第7話


 小梅を布団に寝かし、額に濡らした手ぬぐいをあてがっても、彼女の発熱は一向に治る兆しを見せなかった。

 それも当然だった。彼女が罹ったのは病や疾患ではない。結局、彼女は気丈に無理をしすぎていたのだ。今回の激情はきっかけに過ぎず、抑えていたものが噴き出すのは時間の問題だった。

 燭台の火で橙色に照らされた寝室で、私はそれを思い知っていた。小梅の枕元に座り、一歩も動けずにいる。

 眼前には、衣服がはだけ、ほとんど剥き出しになった小梅の裸体が横になっている。丸みを帯びた、毛の薄い華奢な手足。呼吸に合わせ膨らむ薄い胸。

 小さな彼女の身体には、夥しい数の蚯蚓腫れが、網目のように張り巡らされていた。

 腕から、胸、背中、余すところなく、万遍なく。いずれも、今まさに鞭打たれたかのように生々しく、薄く血を滲ませている。恐る恐る指で触れれば、小梅が苦しげにうめき声を上げる。

 余りに痛ましく、見るに堪えない様相に、私は顔を覆って項垂れる。



「……癒しの力では、無かったのか」



 理由など今更聞くまでもない。日がな町を駆けずり回って行われる小梅の役目は、決して傷の治療ではなかった。

 彼女の力は、他人の受けた傷を肩代わりするものだったのだ。痛みや、発熱のような病魔も含めて全て。



「自分が傷つくのを承知で、老人達を治していたのか……こんなになるまで?」



 信じられない。小梅の柔肌には、最早傷ついていない場所を探す方が難しい。傷の上から更に別の傷が交差し、まるで厚ぼったい腫瘍のようになって身体を醜く変色させている。

 余りに痛ましく、まともに注視できない。そんな私に対して、小梅は苦しげに唸りながらも尚、優しい微笑みを浮かべてみせる。



「大丈夫、ですよ。小梅はみんなより、よっぽど頑丈ですから」

「馬鹿言っちゃいけない。こんな怪我、いつ死んだっておかしくないぞ」

「大袈裟ですよぉ……つ、うぅ……!」



 軽く身じろぎするだけで、食い縛った歯の隙間から悲痛な声が漏れ出てくる。珠のような大粒の涙が、目尻から溢れて頬を伝う。

 どれほど神経を張り詰め、我慢に我慢を重ねれば、この怪我を隠して生活が送れるのか。子供のように無邪気な微笑みを浮かべられるのか。見れば見るほど有り得ない。気が狂う方がよっぽど正常だ。

 当然ながら、私に打つ手など無い。治療の心得など無いし、必要な道具もない。助けを呼ぼうにも、この雪の中で外に出れば、たちまち遭難してしまうだろう。

 出来ることは、ただ小梅の傍にいてあげるだけだ。私は歯噛みして、小梅の身体に慎重に服を着せて、布団を被せる。



「とにかく、安静にするんだ。私がずっと付いているから、君は──」



 私の言葉は、最後まで続かない。

 唐突に、千切れるような悲鳴が町に木霊した。歯の神経に氷を当てられるような不快感に、ぎゅっと身が縮こまる。



「なんだって、こんな時にまで……!」

「冬至さんも、抑えが効きませんね……よいしょ」



 億劫そうに身体を持ち上げようとする小梅に、私はとうとう我が目を疑った。



「待ちなさい、何をしているんだっ」

「小梅以外に、傷を治す事はできません。放っておいたら、誰かが死んでしまいます」

「その前に君が死んでしまうぞ! 馬鹿はよすんだ!」



 どれだけ言っても、小梅は全く引く気を見せなかった。傷だらけの身体にも関わらず、私の手を払い抜け、押し返そうとする。

 有り得ない献身だ。自殺と何が違うというのか。余りに痛ましい。足下に縋り付き、泣きながら「行かないで」と懇願したいとさえ思う。



「っ……どうして、そこまで……」

「旦那様……小梅から、また一つお願いです」



 額から滝のように汗を滲ませながら、小梅は私の顔に手を添え、ふっと唇を綻ばせた。



「これは、小梅のお勤めなんです。最後までやり遂げる事が、大切なんです」

「……」

「ですから、旦那様はどうか止めないでください。一生懸命頑張りますから、どうか見守って……できれば、支えてください」



 私はかける言葉を失う。窘めるのは、本当は私が行うべきはずなのに。小梅の優しさの奥に滲む覚悟と気迫には、全く敵う気がしない。



「っ……分かったよ。それなら私も、自分に出来ることをする」



 私は今にも倒れそうな小梅を、背中に乗せた。ぐったりと項垂れる身体の上から、毛布を被って包んであげる。



「そんな身体で、一人歩かせる訳にはいかない。これからは必ず、私が君の足になる」

「ああ……ありがとうございます」



 ほっという心からの安堵の吐息が、私の耳をくすぐる。耳元に寄せられた吐息は、深く喘ぐような色で、奥底で必死に堪えている苦しみを顕している。



「やっぱり小梅は、幸せ者ですね」

「っ……こんな物が、幸せであって堪るものか」



 傷に響かないよう慎重に足を運び、外に踏み出す。

 暗闇の中に、真白の雪が踊っている。猛烈に、群れをなして。外は大吹雪だった。びゅうと吹き付ける風の冷たさはまるで刃のように鋭く、柔肌をすっぱりと切り裂いていく。表面から凍り付いていくようで、眼球が酷く痛んだ。



「大丈夫ですか、旦那様」

「っ君に比べれば、屁でもないさ」



 深夜の吹雪の中に、やけくそに突っ込む。

 敵意すら感じる、異次元の冷たさだった。ほんの少し歩いただけで身体が寒さに悲鳴を上げる。動かさない筋肉は立ち所に固まり、間接が軋んで酷く痛む。命の危機を感じて、乱暴な機械のように歯の根がガチガチと打ち鳴らされる。

 厳しすぎる環境に意識を朦朧とさせれば、凍り付いた地面に足を取られ、あわや転倒しそうになる。そんな危険な瞬間が何度も繰り返された。

 小梅を放っておく訳にはいかない。その意地を原動力に身体を動かし、小梅の声を頼りに吹雪の中をひた走る。

 結局、五分程度の道に二十分以上をかけて、やっとの思いで現場に辿り着いた。路傍には背中をすっぱりと切り裂かれた老人が転がっており、老いた身体から流れ出た少ない血は、傷口傍のものまで凍り、磁石に反応した砂鉄のように黒ずんだ結晶を形作っている。

 老人の傍に、小梅をそっと下ろす。彼女は危うげに身体を揺らしながら、蹲る皺だらけの裸体に手を添える。



「間に合いましたか……よかった」



 心の底からほっとして、小梅は笑う。その結果、また自分の身体に傷が増えるにも関わらず、だ。



「っ……!」



 理不尽だと思った。例えようも無い怒りが奥底から沸いてきた。僕は辺りを見回し、古い小屋の隙間、私達を見つめる老人の視線を真っ向から睨み返す。



「何なんだ、君達は……! こんな子供に傷を押しつけて、ただ見ているだけか!? 恥ずかしくないのか!」

『……』

「まるで意味が分からない! 何がしたいんだ! どんな理由があれば、彼女が傷ついて平気でいられるんだ! ……誰でもいい、誰か答えてみろよ!」



 声を限りに叫んだそれは、誰の耳にも届かない。家々の隙間から注がれる視線は、私の怒りを受けて尚、何の感情も示さない。



「旦那様」



 小梅の声に振り返れば、既に治療は終わり、老爺が自身の家へと逃げ帰る所だった。切り裂かれるような寒さの中、身体中に傷を追った小梅が、にこりと微笑んでみせる。



「早く、帰りましょう……今日は少し、くたびれちゃいました」

「っ……!」



 糸が切れたように小梅の身体から力が抜け、私の方に倒れ込んでくる。辛そうな小梅を放って、我が儘に怒る訳にもいかない。割れんばかりに歯を食いしばって悔しさを堪え、注がれる視線から背を向ける。

 振り返った、夜の闇と純白の雪だけの視界。その足下に、半透明の樹脂ケースが刺さっていた。



「また、これか……」



 訳が分からなさすぎて、苛立ちすら浮かんでくる。背負った小梅に気を配りながら、ケースを雪から引き抜く。

 三度目のそれも、今までと同じだった。ケースの中には土が保管され、ラベルには項目に沿った数値や記号が書かれている。余白にはまたしても、誰に宛てたかも分からないメッセージが書かれていた。



 ──必ず我々が、スノーボールを打ち砕く。



「……一体何なんだ」



 ケースをポケットに仕舞い、小梅を背負いなおす。

 分からない事ばかり、辛いことばかりだ。何だ。私は一体、何に巻き込まれているんだ。

 闇雲に叫びたくなるのを、懸命に抑える。一番辛いのは、私の背中で苦しげに息をする少女なのだから。私はただ、彼女の為に寒さに耐え、機械的に足を踏み出す。

 幸いにも、吹雪は多少収まり、視界がある程度鮮明に見えるようになった。帰り道が分かる事を伝えると、小梅は安心して、私の背中で眠りに落ちた。

 苦しげだった吐息が、やがて安らかな寝息に変わる。滑って起こしたりしないよう、慎重に家路を急ぐ。

 やっと屋敷まで辿り着いた所で、私の足は止まる。

 門前に、冬至が立っていた。前に見た時とは、余りに異なる異様な姿で。



「冬至、か……? 何だ、君の、その姿は……?」



 彼の身体は凍り付いていた。

 凍傷や、霜焼けのようなマトモなものではない。分厚い氷が身体のあちこちに付着し、巨大な鎧のようなものを形成していた。

 身体を覆う氷は紅い。血の赤であることは、最早聞くまでもない。

 氷に覆われた身体を気にした風もなく、冬至は私と、背負った小梅に目を向ける。



「そ、そそ、そ、壮健、か」

「っ……そんな風に見えるか」

「け、け、健気に勤めてる証だ」



 不揃いな歯を見せて、冬至は不器用な笑みを作る。紅い氷は顔にも及び、頭部に隆起した氷柱がまるで角のように不気味な意匠を放っている。

 冬至の様相は、既に人であることを辞めていた。今すぐにも縊り殺されそう……その恐怖をぐっと堪え、私は彼を真っ向から睨み付ける。



「小梅はもう傷だらけだ。君が町の老人を傷つけて回るせいで、彼女はどんどん弱っている」

「否。まま、まだ、足りぬ。そそそ、その時に至るにはまだ、血、血、血が足りぬ」

「っこれ以上、意味が分からない事を言わないでくれ! 何が起きている! 一体、この町は何なんだ!」



 頭がどうにかなってしまいそうで、声を限りにそう叫ぶ。

 何もかもが常識から外れている。こんな事があっていい訳がない。現実に起こり得る筈がない。

 これが悪夢じゃなくて何だというのか。悪趣味だ。意味不明だ。

怒りとやるせなさが私の中に渦巻いて、脳内に立ち込めていた靄を取り払う。



「……そうだ。思い出したぞ。この町だけじゃない。世界中がそうだ。太陽の沈静周期の到来によって、あらゆる場所が凍り付き、死滅しようとしている……」



 スノーボールアース。それが人類に訪れる破滅の名前だ。何万年も跋扈し続けた我々は、母たる地球の気まぐれによって文明を終えようとしている。



「私は地質学者だ。土を掘り、分析し、向こう数十万年続く氷河期を止める術を探し続けていた……だから私はここに来たのか? ここで何を見つけるべきなんだ?」



 ふふふ、と呻くように冬至が笑った。細められた虚ろな目は、もがく私を嘲笑うようにも、見守るようにも見えた。



「か、か……解を、望むならば。貴様はただ、あ、あるがまま、いればいい」

「そうはいかない。小梅ちゃんを放っておけるものか」

「す、すす、すべては勅命。成るべくして成るのだ……そそ、外側の貴様を除いて」



 そう言うと、冬至は背後に置いていたそれを掴み、私の前へと曝け出した。

 村の老人の一人だ。衰弱した身体を極寒の空気に吹きさらし、鷲掴みにされた肩には冬至の氷の爪が突き立てられ、皺だらけの皮膚を無残に食い破っている。

 殆ど毛のない撓んだ頭髪ではっと気付く。私に襲い掛かり、懐に古い小仏を忍び込ませた老爺は、惨めな小動物のようにブルブルと震え、飛び出しそうなほどに目を見開いて冬至に怯えている。

 老爺は既に無数の切り傷を受け、ずたぼろだった。口は分厚い氷で塞がれ、青紫色に壊死している。腐った唇の隙間から発せられる悲鳴は、虫の羽音のような小さな高音で、私に怖気を抱かせる。



「すす、す、全てに役目が、理がある。き、貴様の介入は、許されない……こここ、理を守らねばならぬ。貴様もまた、ま、守られねばならぬ」



 シャンと澄んだ音を奏で、冬至が刀を抜いた。ぞっとするほど冷たい鉄が、雪の純白に鈍色の線を敷く。

 老爺は狂瀾した。目を剥き、録に動かない身体を必死に痙攣させ、背後の鬼に恐怖する。

 氷の鉤爪が、老人の禿頭を握り込む。撓んだ頭皮が突き破られ、ごりゅと骨の鳴る音がする。振り絞る絶叫が分厚い氷に塞がれて、ガラスを引っ掻くような痛ましい音を奏でた。

 必死に暴れまわる。冬至にとってはその全てが取るに足らず、余りに惨めな些事に過ぎない。



「勅命を違えた者は……こうして詫びるより、他にない」



 瞬間、冬至は刀を閃かせた。

 刃は何の躊躇もなく老人の首を抜け、前半分を断ち切った。頸動脈から血が噴き出し、開かれた気道から「びゃっ」と悲鳴になり損ねた音が飛び出してきた。

 剥き出しになった断面からホースのように吹き出した血が、雪原をびしゃびしゃと紅く染める。自重でだらんと垂れ下がった胴体によって、残された首の皮膚や筋肉がブチブチと千切れていく。数秒ほどで血は数筋ぴゅうぴゅうと噴き出すほどになり、最後の皮がぶちんと千切れて、老爺の首無し死体は雪の中にどさりと倒れ伏した。

 数秒ほど自分の死を感じていたのだろう。生首は目を剥き、筋肉を硬直させ、死して尚絶叫しているかのようだった。それを闇の中にぽいと放り投げ、冬至は刀を鞘に仕舞う。



「こ、こここ小梅を、よろしく頼む」



 最後にそう言い残して、冬至はひらりと背を向け、雪降る闇夜へと消えていく。

 後に残されたのは、呆然と言葉を失った私に、流れ出る血で雪を染める首の無い老人の死体。



 私は自分が何者かを思い出した。しかしそこに、達成感など微塵もない。

 背中の小梅が、けほっと小さく、苦しげに咳き込んだ。


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