22.果たして彼女は人魚であったか

 さて、話を一度ヒュドールに戻そう。あろうことか海に落ちたテロス・エクスーシアの話である。


 テロスの話によれば、助けてくれた『人魚』はエイデスのことを知っている風だったという。おぼれたことをエイデスに報告すると言っていたということは、そういうことなのだろう。

 溺れた翌朝、テロスは心当たりがないのかと散々エイデスに聞いてきた。だが、残念なことにエイデスには下半身に尾ひれがある人間に知り合いはいない。


(俺の名前を知ってた、ってのが気になるな。)


 何も本当に、に名前が知られているとは思っていない。バシレイアでは泳げる人間は少なく、テロスは見慣れないすいすいと泳ぐ人間をまるで尾ひれでもついているように見間違えた可能性が高いだろう。だとしても、果たしてその人物は一体誰なのか。

 コツ、コツ、とペンのお尻の部分で机の上を叩きながら考え込む。目の前に広げられた書類は所々書き込みがしてあるが、完成形には程遠い。

 どうせ早々に仕上げなければならないものではないので、ゆっくり作成すればいいのだ。そうでなければ、考え事をしながら仕事をしたりはしない。


(条件はまず女。それから泳ぎが達者なこと、か……。)


 女性の知り合いは国内外問わず多いが、泳げる者となると途端とたんに限られてくる。海沿いに住んでいるからといって泳げるとは限らない。船乗りにも泳げない者がいるぐらいなのだ。一向に候補が浮かばず、エイデスは唸り声をあげた。

 泳ぎが達者たっしゃと言えば、ヒュドールの人間よりも群島諸島連合ぐんとうしょとうれんごうの人間だろう。あの連合の人間は、むしろ泳げない方が珍しいというくらいなのだから。


「失礼します。エイデス様、いらっしゃいますか」


 あまりにも候補が思い当たらず、いずれ来るという報告を纏うかとさじを投げかけていた。そこへ扉を叩く音が飛び込んでくる。

 だらしなく椅子にもたれかかっていた体を起こしてから返事をすれば、一呼吸置いてから入ってきたのはサラッサが使っている使用人だった。


「お忙しいところ申し訳ありません」

「大丈夫、暇だ。お前のご主人様とは違って」


 仰々ぎょうぎょうしく頭を下げた彼女に皮肉で返すと、少しだけ笑う。使っているサラッサには似ず、素直でかわいい使用人だ。

 サラッサに対して忌憚きたんない口をきいていることもあり、そういうところも好印象である。


「先日、海で人が溺れているとの報告がありました」

「ほお」


 思いがけないところからの報告に、エイデスは感心したような声を上げた。

 エイデスがテロスからどう聞いているのか、彼女は知らないはずだ。その報告は淡々と事実を読み上げているかのようで、自分が助けたとは口にしていない。

 あくまでもそういう知らせがどこかから入ったので報告しに来た、という体らしい。


「命に別状はなかったそうです」

「そうか、それは何よりだな」


 彼女の頭のてっぺんからつま先まで、じっくりと眺める。まるで値踏みをするような視線は不躾ぶしつけにも思われそうだが、彼女は少し居心地悪そうに身動みじろぎしただけだった。

 老人のような白髪は、テロスが持つ鱗と同じ色にはとても見えない。それほど何度も見たわけではないが、あの鱗は夜明けの海のような色をしていたはずだ。そして彼女の足はまごうことなく二本であり、それは鱗ではなくエイデスと同じように皮膚に包まれている。


「ルアル、お前、泳ぎは?」

「……できます」

「そうか」


 どこからどこまでがテロスの幻覚なのか、あるいは本当に彼女はただ出来事を伝えに来ただけなのか。

 試しに彼女に泳ぎの可否を問うてみると、一瞬の間の後に肯定が返ってきた。その答えにエイデスは、ふむ、と顎を擦る。


「よし、ちょっとついてこい」

「え……や、でも、あの、僕、仕事が……」


 エイデスが考えていても仕方がない。

 テロスは報告しに来た人がいたら教えてほしいと言っていた。テロスは朧気おぼろげとはいえ顔を見ている。例えルアルが探し人と違っていたとしても、彼女しか報告には来なかったと言えば、テロスの人魚探しも少しは落ち着くことだろう。

 二度と人魚を探してぼーっとして海に落ちる、なんてことを起こさないでくれるとエイデスとしては非常に助かる。

 立ち上がってルアルを連れて行こうとすると、彼女は戸惑ったように首を振った。彼女曰く、別件の用事のついでにサラッサには言わずにここに来ていると言う。エイデスに会いに行くとサラッサがうるさいのだそうだ。相変わらず対抗心ばかりが強くてご立派なことである。


「わかった」


 うなずくと、ルアルが安堵あんどとしたような顔をした。だが彼女がその場を辞する挨拶をする前に、エイデスは机の上に置いてあったベルを鳴らす。

 涼やかな音を響かせるそのベルは、エイデスが使用人を呼ぶときに使っているものだ。人が部屋にいては仕事に集中できないので、こうして必要な時にだけ呼べるようにしてある。


「お呼びでしょうか」


 出来のいい使用人たちは、呼び鈴を聞いた瞬間音もなくエイデスの前に現れた。エイデスはルアルを指し示して、彼らに命じる。


「サラッサに、ルアルを借りると伝えてくれ。もし文句を言ったならルアルの仕事を代わると言え。給料は俺持ちだ」

「かしこまりました」

「ちょ、あの……?」

「これでいいな。行くぞ」


 余計なことを聞かずに、言われたことだけを実行する使用人たちをエイデスはとても気に入っている。目を白黒させるルアルの手を鷲掴わしづかみ、廊下に出てずんずん歩く。放してもらえないことにすぐ気づいたのか、ルアルは抵抗なくついてくる。

 彼女が半ば駆け足であることに気づいて、エイデスは少しだけ歩をゆるめた。

 テロスは、いつも通り書庫にいる。エイデスが個人で所有している書庫は人が来ず、しかしそこそこの広さがあり身を隠すにはうってつけだ。唯一の欠点は小さな窓が一つしかないため空気が淀みがちであるということと、扉が一つの為脱出経路が限られていることだろうか。

 エイデスが入る合図として、扉を二回叩く。この音が聞こえる前に扉が開く音がしたならば本棚の陰に隠れるという約束だが、テロス曰く未だにそうなったことはないそうだ。


「連れて来ましたよ」


 窓のない書庫の中は薄暗く、日差しに溢れていた部屋から入ると目が暗がり慣れるまで何も見えなくなる。エイデスは声をかけつつ、目を何度かまばたきさせて暗闇に慣らした。

 エイデスの声を聴くなり、テロスが書庫の奥からすっ飛んでくる。


「ありがとう!」


 ぱあっと顔を輝かせるテロスはまるで少年のようだ。エクスーシア一族の特徴なのか、それともぬくぬくと政権争いとは無縁の場所で生きて来たからか、テロスも彼の兄である現王も妙なところが素直で子供っぽい。

 現王は母の庇護ひごのもと大事に大事にされてきたせいで精神面が幼いところがある、というのは理解できるが、テロスまでこうなのはエイデスはいささか納得がいかない。


「君が助けてくれたの?有難う、俺はテロス・エクスーシア。君の名前は?」

「おいちょっと待ちやがれください」


 小さな明り取りの窓からの光だけでもはっきりとわかるほど浅黄色の瞳を輝かせてルアルの手を取ったテロスは、その素性を示す髪を隠してすらいないどころがはっきりと名前を口にしてしまった。思わずドスの利いた声で敬語になっていない敬語で制止したエイデスだが、テロスはそんな声など耳に入っていないらしい。

 テロスはルアルの手をぎゅっと握って彼女の返事を待っている。かわいそうなルアルは困惑した顔でエイデスに視線を向けた。その目が助けを求めていることはわかっていたが、エイデスは一つ大きなため息を吐いた後、微笑んで見せた。

 全てを諦めて受け入れてほしい、という笑みである。


「……ルアル、です」

「ルアルか! いい名前だ。俺はよくこのあたりに来るのだけども、友達になってはくれないか?」


 エイデスは「はあ?」という声をすんでのところで飲み込んだ。

 ここによく来る、というのは大っぴらに口にしてはいけないことだ。ましてや、先ほど彼は自分の身分をはっきりと口にしてしまった。ルアルも、そんなこと言っていいのかとでも言いたげな引きつった顔をしている。


「まあ……いいですけど……」

「よかった! 俺は、ずっと君を探していたんだ!」


(ルアルからしたら大分ヤバイ奴だと思わないか? これ。)


 うなずいてくれたのは、ルアルの精一杯の優しさであろう。あるいは頷かなければ解放されない圧を感じたのかもしれない。

 どちらにせよルアルの友達になってくれるという返事に、テロスは大変嬉しそうだ。ぶんぶんと握ったままの手を上下に動かしながら、どれだけ彼女に恋焦がれていたかを語っている。

 彼女に、ではなく、正しくは人魚に、だが。

 第三者目線でその光景を眺めながら、エイデスは書庫の扉に背中を預けて半目になった。テロスはルアルと人魚を同一視しているが、ルアルはそのことを知らない。おかげで接点など溺れた時が初めてなのに、それより前から知り合いであるかのように滔々とうとうとルアルは知らないことを語られてしまっている。


「昔から君を探してて、でも見つからなくて…あそこで助けてもらって出会えるなんて、やっぱり運命なんだよ!」

「はあ……」


(まあ、いいか。)


 テロスが楽しそうで何よりだ、とエイデスはうなずく。

 今考えるべきは興奮しきっているテロスを擁護ようごする事でも、困惑しているルアルに助け舟を出すことでもない。今後度々ルアルとテロスを会わせるために、彼女をサラッサとエイデスの間を行き来する仕事に就かせられないか、それを考えることである。

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