15 ヒュステレオ・アグロス
アグロス領はバシレイアの中でも豊かな土地だ。広大な穀倉地帯が広がり、領地のあちこちには収穫した麦を
領地には大きな川が二本流れており、それは領地を縦断して、一本はディアノイアへと続き果てはヒュドールとの境になる。もう一本はアルニオン領との境にある大きな湖へと流れ込む。この二本の川は、アグロス家の祖となった神の生み出した子供、ということでそれぞれプルトス、ピロメロス、と名付けられていた。
ピロメロスが流れ込む大きな湖を
愛人がいるのはバシレイア国内では珍しくもないが、こうして本宅の隣にわざわざ住む場所を建てているのはアグロスだけだ。種を蒔くのが得意と他領から
そもそも、その愛人ですら
木材とレンガを組み合わせるようにして作られた建物はどっしりとして重々しいが、決して風景の中で浮いてはいない。遥かな昔に建てられた当時の姿をほぼそのまま残す、国内でも数少ない建物の一つだ。
「今すぐ崩れんかな……」
そんな貴重な建物を見上げて、ヒュステレオは死んだ魚のような目をして
ゲオルゴスを殺したのはリノケロス・エクスロスだというのは、アグロス家の中で言われていることだ。どのようにして情報を
そもそもエクスロス一族に対しては、苦手意識しかないのだ。
ヒュステレオが
だが、ヒュステレオには生まれながらにその顔の半分を覆うほどの大きな
長じても
ヒュステレオとしては、いっそあの時母と家を追い出されていた方が良かった。母が住まわされていたはずのあの離れには、今は異母の弟妹の母が住んでいる。二棟ある離れに住める愛人は、数多くの女の中からアグロス家の子供を産んだ女だけだ。もう一つの離れには、こちらもヒュステレオの異母弟の母が住んでいる。ヒュステレオは、今は本宅で息をひそめるように生きていた。
「誰か来る、か……?」
ぼんやりとアグロス邸を見上げていたヒュステレオだったが、不意に草を踏みしめる音が聞こえて我に返った。
フードを目深にかぶり直し、黒髪と、そして特徴的な
抜かれた刃が、鈍く陽光に光る。
「どこに行った?」
「わからん、向こうを探そう」
「証拠を持って行かないとカルポス様は納得なさらないぞ」
「わかっている」
土を踏む音、落ちている枝葉を踏む音、新鮮な草がへし折れる音。それらが遠ざかって耳に聞こえなくなってから、更に十を胸の内で数える。
そうしてから、そっと茂みから這い出しして息を吐く。
カルポス・アグロスは現在アグロスの姓を名乗れる子供の中では最年少だ。いや、正確には彼は双子であるので最年少のうちの一人、という方が正しいだろうか。父であるゲオルゴスの悪い部分を濃縮還元したような性格をしていて、成人もまだだというのに父亡き後の当主の座を手に入れようとしている。
そのためには、年長者であるヒュステレオや、もう一人の息子であるイスキュロスが邪魔だということだろう。ヒュステレオとしては当主などになる気はさらさらないので勝手にやってくれという心持ちなのだが、カルポスはそんな薄っぺらな言葉では信用ができないらしい。
「逃げるか……とはいっても、どこへ行くかな」
異母弟イスキュロスは、農夫に混じって暮らしている。せっせと土を
彼はゲオルゴスに将来を
※ ※ ※
そんなことを茫洋と思いながら歩いていたのが悪かった。
「いたぞ! 殺せ!」
不意に肌に突き刺さった殺気に、ぞわりと背筋が泡立つ。慌てて振り向くと、いつの間に戻ってきたのか、あるいは別の追手なのか、武器を携えた男が数人こちらに向かって走ってきている。
「げ」
こんなところでのほほんと殺されるような死に方はヒュステレオとしては全力で遠慮願う末路であるので、慌てて走り出した。
普段激しい運動などしない身なので、少しばかり走っただけで心臓がぎゅうと引き絞られるように痛む。
「逃がすな!」
「殺せ!」
最初に声を上げてくれたおかげで、林の中に走りこむのはヒュステレオの方が早かった。木の陰に隠れるようにして背を預け、ぜいぜいと肩で息をする。まだ息が整わないうちから、顔のすぐそばの木に飛来してきた矢が突き刺さるった。ぞっと背中に冷たい汗が流れて落ちていく。
アグロス領内にある林は
木に登ろうにも、成人男性一人の体重を支えるには心もとない太さの木ばかりだ。
「はっ、は、げほ」
一度足を止めてしまうと、もう動かせない。ばくばくと早鐘を打つ心臓を服の上から握りながら、ヒュステレオは近づいてくる追手を瞳に映した。
「申し訳ないですが、我々にも生活がありますので」
「俺にもあるんだけどな」
ほんの少しの嫌味だが、追手にはあまり響かなかったようだ。ああ、ここまでかな、と目を閉じる。
だが、いつまで経っても衝撃が来ない。その代わりに、ぎゃあという鈍い悲鳴が聞こえた。
「え? なに……」
不思議に思って目を開くと、そこには追手だったものが首からどくどくと血を流して転がっていた。
ぽかんと口を半開きにしていると、小柄な影がもう一人の追手を打倒す。こちらは声もなく、地面に倒れた。
「は……」
まるで何でもないことだったかのように、その人影はくるりと辺りを見回している。人がいないか、あるいは生存者がいないか確認しているのだろうか。
「大丈夫ですか?」
「はあ………」
その人は、こちらを向いて話しかけてきた。あまりにも突然のことで、ヒュステレオは
短い黒髪の少年はこのあたりでは見ない顔だ。顔立ちは整っているが、ひょっとするとまた新しい弟だろうか。父は最近ご執心だった愛人がいたそうで、その女は身籠っているらしい。どれぐらい前から囲っていたかはわからないが、彼ぐらいの子供がいても何ら不思議ではない。
「あ、りが、とう……?」
助けられたのか、それとも別の目的があったのか。分からないが、結果的に助かったのは事実である。ヒュステレオが礼を述べれば、彼はどういたしましてと言って手を差し出してきた。その手を掴み、支えにして立ち上がる。
彼には、どことなく違和感を覚えた。明確に言葉にするのは難しい違和感だったが、ありていに言えば、仮面をかぶっているように感じるのだ。
「そうだ。お礼をしないと……」
「いえ、別にそういうのはいいんですけど」
ぱたぱたと服を叩いてみるが、残念なことに何も持っていなかった。財布ぐらいならば所持しているが、幼児のお小遣いのような金額を渡されても困るだけだろう。
どうしたものかと首を傾げて、ヒュステレオはふと思いついてばきりと近くにあった木の枝を折る。鮮やかな緑色の葉をつけている枝に向かってふぅっと息を吹きかけると、それはたちまち蕾をつけ、さらに開いた。黄色い花に彩られた枝は、葉だけの時よりも美しい。
「得意技なんだ。あげるよ」
母から教えられた、ヒュステレオの数少ない特技の一つだ。今度は少年の方がぽかんとした顔をしている。半ば押し付けるように枝を渡し、彼が受け取ったのを確認してからフードを被る。
「じゃあ、また、会えたら」
今度こそ本当に弟の所にでも行ってみることにしよう。隠れ場所か、あるいは母の居場所がわかればそこへ行って静かに暮らせばいい。
そう思いながら、ヒュステレオは少年に手を振った。
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