第8話



 それから何日も、何日も、やるせない日々が続いた。

 私は彼女を背負い、老人達の治療に向かった。小梅の傷を増やし、苦しみを増やすと知っても尚。

 そして少しでも空いた時間があれば、小梅を工房に押し込み、小仏を彫らせた。苦しみに倒れれば、その度に彼女を担ぎ、作業机に向かわせた。しばらく前に自力で座り直すことも難しくなった事もあり、唇を噛み切る程に堪え忍ばせた。

 全て、小梅の『お勤め』で、彼女が願った事だった。止めろという文句を、私が言うことはできない。

 小梅や、冬至や、この町の老人達は、大いなる何かを行っているのだった。想像すらできない使命の為にこの場所は存在し、各々が自らの役目を全うし続けている。

 それはシステムだった。太陽が東から昇るように、獣が肉を食んで生きるように、小梅はひたすら傷つき、痛みに耐え忍んでいる。

 これが、私がここにいる理由なのだろうか。

 地質学者として、人類を救う使命を帯び。スノーボールアースを防ぐ為に研究を重ね、答えを探し……ここまで辿り着いた。



 人類を救う鍵が、これなのか?

 こんなものを、私は求めていたというのか?



 鬱屈とした気持ちで、煮立った稗粥を囲炉裏の中央に置いた五徳に乗せる。湯気立つそれを椀に取り、私は傍らに敷いた布団に寝る小梅の身体を優しく揺すった。



「小梅ちゃん。ご飯が出来たよ」

「……は、い……」

「食べられるかい? ゆっくり、起こすからね」

「……ぁ、りがと、ございます……」



 息も絶え絶えに、小梅が応える。

 優しかった小梅の姿は、もうどこにも無い。

 布団に寝そべるのは、人の形をしたずた袋だった。老人達から吸い取った傷はとうとう顔まで浸食し、美しく可憐だった顔を醜く歪ませている。何重にも重なったミミズ腫れはぶくぶくと膨れあがり、黒々とした痣になって珠のようだった肌を浸食している。

 ぐしゃぐしゃのボロ雑巾になった小梅は、ほんの少し力を入れれば、それだけで腐って崩れ落ちてしまいそうだった。私は慎重に彼女の身体に手を回し、彼女を起き上がらせる。布団に身を包み込ませ、項垂れて苦しげに喘ぐ様は干涸らびた蛞蝓を連想させ、私を耐えがたく痛ましい気持ちにさせる。

 常理の外にいる私には、悼む気持ちすら相応しくない。ぎゅっと唇を噛んで、ほとんど粒の無い粥を匙で掬い、火傷しないよう息を吹いてから差し出す。



「……はい、小梅ちゃん」

「……」



 かくかくと痙攣しながら、小さな口を開く。傷塗れの皮膚の隙間に白い歯と瑞々しい肉が覗き、そこに慎重に匙を差し込む。

 はくと唇が匙を咥え込む。匙を傾けて粥を落とし、同じくらい慎重に引き抜く。小梅はゆっくりゆっくり、ゆすぐように粥を口の中で泳がして、びきびきと軋む身体に無理を言わせ、こくりと嚥下する。

 痛みに震えながら、小梅は傷だらけの顔を緩ませ、にこやかに微笑んで見せた。



「……おいしい……とっても、おいしいです……」

「……」

「もう一口、いいですか……? 実は、おなかがぺこぺこなんです……」

「……もちろんだとも」

「えへへ……やった、ぁ」



 喉を鳴らす度に激痛が走り、声と声の間に短い悲鳴が挟まる。

 瘤で殆ど塞がった目の隙間から、変わること無い宝石のような澄んだ目が覗く。無垢な瞳に精一杯応えるべく、私は少しずつ、小梅に粥を飲ませてあげる。



「ありがとう、ございます……だんなさま……」

「礼を言われる筋合いは無いよ。私は結局、君の苦しみの一つも肩代わりできていない」

「そんなこと、ありません……旦那様のおかげで……多分、もう少しの辛抱ですよ」



 五口目で、小梅の喉は下がらなくなった。痛みに呻いた口の端から、こぽりと粥が吹き出てくる。

 私は袖で、小梅の顔を拭ってやる。瞳から溢れてくる珠のような涙に、私も泣きじゃくりたくなる。



「ご、め、なさ……せっかく、旦那様が作ってくれたのに」

「いい。いいんだ。お願いだから、謝らないでくれ」



 これほどに傷つき、絶命寸前まで疲弊しても、彼女は無垢で可憐な小梅のままだった。それが余りにも痛ましく、私は彼女をそっと抱き寄せる。それで多少は安らぎになったのか、腕の中で小梅が深く呼吸する。



「だんな、さま……また、小梅をお膝に乗せてはくれませんか?」



 息も絶え絶えに、小梅がそうお願いしてきた。私は傷だらけの身体をそっと抱きかかえ、いつぞや小梅が飛び込んできたように、胡座の真ん中に座らせる。

 私の胸に後頭部を乗せて、小梅は心底嬉しそうに「ああ」と溜息を溢した。



「温かくて、心地良い……やっぱり小梅は、幸せ者です」



 すっかり白くぼさぼさになった小梅の髪を、指で梳く。痛みを押し殺した掠れ声で、小梅が笑う。



「旦那様……実は小梅は、諦めようと思っていたんです」



 囲炉裏の炭が、小さくぱちんと弾けた。胸に染みる小梅の温もりが、微かに身じろぐ。



「小梅のような子供は、毎年産まれておりました。何年も、何百年も、ずっと一人でお勤めをしていました……」



 壁を隔てた向こう側からうなり声が聞こえる。外はもう、何日も何日も猛烈な吹雪だった。小梅と一緒の囲炉裏の傍。ここだけが平穏で、安らぎが息づいている。



「年を経る毎に、寒さは厳しく、お勤めは長くなっておりました……とても辛くて、苦しくて……荷が重いなぁ、さすがにもう、無理かもしれなぁ、と……思ってしまったんです……」



 独白の間にも、ひゅうひゅうと抜けるような呼吸が耳に障る。

 荷が重すぎる。当たり前だ。無理に決まってる。何百、何千という傷を受けて、平気な訳が無い。



「けれど……旦那様が、来てくれました。ご飯を作ってくださいました。優しい言葉をかけてくださいました。あたたかくぎゅうーっと、抱き締めてくださいました。痛くて、辛くても、ちっとも寂しくありませんでした」



 頭がどうにかなりそうだ。いっそ痛い痛いと泣きじゃくり、余りにも惨い己の運命に打ちひしがれ絶叫しれくれた方が、何倍もマシかもしれないのに。



「旦那様のお陰で、小梅はとてもとても、幸せでした」



 私を見上げる、瘤で潰れた瞳の輝きは、それが他ならぬ本当の気持ちであることを現していて。

 行き場を見つけられない感情が溢れて、どうしようもない熱が涙になって、私の頬を伝う。



「ッどうして君は、そんなに優しいんだ……粥すら食べられないほど傷ついてまで、どうして頑張る必要があるんだ」

「旦那様のお陰です……春がお好きと、旦那様が言ってくださったから……」

「要らない。春なんてクソ食らえだ。君のような子を傷だらけにして得た温みなど、美しいと感じてたまるものか……!」



 恐る恐る、けれども思いの丈をぶつけるように、傷で膨れた小梅を抱き締める。安らいだような深い呼吸に、ざらついた重篤なノイズが走る。



「きっと、綺麗な花が咲きますよ。がんばった分だけ、すてきな春が、訪れるはずです」



 万感の思いでそう告げる。小梅は既に、全てを察し、受け入れていた。己の運命も、苦しみの果ての解脱すらも。

 無我夢中で、私は小梅を抱き寄せる。いじらしくて、痛ましくて、愛おしくて……いかなる感情でも彼女の安らぎになるのならと、思いの丈を抱擁に込める。私の腕の中で、照れくさそうに小梅が笑った。

 外がにわかに騒がしくなる。吹雪に交じって、雪を踏み潰す沢山の足音が重なる。物々しい無数の気配が屋敷までたどり着くと、いきなり戸が開け放たれ、大勢の老人が屋敷に飛び込んできた。

 骨と皮ばかりの痩せ衰えた老爺の群れ。彼等は虚ろな目を小梅に向け、枯れ枝のような手を伸ばす。



「やめろ……もういいだろう。これ以上彼女を苦しませるな!」



 小梅を抱き締め、私は吠える。逃げるという選択は存在し得ない。無駄なあがきと承知で、それでも彼女を守りたくて、声を限りに叫ぶ。



「この子の心は、私や君たちよりも遥かに清らかだ! 醜いお前たちに、穢されてたまるものか!」



 殺すなら私を殺せ。いや、いっそ殺してくれ。もう見ていられない。私の心が耐えられない。守る事が叶わないなら、せめて共に死なせてくれ。

 けれども、この町の仕組みの外側に在る私には、自らを擲つ願いさえも届かない。

 がつんと後頭部に衝撃。背後に忍び寄った老人に強かに殴りつけられ、私の意識は容易く奪い去られる。

 あっけなく暗転した意識の中、大切な物が奪い取られていく喪失感が、決して消えない傷として、私の心を深く抉り抜いていった。



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