14 混乱するアグロス領

 いつまでものんびりとしている場合でもない。

 オルキデに戻るなという命令がなされていても、大鴉として何もしないでいるというわけにはいかない。ならばこちらでやれることをやるべきで、いつまでもベッドの住人になっているわけにもいかなかった。

 ただエクスロスではまだ人前に出ないでくれとハイマに言われているが、それについては納得している。そもそもルシェは敵国の人間であり、おいそれと出ていくわけにいかないのも理解している。

 ただし、それはルシェルリーオとしてでなければ良いのだ。このどうしても目立つ青銀の髪をした女でなければ、問題はない。ということで男装でもすればいいかとハイマに相談したところ、大層渋い顔をされたのは記憶に新しい。

 とりあえずは、影で移動する許可は取り付けた。となればルシェがまずやらなければならないことは、状況の確認だ。


「あら……ルシェルリーオ様」


 ずるりと影から抜け出た先、おっとりとファラーシャが笑っていた。彼女は当然ながら、ルシェが影から姿を突如とつじょ現したところで驚くようなこともない。


健勝けんしょうそうで何よりだ」

「ええ、おかげ様で。良くしていただいておりますから」

「いっそ、ベジュワ侯爵領で義母といるより快適なのではないか?」

「否定はしませんわ。ただ……面倒事もございますが」


 彼女のベジュワ侯爵家での扱いは知っていた。彼女は特に自分自身の情報を隠すようなこともしていないため、調べるのは難しくもなんともない。

 正妻になかなか子供ができなかったがゆえに引き取られた、妾でもない使用人の子供。となると義母からの扱いが良いものであるはずもないだろう。ファラーシャの場合は食事を抜かれることもしょっちゅうだったようである。


「私、ルシェルリーオ様がこのままエクスロスに留まられるのは、反対いたしますわ」


 ファラーシャの口から思いも寄らぬ言葉が飛び出して、ルシェは一度ぽかんと口を開けてしまった。

 オルキデへ戻れない間はともかくとして、ずっとエクスロスに逗留とうりゅうしているのもどうかとは思っている。確かにハイマとの関係性だけを言えば、というものではあるが、それでも彼がルシェをどう扱いたいのかは分からない。

 ただ、そこにどうしてファラーシャが反対するのだろう。


「その理由は?」

「無礼者がおりましたもの。アレが王家の青銀に暴言を吐くだろうに、それを見過ごせとおっしゃられますの?」


 なるほど、とルシェは嘆息たんそくする。

 知略と礼節のバルブールたるファラーシャは、とかくそういった部分にはうるさい。別にそれが悪いことだとは思っていないし、そういうものだとも思っている。

 確かに彼女ならば、王族への暴言を赦しはしないだろう。たとえルシェ自身が自分へのものを気にしないとしても。ルシェとてリヴネリーアの暴言であれば見過ごすことはしないけれど。


「私のこれは、そう大したものではないのだがな」


 そもそも、既に権利も何も返上した身である。

 ただ、王族であるということは付いて回るものなのだ。ルシェの髪の色がこの色である限り、王家の青銀と呼ばれるのも避けられはしない。


「あら、そのような。我らオルキデの臣民にとって、その色がどれほど重いかお分かりでしょうに」

「知っている。私もだ」

「誰もそうは取りませんもの、難儀なんぎなものですわね」


 結局のところ、これがオルキデの人間からルシェへの評価ではある。どれほどルシェが大したものではないと言おうとも、臣民であると言おうとも、否応なく彼らは王家の青銀に期待をかける。

 ルシェが女王になれないことは、誰もが理解している。なぜなら鴉とは、そういうものだからだ。けれど、その権利がないのだとしても、その重さは変わりない。


「さて、それはさておき。アグロスの件だ」

「何かまずいことでも?」

「いや? 状況だけ確認しておこうと思ってな。一応お前が引っ掻き回しただろう。さすがに誰の介入か知られるような手落ちがあるとは思っていないが」


 ファラーシャがアグロスで情報操作をしたことは分かっている。その理由はリノケロスがゲオルゴスを殺してしまったという部分にあるし、それを責めようとも思わない。

 ただ、状況だけは把握しておかなければならない。これで誰かから「オルキデのせいだ」と言われても困るため、誰も気付いていないということを確定させることは必須だ。


「ルシェルリーオ様のお手をわずらわせるほどのことではございませんのよ?」

「それでもお前自身は行けぬだろう? エヴェンを行かせるわけにもいくまい」


 今一番身軽に動けるのは、ルシェである。エヴェンはそもそもファラーシャの護衛の任に就かせているし、彼の立場を考えればずっとバシレイアにいさせるわけにもいかない。

 ルシェも目を覚ました。そもそもファラーシャの周辺は静かになってきてはいる。カリサとリノケロスがいれば、滅多なことも起きはしない。特に、エクスロスにいる間は。

 この屋敷のある場所は攻めにくく、そして守りやすい。そもそもエクスロスという土地全体が、そういう場所になっている。


「ああそうだ、エヴェンは近々一度オルキデへ戻らせるが、構わないか」

「ええ、構いませんわ。どうぞ褒めて差し上げてくださいませ。よく働いてくださいましたから」


 そうしてファラーシャと話しているうちに、がちゃりと音をたてて扉が開いた。何の合図もなくこの部屋の扉を開けられる人間は限られており、やはりその向こうにはそのうちの一人であるリノケロスが立っていた。

 ルシェはリノケロスとまともに対峙たいじするのは腕を落として以来初めてである。リノケロスはそもそもルシェの存在を知っているので身を隠す必要はないが、その視線に晒されるとどうにも落ち着かなくて、ごくりと唾を飲んだ。


「ああ、何だ。出てきていたのか、コローネー

「リノケロス殿」


 ひゅう、と喉が鳴った。

 罪悪感とか、そういうものがあるわけではない。あれは戦争であったのだし、そこで失ったものを終わってからとかく言うようなものではない。

 ましてリノケロスの場合は、部下の責を負った形である。

 と、それが頭では分かっていても、追いついていない部分は確かにある。それから、どうにもリノケロスの雰囲気や視線はルシェを落ち着かなくさせるのだ。


「アグロスの状況確認に、ファラーシャと話をしていただけだ。じきにアグロスへ出る」

「そうか」


 うまく話せていただろうか。声は震えていないだろうか。

 どうにもアスワドと同じような空気というか、重苦しさを感じてしまう。そうするとルシェは息がしづらくて、取り繕ってどうにかするしかない。

 リノケロスは何一つとして気にした様子もなく、ただ己の残った右腕で自分のあごでていた。


「ではな、ファラーシャ。リノケロス殿、ファラーシャをよろしく頼む」


 アグロスへ行ってくると、早々に影へと沈んだ。

 別段リノケロスに何かあるわけではないのだ。ただルシェが、その鋭さに慣れられないだけで。仮面がないとこんなものかと、影の中で己で嘲笑った。

 どうにも、弱くなってしまっていていけない。こんなことではいけない。気を引き締めろと、お前は大鴉だろうと、ずるりと影から出た先でくちびるんだ。

 今一度、大鴉というものを纏い直さねば。そして、仮面を被り直さねば。

 ルシェルリーオでいる時間は、終わりにしなければならない。大鴉カビル・グラーブに戻り、女王のためだけに翔ばなければならないのだから。

 気を引き締めろと己を己で叱責しっせきする。いつまでも甘えているわけにはいかない。だから。

 アヴレークがいないのならば、彼の代わりに、彼のように。


  ※  ※  ※


 短い黒髪が風に揺れた。アグロスに行く前に様子を見に来た紫音しおんが何をしたのか分からないが、ルシェは現在真っ黒な髪の少年の姿になっている。戻ってきたら解いてやるし、ハイマにも言っておくと彼はそんなことを言っていたが、ルシェにはそれがいまいち分からない。

 オルキデには加護があるが、紫音の使うものほど不可解なものでもない。特に彼に何か問うようなこともないのだが、不可思議なものもあるもので、そして便利だなと思うのだ。

 アグロスは確かに混乱している様子ではあった。おそらくアグロス家の誰かの手の者だろう男が誰かを探しているのを見た。ばたばたと走る音もする。

 後継者争いは子供の多い家ではお家芸というものだろう。オルキデの王族も現在まったく笑えない状況下にあるが、ここまで事態が動いてはいない。

 アグロスは既に当主が死んでいる。いつまでも空白のままにしてはおけない。


「双子はゲオルゴス様に能力がないと評されていたらしいな。顔だけはともかく」

「上のお二人に期待をしていたそうだけれど、一番上は顔に難があるとか、そんなことをおっしゃっていたそうよ」


 さざめくような人々の噂話を、ふうんと内心で思いながら聞き流していく。

 実際どうであったとしても、死人に口はない。こうして流布るふするものが真実のようになり、そして人々の間に広がっていく。

 特にオルキデの介入は疑われてはいなさそうだ。ならば良いかと、少し街から離れた方へと足を伸ばした。

 農耕地帯が広がる光景というのは、オルキデではクエルクス地方以外では見られない。おそらくはここが欲しいのだろうなと、ラベトゥル公爵の考えを勝手に推測する。クレプトを奪ったところで、そしてその南にあるエクスロスやデュナミスを奪ったところで、オルキデに旨みはない。欲しいのは、もっと西。アグロスのような場所だろう。

 ばたばたと足音が聞こえてきて、穏やかではない声が聞こえてくる。金属のこすれ合うような音も聞こえてきて、ルシェはそちらへと駆け出した。


「いたぞ! 殺せ!」


 やはり、物騒である。

 その向こうにいる男の顔を認めて、ルシェは腰にあった短剣をさやから引き抜いた。何も親切心から助けようだとか、そんなことを思ったわけではない。

 ただその向こうで刃を向けられている男には、恩を売っておいた方が良さそうだ。そう判断して、ルシェは地面を蹴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る