16 イラ
黒髪の少年というと、誰の顔も思い浮かばなかった。まじまじと鏡で見た自分は顔立ちこそ変わっていないが、それでも成人していない黒髪の少年という風情である。ルシェルリーオ、あるいは大鴉という人間に繋がらせないためにも、この姿は役立ちそうではあった。
ただ戻ってきたらどうすれば良いのかと聞けば、ハイマに言えば良いようにしておくなどと言っていたので、そこはまたよく分からない部分だった。
アグロス領で情報集めをしていたところで行き会ったのは、カルポス・アグロスの雇った人間と、それに襲われていたヒュステレオ・アグロスである。見捨てるという選択肢はルシェにはなく、追手の方は殺す形になったがそれは仕方のないことだろう。
手渡された枝は黄色い花をつけている。花など貰ったのは初めてのことで、少しばかり心も跳ねた。
「あ、ちょ、あの……待ってください!」
手を振って去ろうとしていたヒュステレオを思わず呼び止めたのは、彼の身が心配であったことと、少しばかり困ったことがあったからである。
オルキデならばともかくとして、バシレイア国内については通り一遍の知識しかない。さすがにこの状況でアグロス領内で野宿という選択肢は取れず、ならばどこか宿泊する場所は必要だ。
「え、な、なに?」
一応足を止めてはくれたものの、明らかに警戒の色は見えた。
ルシェとて自分が怪しく見えるだろうことは分かっている。分かってはいるが、こうして助けたのだから少し返して欲しいという、それだけのことだった。
「僕、あの……イラといいます。泊まる場所、探してまして、どこかご存知ありませんか!」
こんなことに名前を使ったと知ったら、アヴレークは怒るだろうか。アヴレーク・イラ・アルワラ、彼の名前の一部分だ。他に名乗る名前は思い浮かばなかった。
ルシェとも
「あ、あと。お花……ありがとうございます。お花貰ったの初めてで、すっごく綺麗で、嬉しいです。すごいです」
ヒュステレオは警戒したままのようだが、今すぐ逃げ出そうというわけでもないらしい。
彼から渡された花を手にして笑えば、一瞬ぽかんとヒュステレオは口を開けて、それからはにかむような笑みを浮かべた。
「……嬉しい」
なんとなく心があたたかくなった気がして、ルシェもまた同じように微笑んだ。どうせこの姿はルシェとは別人なのだ、ある意味この姿らしく振る舞うのならば、素直に笑っていれば良いのかもしれない。
ほわりと空中に花が咲いて、消えた。一体どうなっているのか知らないが、彼は少しばかり不思議なことができるようだ。それはオルキデで言うところの加護であるのかもしれないし、失われて久しい『魔術』というものであるのかもしれない。
「今から、弟のところに行く、から……弟なら、多分、泊まるとことか、知ってるよ」
「では、御一緒してもよろしいでしょうか」
おそらく
「……いいよ」
「ありがとうございます。道中、護衛はお任せください」
距離を目いっぱい取りたいのか、離れてヒュステレオは歩き出す。とりあえず視界に入っていてくれれば護衛としては事足りるので、その背中を視野に入れながら追いかけた。
アグロスの風景はエクスロスともまた違う。クエルクス地方ともまた違う。こんなに広い農耕地帯は初めて見たなと、そんなことをルシェは思うのだった。
※ ※ ※
さすがに無言の道中というわけではないが、ヒュステレオは間違いなくルシェを警戒している。とはいえ警戒されないはずもないし、心を許して欲しいというわけでもない。
ここまでで観察したところ、彼は当主になるつもりはなさそうだ。となるとやはりアグロスの当主は現状その座を狙っている双子のものになりそうではあるが、その場合に彼の命はどうなるのか。いっそ死を偽装するという手もあるにはあるが、彼はどこまでのことをやるつもりがあるだろう。
ただひたすらに歩いて行く、馬にも乗らない。そして、馬車でもない。とはいえ向かう先は定まっているのか、ヒュステレオは迷うことなく道を突き進んでいた。
その、途上。ぐう、とヒュステレオの腹が鳴る。
「あの」
声をかければ、一応顔が向く。
一番最初よりは警戒も解けてきているかもしれない。それでもやはり距離があるのは、人見知りのきらいがあるからだろう。
そもそもルシェの一番よく知っているバシレイア人はハイマであるので、彼を基準にしてはならないのは分かっている。リノケロスはきちんと人との距離を測っているのだし、色々なものを一足飛びに飛び越えて近付いてくるハイマの方が珍しいのだ。
「空腹、ですか」
「まあ……ちょっと、お腹空いたね」
ごそごそと腰のポーチを漁る。ルシェが使っているそれの中に、いつも口にしていた携帯食糧が入っていた。細長い長方形のそれはクッキーのように焼いてはあるが、非常に硬い。栄養だけは詰まっているが、ぼそぼそとして口の中の水分は
シアルゥなど、こんなもの好んで食べる人間の気が知れないと言っていた。それでも毎日食べていれば慣れてくるもので、ルシェにとって食事とは
「携帯食料なら、ありますが」
そうして差し出したそれをヒュステレオは得体の知れないものでも見るかのような視線で見ている。そもそも彼は貴族であるので、こんなものを食べたこともはないだろう。
アグロスは農耕が盛んということは、食べるものに困らないということでもある。従軍するということもないだろうし、差し出されたところで口にはしない気がした。
「え、何これ……
「どちらかと言うと鳥の餌ですね。栄養だけは取れますよ」
「美味しくないものは要らない……」
特に気分を害するとか、そんなこともなかった。そうだろうなと思っていた部分もあるし、美味しいですよと言うつもりもない。
彼がどうしても空腹が我慢できないというのならば口にしたかもしれないが、どうもそういうわけでもなさそうだ。結局受け取られなかったそれは、再びポーチの中へしまわれることになった。
鳥の餌とは言ったが、正しくは鴉の餌だろう。
「そうでしたか」
エクスロスでした食事はどんなものだったか思い出す。皿の上に山のように積まれた肉料理や野菜料理は、どんと目の前に出されると少しだけ引いてしまう。
そもそも、あまりたくさん食べるという習慣がルシェにはないのだ。きちんと食え、痩せすぎだ、とハイマは言うものの、入らないものは入らない。そして鴉である以上は身軽な方が良いのも確かだった。
「これ、美味しくないものなんですね。確かに味はないですけど」
オルキデの料理は本来もっとスパイスが効いている。暑いがゆえか、そういったものを使用する料理が発達しているのだ。それに対して、バシレイアではあまりそういったものを多く使っているものを見ない。
エクスロスの味付けはおそらく豪快だが、アグロスはどうなのだろう。
「弟のところ行ったら、なんか食べよう」
「そうですね。その方が良いと思います」
ほわりとヒュステレオの周りにまた花が飛んだ。
花など貰うことは一生ないと思っていたが、嬉しいものだった。そもそも花は好きなのだ、あまり触れる機会がないだけで。
再び、ヒュステレオの背中を追う。そうしてようやく辿り着いた彼の弟がいるという家の中、出迎えた相手の髪は見事なまでの赤銅色をしていた。
つまり、彼の弟はエクスロスの血縁者ということだろう。なんとも貴族間の世間というのは狭いものである。
ただし今ルシェはただのイラであるので、素知らぬ顔をする。ともかくルシェや大鴉とは別人のイラとして、彼らの状況も確認しておくことにした。
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