリ
目の前で喧しく喚く
威嚇でもしているつもりなのか、耳障りな叫び声を上げる
煩い。私が今ここにいるのだから、貴方の生殺与奪は私のものだ。
「頭が高いわよ下郎。誰の前で喚いているのか解っているのかしら?」
頭を垂れなさい。これは戦いではない。抵抗は無意味、貴方はただ待てばいい。
私の前で喚くのならば、せめてもう少し頑丈になってからでしょうに。
「さぁ──────
3分も必要ない。
遅い。それでは振り上げたその腕が私に届くことはない。
そうすれば身体は『く』の字に折れ、膝を着いた敵の頭が目の前に。
それはまさに、跪いたような姿勢だった。
「最初から素直にそうしなさい」
後頭部に足を乗せ、
それだけでアスファルトが罅割れ、そこには血の華が咲く。
肉と骨の潰れる感触が足に伝わると同時、快感が私の身体を駆け抜けた。
「あぁ・・・最ッッッッッッ高!!!」
返り血に塗れ、ぞくりと震える自分の身体を抱くようにして快感を噛みしめる。
これだ、これのために私は生きている。笑顔で顔が締まらない。
そんな私の元へ社が駆け寄って来る。
「お見事です禊様、ですがお急ぎを」
そう言って社は、べっとりと私の制服に付着した血を消し去ってくれる。
これは社の
「・・・はぁ、余韻もなにもあったものではないわね」
そう言って後ろで腰を抜かしている女学生のほうへと顔を向ける。
彼女は震えながら、涙目で私の瞳を見つめていた。
「あ、あの。えっと、その、ありがとう、ございます、っ」
「いいから急ぎなさい。貴方も新入生なのでしょう?」
「え、え?そうですけど・・・あなた『も』って・・・ちょっ!」
震える唇で、どうにか感謝を伝えてきた彼女の腕を取り、引き起こす。
どうにか自力で立つことが出来た彼女の腕を引き、急ぎ車へと乗り込んだ。
「いいわよ社。出して頂戴」
「しっかりと捕まっていて下さい。飛ばしますので」
「・・・え”?ちょっと!なんなんですかこれ!?説明してくださぶぇっ」
舌を噛んだのか、可怪しな声を出した彼女を無視して車は学園へと向かっていく。
周囲の道路は避難が進んでいたおかげか、根性の座った野次馬か、急行してきた関係者達を除いて殆ど誰も居なかった。
激しい運転とは裏腹に、どこか楽しそうに運転する社の表情を見ればどうにか間に合いそうな様子。
白目になった女学生の隣で、私は息を吐いたのだった。
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