第9話



 灯された沢山の蝋燭の火が、ゆらゆらと揺れる明かりで洞窟を煌々と照らし出している。

 幅広の洞窟には、形容しがたいうめき声の合唱と、乾かした糞便のような老人の臭いで埋め尽くされていた。

 感覚を汚す醜悪な臭いに、私は目覚めと同時に嘔吐する。少ない胃酸が飛び出し、目の前の冷たい石の地面に付着する。

 私は膝を着いた姿勢で、雁字搦めに縛られていた。寒さでかじかむ腕に麻縄が食い込み、じりじりと焼け付くように痛む。

 後頭部には、殴られた時の鈍い痛みがこびりついていた。視界がぼやけて何もかもが曖昧だ。うめき声の合唱と臭気が、耐え難い不快感になって私の理性を突き崩してくる。

 次第にハッキリしてきた私の目が捉えたのは、全裸になって平伏した老人たちだった。彼等は一様に、醜い干からびた躰を折り曲げ、深く深く頭を垂れている。冷たい地面に押し付けた口からは不気味に低くしゃがれた祝詞が唱えられ、それが無数に折り重なり、到底表現しえない音になって洞窟内に反響している。

 祈りを捧げる先には、一段高くなった祭壇がある。煌々と焚かれた燭台で、正面奥の石彫の観音像と、敷き詰められた夥しい数の小仏を照らし出している。

 大量の小仏に、老人たちの祈り。そこに挟まれる舞台の中央に、小梅は静かに座していた。



「っ小梅ちゃん!」



 私の呼びかけにも応じない。傷だらけの顔は俯いて表情を見せない。小さな頭がゆらゆらと揺れているのが、彼女の命が風前の灯である事を明確に物語っていた。

 上等な和服は剥かれ、薄い白の装束一枚だけを羽織っている。装束の胸や袖といった隙間から、幾つもの蚯蚓腫れを重ねて黒くぼこぼこに鬱血した皮膚が、凍えるような寒さに吹き晒されている。

 燭台に囲まれた舞台の中央に座す、傷だらけの肉人形。それは異様な迫力と悍ましい神秘さを伴い、私を絶句させる。

 老爺達による、地獄の底から響くような祝詞の合唱。聞く物の膝を折るような悪趣味な音響が、やおら騒がしくなる。

 洞窟の入口に、吹雪と共に夜叉が現れた。

 目が痛くなるほどの紅に身を包んでいた。男の全身から顔の殆どに至るまで血の色の氷に覆われ、分厚く凶悪な甲冑を形成している。天を貫くように伸びた二本の角が、通常の生物の規格から外れた荘厳さで見る物を竦ませる。

 氷の甲冑の隙間から僅かに覗く虚ろな目と、後頭部からはらりと垂れる灰色の髪に、微かにかつての面影を認める。



「冬至……」



 小梅と対照的に、力強く恐ろしい様に変化した冬至は、私の声にほんの少しだけ首を傾け、それで興味を失ったように小梅に向き直る。

 祝詞の大合唱の中、かしゅ、かしゅと霜の砕ける音を奏でて、冬至が小梅に歩み寄る。舞台を登り、俯く小梅を睥睨する。



「こ、ここ、こ、小梅」

「はい」



 小梅が顔を上げる。傷と腫瘍まみれの顔で、瞳を万感の想いで潤ませて。

 覚悟を決めるかのように、冬至が微かに頷く。そうして彼は、しゃんと目覚ましい音を立てて、血と霜に覆われた刀を抜いた。



「……た、た……大義で、あった」

「……はい」



 嬉しそうに、小梅は笑う。残り僅かな魂を振り絞って、痙攣する身体を立ち上がらせる。

 小梅が装束の帯を解く。白装束は流れるように滑り落ち、彼女の裸体を露わにする。

 白く柔らかい無垢な素肌に、夥しい傷と鬱血に満遍なく穢された、爛れた身体。この町の徒を一身に引き受ける生き人形は、余りに醜く、痛ましく、その分だけとてつもなく気高かった。

 冬至が小梅に迫る。立っているのも精一杯な小梅は、苦しげに呼吸しながら、静かにその時が来るのを待っている。



「……やめろ」



 祝詞の合唱が更に音量を上げ、おどろおどろしい気配が洞窟内に満ちる。私の悲痛な懇願は、醜悪な気配に押し潰されて、誰にも届くことはない。

 祈ったところで、止められない。抵抗する手段はどこにもない。



「やめてくれ……!」



 頭を振っても、祝詞は耳を穢し続ける。耐えがたい嫌悪感に頭がグズグズに溶けてしまいそうだ。

 夢なら覚めてくれ。

 沢山だ。一瞬でもここに居たくない。彼女に降りかかる災厄を、これ以上認めたくない。

 もう何も要らない。何も望まない。滅ぶのならこのまま滅びてしまって構わない。

 だから……だから私を離してくれ。

 彼女を、解放してくれ。



「っ……こんなこと、あっていい筈がないだろう!」



 声を限りに叫んでも、結果は同じだった。呪詛はとうとう地割れのような凄まじい圧力で洞窟を満たし、冬至が最後の一歩を踏み込む。

 刀が持ち上げられ、小梅の眼前に突きつけられる。

 少女は全てを擲つべく、静かに目を閉じる。

 冷ややかな鈍色の刃が、その顎を持ち上げ、つぷと先端を埋没させた。





 その瞬間──小梅がふと、私を見つめた。





「ぁ……」



 優しく慈悲深い、宝石のような輝く瞳に認められ、私は呆けた声を上げる。











 唇を綻ばせ、小梅はくすりと微笑んだ。

 みっともなく涙を流す私。それが、今際の際に、小梅が選んだ最期の光景だった。











 次の瞬間、閃いた刃が、小梅の喉から股間にかけてを、一直線に切り裂いた。

 胴体が観音開きのように放たれ、鮮血が間欠泉のように噴き出す。直立し、瞑目したまま、さっ引かれた股間から血が落ちる。さながら絶頂を迎えたかの如く。

 どぼどぼとこぼれ落ちる血に、老人達が歓喜の歓声を上げた。恍惚に満ちた顔を上げわんわんと唸りながら、骨と皮ばかりの腕を伸ばして命の一滴を求めて血溜まりに啜りつく。

 腫瘍塗れで分厚くなった、皮膚と膿で黄色になった小梅の断面。その臍の辺りに、冬至が拳を突き込んだ。躊躇いもなく肝臓を握り、長く伸びた腸ごとずるずると引きずり出す。

 臓物を引き抜かれる衝撃で、小梅が膝を折った。中の物を出した反動で傷口は押し広げられ、一層激しくなった流血が滝のようにどばどばと落ちて舞台を真紅に染めていく。

 冬至が手の上で肝臓を握りつぶし、挽肉にしたそれを辺りにぶちまけた。夥しい数の小仏に臓物の欠片が飛び散り、血飛沫を受けた老人が歓喜の金切り声を上げる。

 祭典は終わらない。冬至は次々と臓器を引き抜き、磨り潰し、ぶちまける。老人達は餓鬼の如く地べたを這い回り、小梅の膵臓の欠片や、腸から飛び出た未消化のソレを一心不乱に喰い回る。一人の少女の血が、肉が、臓物が、阿鼻叫喚の地獄を描く。

 冬至は取り出した心臓を雑巾のように絞り、中の血を飲み干した。既に絶命した小梅の、その安らかに閉じられた目を氷の爪でこじ開けて、眼球の一つを歯で挽き潰し咀嚼する。無感動に、機械的に、小梅をバラバラに壊していく。



「あ……あぁ……!」



 私にできる事は、ただ目の前の地獄絵図に恐怖し、打ちひしがれるだけだった。振りまかれる小梅の臓物の生臭さに嘔吐し、絶望し、心を粉微塵に砕かれる以外に、できる事は何もない。

 とうとう冬至は、小梅の頭を鷲掴み、力の限りに引き抜いた。ばつんと皮膚が引きちぎれ、空っぽになった胴体がばたりと倒れる。

 無理矢理に千切られたせいで皮が引き延び血管や脊髄をぶら下げた、蚯蚓腫れで膨れ、片目を抜き取られ、血飛沫で真っ赤に染まった、少女の無残な生首。

 けれどもその唇はうっすらと綻び、これほどの地獄において尚、今際の際に私が見た少女の純朴さを残していた。

 その頭部を、冬至は愛おしげに、胸の中に抱き受けた。

 次第に、バキバキという音が鳴り始めた。それは次第に力が籠もる冬至の腕で小梅の頭蓋骨が砕ける音で、冬至を覆っている分厚い氷の鎧がひび割れていく音だった。今までの非ではない絶対零度の寒さが冬至を中心に吹き出し、彼の身体を真っ白に覆っていく。

 ぐしゃりと頭部が潰れた瞬間、轟音を立てて鎧が崩れ落ちた。

 鎧の隙間から寒気が吹き出し、瞬く間に吹雪となって、洞窟内を蹂躙した。老人達の声もたちまち暴風によってかき消され、どこかから吹き出した雪によって視界が真っ白に染まる。私の身体を一気に霜で覆い尽くし、命の温みを奪い去っていく。

 私は声を限りに叫んだ。向け先の分からないやるせなさにひたすら声を枯らした。必死の絶叫もまた、ホワイトアウトする猛吹雪の前に押し潰され、搔き消される。意識が朧気になり、感覚が凍結し失われていく。

 全ては立ちどころに白に塗り潰された。深く酷すぎる絶望だけを残して、私は凍えるような寒さの中、息絶えるように意識を手放した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る