第10話



 底なし沼のように深く抜け出せない、ぬるりと重たい闇が広がっていた。身体全体が締め付けられ、型に嵌められたように身動きが取れない。



「──せい」



 ふと、誰かに呼ばれているような気がした。それをきっかけに意識が舞い降り、闇の中にじわりと光が滲む。



「せん……、……せんせい、先生っ!」



 いきなり身体を揺すられて、私は一気に覚醒へと導かれた。飛び込んできた陽光に眼球が痛いほど収縮し、私の視界を黒から真っ白に変える。

 やがて色を認識し始め、世界の輪郭が徐々に戻ってくる。

 見慣れた少女が、心配そうに私を見下ろしていた。縁の大きな丸眼鏡に、溢れ落ちた涙が雫を落としている。



「……佐倉、君?」

「ああっ……良かった。よくご無事でした、先生!」



 少女──佐倉は感極まった様子で、私を抱き締めた。息苦しくなるほどの抱擁の強さで、彼女がどれほど私との再会を望んでいたかが窺い知れた。



「どうしたんだ、そんなに慌てて……それよりも、ここは……?」



 身体を動かすと何日も寝たきりのように酷く軋む、億劫に身体を持ち上げて、ようやく自分が見覚えのない場所にいる事に気が付いた。

 どうやらそこは、小高い山の頂上付近であるようだった。雲一つ無い抜けるような青空が、すぐ近くにあるように感じる。空気は冷たいが燦々と照る太陽のお陰でほんのりと温かく、老齢の常緑樹が喜ばしげに枝葉を伸ばしている。その中で一際大きな老樹の根の上で、私は眠りこけていたらしかった。

 血の巡りが遅く、頭が朦朧とする。起き上がろうとする私を、佐倉が慌てて押し留めた。



「動いちゃダメです! 二週間も行方不明だったんですよ? まだ安静にしていなければ」

「二週間だって? そんな馬鹿な……」

「本当ですよ。本当に……生存は絶望的と、誰もが諦めてしまう所だったんですよ……?」



 佐倉の目に、また大粒の涙が滲む。彼女の言葉が嘘でないことを知るには、それで十分だった。

 しばらくすすり泣いた後、佐倉はほっと胸を撫で下ろし、赤くなった目に笑みを浮かべる。



「でも、本当に元気そうで良かった……今まで、どこにいたんですか? ここも含め、あちこち散々探したのに」

「いや……それが、自分でもよく分からない」



 頭を振っても、胡乱な気分は全く晴れない。

 研究チームを組んで、各所の地層を採掘し、分析をしていた事は覚えている。酷く寒く、かじかみながら調査研究を続けていたのだが……その記憶と、ここで目覚めるまでの過程がどうしても結びつかない。

 本当に私は、二週間も行方不明だったのか……その期間を反芻して、ハッとする。



「それじゃあ、研究は……」

「っ……」



 佐倉の顔が、打って変わって陰る。ぎゅっと引き結んだ唇が、彼女の、引いては私のチームの無念を雄弁に語っていた。



「そうか……成果は、得られずか」

「資源的にも、これ以上の継続は難しいです。いずれにせよ、一度シェルターに帰還しなければ」

「……しょうがないさ。説明不能という結果も、また成果だ」



 全球凍結を防ぐ鍵を探すべく組んだ無茶なスケジュールを、リーダーである私無しで行ったのだ。顔を合わせるのが恥ずかしい程に、彼女達は頑張ってくれた。

 佐倉の肩に手を置き、健闘を称える。それから、いままで寝床にしていた大樹の根を撫で、樹齢百年は越えるだろう老齢の幹に、そっと手を添えた。



「生き残っている土地は、世界中でも極僅かだ……せっかく訪れた春を、楽しむ余裕も持てないとは」



 佐倉の手を借りつつ、立ち上がる。未だ足がふらつくが、歩くのに支障はなさそうだった。

 ますます、二週間という期間が現実味を伴わなくなる。一晩の眠りのように短く……それなのに、長らく旅をしていたような、不思議な郷愁を感じるのは、どうしてなのだろう。

 去り際に、頂の縁から地球を見下ろす事ができた。

 緑に覆われた山。微かに生き残った鳥の鳴き声が聞こえる。しかし森は三キロほどで青々しい葉を失い、霜と死んだ木々のモノクロに変化する。

 五キロ先には、もう氷と吹雪しか存在しない。今や地球全土の九割以上が、青白い氷に蹂躙され、生きる事を停止している。

 並び立った佐倉が、真白の大地に目を向け沈痛に肩を落とす。



「結局、氷河期への移行は、時代の流れで、抗えない運命という事でしょうか」

「少なくとも、議会は地下へ潜る選択を決断するだろう。次回の研究予算が、果たして出るかどうか」

「なぜ、この山だけが生き延びられているのか……結局、分からず終いでしたね」

「……そうだな」



 透き通る青空では拭いきれない落胆を胸に、私達は山を下る。雪上車の中で、チームメイトと、沢山の研究施設と、芳しくないデータの山が待っている。

 麓まで降りた所で、私の歩みがふと止まった。

 坂の途中に、一本の梅が咲いていた。

 小さく細い、今にも折れそうな木だ。苔生した枝を苦しげに伸ばし、その先に、小降りで華やかな薄紅色の花を咲かせている。

 花弁は一様に、透き通る青空を見上げている。ようやく訪れた温かな日差しを喜び、ほっと安堵の吐息を吐き出しているようだった。



「……どうしました、先生?」

「……いや」



 私は首を振り、先で私を呼ぶ佐倉に振り返る。

 小さな梅の花弁がはらりと一片舞い、私を追うように空を泳いで、足下の地面に音も無く落ちた。



「……長い冬がやってくるな」

「……ええ」



 足取り重く、私達は山を後にする。

 受け入れるしかない。我々の目の前に広がる、余りに寒く厳しい未来を。向こう数百万年続く、息苦しい地下での生活を。

 抜けるような青空と、梅の花弁の薄紅色を脳裏に焼き付け、私は研究チームの待つ雪上車へと乗り込んだ。



























 一年後、その山に春はやってこなかった。

 世界全土が、分厚い氷に包まれ、命の鼓動を停止する。

 長く厳しい、冬の時代が訪れた。














(了)





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はるよぶ小梅 澱介エイド @orisuke-aid

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