間 与えられた幸福
ディガンマの自宅は海が見える場所にあるが、海辺というほど近いわけでもない。元々は本当に海の間近に住んでいたのだが、結婚した時に引っ越しをした。
ディガンマの妻となったフーディはクレプト家に名を連ねる所謂貴族の令嬢で、砂漠地帯のクレプトから来た。そんな彼女に波の音は聞き慣れないだろうと配慮をしたためだった。だが、蓋を開けてみれば平民に嫁いできただけあって、フーディは大変変わった、良い言い方をすればとても大らかで故郷との違いを楽しめる女性で、彼女は
むしろ、砂漠を吹き抜ける風が立てる微かな音に似ていると言って、故郷を思い起こしていたくらいだ。
バシレイアで貴族と平民という身分違いの恋や結婚は、それほど珍しくない。結婚という形でなくとも、
だが、貴族の女と平民の男という組み合わせの結婚は、バシレイアにおいても珍しい部類に入った。
にもかかわらず、ディガンマがフーディと結婚をしたのは純粋な恋愛感情からではない。二人の結婚をお
ただディガンマは、与えられた幸せを享受するだけだ。
「今日は風が強いですね」
全開にした窓から海を眺めていたディガンマの背後から、くすくすと笑う声が聞こえた。ディガンマはそれに、振り向かないままに相槌を打つ。
往々にして船乗りの朝は早い。まだ
ディガンマ自身もそこそこ長身だが、フーディも女性にしては背が高い。背の高さから大人びた雰囲気を感じるが、その割に顔立ちはどこか幼さを残しており、その不均衡さに目を引かれてしまう部分がある。金色の瞳は優しい光を讃えて腕にしっかりと抱いている赤ん坊を見つめていた。
彼女の腕に抱かれている我が子はすいよすいよと無垢な表情で眠っている。赤子特有のふわふわした髪はまだ色が薄いがほんのりと茶色みを帯びていて、外見の特徴はディガンマの方を受け継いだらしい。
ふくふくとした頬は丸くてほんのりと赤く、血色がいいことがわかる。健康に育っていることにほっと胸を撫で下ろした。
「風邪を引くぞ」
向こうに行っていていいと言外に告げたが、フーディはどこか勝ち気に見える表情を浮かべて笑った。
「海風で風邪は引きませんわ」
それは毎朝どんな気候でも海で仕事をするディガンマを気にかけた結婚当初のフーディに、ディガンマが返した言葉だ。ぐぅと喉の奥で唸って黙り込めば、けらけらとフーディが笑った。
令嬢らしからぬ快活な笑い声に、腕の中の赤子がむずがるように腕を動かす。
「あら。起きてしまったかしら?」
「……寝ているようだな」
少し
ディガンマ自身の子はこのフーディとの間の子供が初めてだが、船乗り仲間が子供を度々連れてくるので子供と触れ合うこと自体には慣れていた。得意かどうかはまた別の話だが。
その時の子供らの様子と比べても、我が子はどうもおっとりとしている気がする。こちらがどれほど起こそうとも、自分が眠い時には何も飲まずに眠っている。最初フーディと二人して随分と心配したものだが、数ヶ月経てばこういう子なのだ、と納得するに至った。
「どちらに似たのでしょうね」
笑うフーディに、お前ではとは言わなかった。どうせ
女性に口では敵わないと、それほど長くもないが短くもない人生経験の中でよく知っている。
朝焼けの海は美しい。ディガンマは、朝焼けに染まる海が一番好きだ。太陽がゆっくりと東から顔を見せ、夜の闇に沈んでいた海を照らし始める。
月明かりに照らされ黒く、白く、時に銀色に光っていた水面が次第に黄金に染まり始める、この時間。
「綺麗だな」
「ええ、本当に」
独り言のようにうっとり
美しい黄金に手を伸ばしたくてたまらないが、水面はどうやっても掴めない。
昔、空に輝く月を手に入れたいと泣いた子供の話を絵本で読んだことがある。弟とは呼べない弟であるエイデスは鼻で笑って夢物語に踊らされるなど馬鹿馬鹿しいと、そんな現実的な感想を口にしていた。
だが、ディガンマは絵本の子供の気持ちがよくわかった。
あの黄金が欲しいと、心のどこかがそう叫ぶ。だが、その叫びはすぐに黒くて大きいもので蓋をされてしまい、太陽の光に焼かれた視界が戻ってくると同時に忘れてしまうのだ。
黄金に、確かに
「そろそろお時間では?」
「そうだな。行ってくる」
この光景を見たら、ディガンマは海へと向かう。折よく目を覚ました我が子の頬を行ってくるぞと突けば、
「嫌われてるな?」
「そういうものですわ」
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