11 ディアノイアの平穏な日
ディアノイア領は、いくつも風車が並んでいる。麦を
ここには何もない。何をすることもない。ただゆるやかに死んでいくのだろうなと思うと、己を赦せないようにも思う。
ただ一度、見たかっただけなのだ。死ぬまでここにいるつもりはなかったし、早々に出て行く方が良いのだろう。
窓の外の景色は、どこまでも
着替えだけは済ませたものの髪はまだ何もしておらず、身支度は途中だ。そんな状態でぼんやりと窓の外の景色を眺めていると、こつこつと扉を叩く音がした。漣花が部屋の中にいるときに訪ねてくる相手など、一人しかいない。
「漣花、入っても良い?」
「兄様!」
ヒカノスの声に、立ち上がる。
彼に何かを知られたいとは思わなかった。どうしてこの国に来たのかも、これからどうするのかも。
「おはよう、漣花」
「おはようございます、兄様」
毎日のようにヒカノスは漣花のところへ来てくれていた。彼に何も用事がなければバシレイアのことを教わったりとか、一緒に遠乗りをしたりもする。
けれど最近は、そういうわけにはいかなかった。
「ごめんね、まだ支度中だった?」
「もうあと髪を結うだけですから、大丈夫です」
「
見た目は柳のようにしなやかで優し気なのに、ヒカノスの手はごつごつとした武人の手をしている。どこか無骨さのあるその手に
ヒカノスが目元を緩めている。何か面白いことでもあっただろうかと見上げれば、彼は尚も目を細めた。
「兄様?」
「なんでもないよ」
自分は嬉しそうな顔をしていたのかもしれない。自分ではよく分からない。
そもそも漣花は生来そこまで表情がくるくる変わる方ではないはずで、そのために表情をつくり貼り付ける方法を覚えたはずだった。もちろん父や兄弟に対してそれをしたことはないのだから、ヒカノスもそれと同じ立ち位置にあるということなのかもしれない。
ヒカノスは漣花を椅子に座らせて、自分はその後ろに回った。背後で気配が揺れている。これが赤の他人であれば絶対に落ち着かないだろうけれど、慣れ親しんだその気配に不快感はない。
「終わったら兄様の髪を私が結って差し上げます」
「ふふ、そう。じゃあお願いしようかな」
丁寧に丁寧に、大切なものに触るかのような手付きで漣花の真珠色の髪が
耳を掠めた指先が、少しくすぐったかった。くすぐったさに少し
机の上に置いてあった薄紫色の花飾りを手に取って、ヒカノスがそれを漣花の髪に飾る。癖のない真っ直ぐな真珠色の髪がさらりと肩の上に
「そういえば」
右と、左と。ヒカノスの手は花飾りの高さがずれていないかを確かめているようだった。
「サラッサは何度か来ているようだけれど、何もない?」
「……あの方、とは、何も」
彼がヒカノスの友人であることは分かっている。テレイオスに用事があるからと漣花がディアノイアに来る時についてきたサラッサは、あれから何度か漣花に手紙を送ってきていた。
ヒュドールの当主からディアノイアの
そんなサラッサは、数日前からディアノイア家に
「ヒュドールと繋がりを作ることは、ディアノイアにとって益がありますか?」
「どうかな。特にないと思うけど」
今日までにヒカノスがあちらこちらへ連れて行ってくれたが、それを見てもディアノイアは比較的裕福な領土なのだろうと推測できた。食料に困ることはなく、領民たちも穏やかだ。
ヒュドールには富がある。それくらいのことは漣花も分かっている。かつて父が教えてくれたこの国のことは現在と比べれば少し古い情報なのかもしれないが、それでも人口が最も多く栄えているということがせいぜい二十年か三十年そこらで劇的に変化することはない。
「そうですか」
「そんなこと考えなくていいんだよ。嫌なら嫌って言えば良い」
そう言われても、漣花は自分の素直な気持ちを言葉にするのは少し苦手だ。笑顔で包み込んで覆い隠して、そうしてきた
それでもヒカノスには正直なところを述べても良いように思えた。ヒカノスとサラッサは確かに友人同士かもしれないが、だからといって漣花がそれに遠慮をしなければならないこともない。
「……関わりたくは、ないです」
「サラッサは苦手?」
「苦手、ということはないです。特にご本人には興味もないですし」
どうなのだろうと考えてみて、やはり『サラッサ・ヒュドール』という個人には何の興味も持っていない。別に彼のことを知ろうとも思わないし、そのために会話をしようとも思えない。好悪とかそういうものを語る以前の問題と言うべきか、何一つとして漣花の中に彼への感情がないのだ。
無関心、これが一番ふさわしい言葉だろうか。ただあの向けられた感情が気持ちが悪いだけで、サラッサ本人が気持ち悪いわけでもない。
「ヒュドールの当主だよ?」
「特にそういった身分に価値は感じませんので……」
その身分に群がる人間もいるのだろう。けれど漣花は当主だの何だのというものに何ら興味を惹かれない。権力なんてものはろくなものではないし、ふりかざせばあの女と同じことになる。
赤、白。くらくらする。
目を閉じて、その光景を振り払う。ほらできたというヒカノスの言葉と櫛を置く音とで、あの女の顔は霧散して消えた。
「今日もかわいい」
「そ、そうですか……」
お国柄と言うべきなのか、性格なのか、ヒカノスの褒める言葉は真っ直ぐだ。覆い隠すということのない感情はまだ慣れなくて、漣花はつい頬を染めてしまう。
「次は兄さまの番です。座ってください」
「はいはい」
ヒカノスが苦笑をして、立ち位置を変わってくれる。八洲葦原では平均的だった漣花も背の高い人の多いバシレイアでも背の高い部類に入るヒカノスと比べれば当然小さい。けれど座ってもらえば髪を整えるにはちょうどいい高さだ。
それを思うと、漣花の髪を結うのはヒカノスからすれば低くてやり辛かったのではないだろうか。
ヒカノスの
「少しくすぐったいね」
「すぐ終わりますから、我慢してください。私だってくすぐったかったんですから」
他愛もない話をしながら、ヒカノスの髪を梳いていく。どうやって結おうか少し考えて、下の方をゆるく三つ編みにすることに決めた。
ヒカノスの髪を結い終わったところで、扉を叩く音がする。ディアノイア家の使用人というのは決して姿を見せようとはしないので、間違いなく使用人ではない。
「漣花、いるか?」
扉の向こうから、サラッサの声がした。普通客というのはそう屋敷の中を勝手に出歩かないものだと思うのだが、彼は勝手知ったる屋敷内であるのか気にせず歩き回っているようだった。
そうして頻繁に、漣花の部屋へやって来る。特に漣花が教えたわけではないが、予測を立てたのか誰かに聞いたのか、そのどちらかだろう。
「サラッサ、何の用だ」
「ヒカノス……お前もいたのか」
「家族のところにいて、何か悪いか?」
立ち上がったヒカノスが、背中に漣花を庇うようにする。背の高い彼の後ろから顔だけ出して対応するのは失礼なのは分かっていた。
分かってはいたが、そうすることにした。サラッサの視線に、あまり
「何かご用事でしょうか、ヒュドールのご当主様」
「何も用事がないのなら、出かけないかと……」
「おいサラッサ、ハイマを呼んだのはお前だろ?」
二人で出かけることを提案してくるサラッサに、ただ笑みを貼り付けて彼を見る。漣花が返答をするよりも前に、ヒカノスがサラッサの言葉を
ヒカノスの親友が来るという話は聞いている。それがエクスロスの当主であることも。ヒカノスは当主ではないが、友人の二人は当主で多忙らしい。その多忙であるうちの一人はディアノイアに数日
「まだ来るとは限らないじゃないか。それに来たとしても、お前はいるだろ」
「昨日、今日にも着くと触れがあったんだよ。馬鹿言うな」
「私、兄様とご一緒でないのなら、出かけません。領内のことに詳しいわけではありませんし、ヒュドールのご当主様に何かあっても困ります」
いくらディアノイアの治安が良いと言っても、何もないとは言い切れない。そして何かあった場合に責任を負うのは漣花ではなく、テレイオスかあるいはヒカノスになるのだろう。
そう考えれば、到底受けられる提案ではない。
「とりあえずサラッサ、いつまでも女性の部屋にいるものじゃない。出ろ」
「何でお前が決めるんだ」
良いからとヒカノスがサラッサの背中を押して部屋から追いやる。
漣花も部屋から出ることにして、彼らを追って外に出た。サラッサはまだ何か言いたげではあったが、ヒカノスに振り返るのを阻止されていた。
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