8 嫌い合う悪魔と黒豹

 もはや目を閉じていても辿たどり着けそうなくらいには通い慣れた道を、馬で進む。愛馬はカナンの店への道を覚えてしまっているどころか、主人であるエンケパロスが外出するときはカナンの店へ行くものだと思っているようで、時折用事もないのにそちらへ勝手に歩き出す。

 急ぎの用事でなければ、エンケパロスは大抵馬からの厚意をありがたく受け取って、カナンの店へ向かうことにしていた。今日も、そんな日である。

 本当にエンケパロスが用事があったのは別の町、もっと言うのならばエクスーシアだったのだが、愛馬は意気揚々いきようようと、そしてどこか得意げにカナンの店の方向へ歩き始める。そちらからエクスーシアに向かうと遠回りになってしまう上に、特に彼女の店に用事があるわけではなかったのだが、行けば行ったで何かしら買うものはある。

 傷薬や打ち身の薬などは、どれだけ備蓄びちくしておいても困るということはない。


かしこいんだか、どうだか」


 ごくごく親しい者であれば違いが判る程度の微笑みを浮かべて、エンケパロスは愛馬の首筋を軽く叩いた。触れられることがあまり好きではないらしい愛馬が、鬱陶うっとうしそうに鼻を鳴らして首を振る。

 どこぞの誰かの荒れ馬ほどではないにせよ気難しい愛馬に、溜息ためいきいてエンケパロスは馬上から砂まみれの大地を見渡した。

 常からして長身であるから、そもそも視界は割と広い方だ。だが馬の背にいるとより一層遠くまで見渡せる。

 見渡す限り砂が続く大地。一色に染められた砂原は時折吹き付ける風によって視界がけぶる。吹き抜けた砂混じりの風が、エンケパロスの被るフードを揺らしていった。

 クレプトは、何もない土地と言っても過言ではない。川が流れている場所には緑もあるが、それ以外はほとんどが砂地だ。あまり起伏がないという意味では隣接するデュナミスやエクスロスよりは住みよい土地なのかもしれないが、いかんせん身を立てるための産業にとぼしかった。

 これでも隣国オルキデよりはましなのだと、エンケパロスは最近知った。食料に困るほど貧しいわけでも、作物が育たないわけでもない。贅沢ぜいたくを望まなければ暮らしていける土地、というのが一番正しいのだろう。

 ふと、脳裏にカナンの姿が浮かんだ。突然どこからともなくやってきた彼女は、この土地をどう思っているのだろうか。どこまで踏み込んでいいのかわからず、詳しいことは聞いていない。それでも、きっと彼女の生まれはこの土地とはかなり違う風景なのではないかと思っている。


(故郷、か。)


 帰れないのか、帰らないのか。

 帰らないのだとして、もし万が一カナンが帰りたいと、この地を離れたいと望んだとしたら。規則正しく揺れる馬の背で、エンケパロスはぼんやりと考えた。どうせ手綱を握って誘導しなくとも、愛馬は勝手にカナンの店へと連れて行ってくれる。

 好きですと、いつか聞いた独り言のような告白を思い出す。それは確かにカナンからエンケパロスに向けられた恋情だったが、彼女は忘れてほしいと懇願こんがんした。

 口にした本人がそう言うのならばその通りにした方が良いのだろうと、エンケパロスはその後も忘れているようにすることに努めたし、カナンもあれ以来その言葉について何か言いつのることはない。

 それでいいのかと、頭の中で誰かの声がする。忘れてやるのが彼女のためなのだと言い返せば、何とも言えない違和感が胸に渦巻いて酷く不快になった。


(忘れない方が良いのか?)


 内心で、首をひねる。こういう時に一番頼りになるのは最も仲のいい友人であるエイデス・ヒュドールだが、彼は遠い地にいてそうそう顔を合わせることはない。エクスーシアに行くついでに顔を見に寄ろうかと、エンケパロスは不意にひらめいた。

 いつだって歯に衣着せぬ言葉をエンケパロスにぶつけてくれるエイデスであれば、エンケパロスがかかえている違和感も言い当ててくれるだろう。

 気が付けば、カナンの店が視界に入るくらいの場所にいた。愛馬は物思いにふける主人などそっちのけで、軽快に歩みを進めていたらしい。カナンの店は程よく繁盛はんじょうしていて、エンケパロスが訪れた時に客がいることもままある。ずっと伽藍洞がらんどうになっていると流石に生活の心配が出てくるので、ほどほどに客が来るのはよいことだ。

 だが、今日の店先には馬が一頭繋がれていた。それを見て思わず、鼻の頭に皺が寄る。

 馬に乗ってまでこの薬屋を訪れる人は少ない。確かにカナンの腕は確かで薬の質もいいものだが、薬屋自体はカナンの店一軒だけではない。わざわざ馬に乗って遠出をしてまで買いに来るのは、よほどこの店に目当てがあるか、あるいは求めるものがどこにもなく辿たどり着いたか、そのどちらかだ。


(見覚えがある気がするな。)


 いつもなら店の間近に馬を寄せるのだが、何となく離れた場所で手綱たづなを引く。常とは違う場所で止められた愛馬が不思議そうにこちらを見てくるが、何も返事せず馬から降りた。

 手綱たづなを絡めておく柵などはないが、かしこい馬なので勝手にどこぞへ出かけるおそれもない。あるとすれば物取りにかどわかされる可能性だが、この馬がエンケパロス・クレプトの所有物だと知って手を出せるほど豪胆ごうたんな盗賊はこの近辺には残っていないので、問題はないだろう。

 知らず知らず、足音を消して店に近寄る。ごく普通のつくりをしている建物は、窓でも開いていない限りはそう簡単に中の声を聞くことはできない。舌打ちをして、エンケパロスは店の戸を開いた。

 果たして、そこには思った通りの男がいた。


「あ、ご当主、様……」

悪魔イヴリースか」


 もうすでに懐かしい気がする呼び名でエンケパロスを呼ぶのは、記憶が間違っていないか瓜二つの双子などでなければ、オルキデ女王国の将の一人だ。本来他国の人間が領地に入る際には何かと手続きが必要になるが、クレプト領に関してはキャラバンが行き来しているため、一々許可を貰っていては積み荷が傷むと訴えられ例外的に許可がなくとも通行できるよう定められている。

 もっともそれは商売として必要だからであって、この男のような戦争では黒豹メラン・パンテルなどとあだ名され多くの兵士をほふった男を闊歩かっぽさせるものではない。


「何をしている、黒豹メラン・パンテル

「カナンが引っ越し先を探していたのでね、僕の領地を推薦していただけだ」


 ドスの利いた「はあ?」という声が出そうになったのを、視界の端にカナンを見つけることで飲み込む。

 対外的にわかるかどうかは別だが、エンケパロスは今非常に不機嫌な顔をしていることだろう。沸々ふつふつと湧き上がるのは怒りか、憎悪か、それとももっと別の何かなのか。

 また来るなどと当主たるエンケパロスの前で堂々と言い放つこの男が、エンケパロスは嫌いだ。今に限ったことではない。もっとずっと、遠い遠い昔から嫌いだ。


「僕はお前が吐き気がするほど嫌いだよ、エンケパロス・クレプト」

「俺も千年前からお前が嫌いだ」

「それは光栄だ」


 ある意味で気が合う、ということなのだろうか。

 吐き気がするほど、嫌なことだが。


  ※  ※  ※


 アスワドが去った店の中は静かだった。もとよりカナンはそうおしゃべりでもないし、エンケパロスもそれに輪をかけて口数が少ない。二人きりでいる時にはこうして沈黙が訪れることもままあったのだが、今店の中を支配している沈黙はそれとは種類の違うもののようだった。

 どうしようもなく、重くて、暗い。

 カナンが一生懸命話題を探しているようで、彼女は顔色を少し青褪あおざめさせて時折エンケパロスの様子を伺っていた。エンケパロスはと言えば、アスワドが消えた時点で煮えくり返っていたはらわたは静かになっている。

 別の相手に怒りを引きずることがないのは美点だと、いつか誰かが言っていた気がする。相手を思い出すことが何故かできないが、エイデスだったかもしれない。エンケパロス相手にそういうことを言うのは、今は彼ぐらいしか思い当たらなかった。


「引っ越しするのか」


 カナンのためには、もっと何か別の、先ほどのことを気にさせないような話題を振れば良かったのかもしれない。エンケパロスがそう気づいたのは、問いを口に出してしまってからだった。

 永遠にも感じるような沈黙の後で話題にするのが先ほどの空気の蒸し返しとは、なんとも情けない限りだ。


「え、ええ、と……」


 カナンが答えにきゅうして、視線をあちこちに彷徨さまよわせている。いつもまっすぐこちらを見てくる彼女にしては珍しい。


「オルキデに行きたいのか」

「行きたい、という、わけでは……」


 思いのほか責めるような声色になったことに気付く。

 どうにか優しげな声で話そうと試みるが、如何いかんせんそんなものを意識して出したことがないので、上手くできているかは分からない。


「この街を出たくなったなら、俺の家に来たらいい。部屋はたくさんある」


 引っ越しを考えるカナンの意図いとがどこにあるかわからないが、エンケパロスは彼女がすぐ目の届く場所にいないのは落ち着かない。

 強くなり始めた風が、窓ガラスを揺らして音が鳴る。カナンが何か言葉を紡いだが、それはエンケパロスに届くことなく窓の音に溶けて消えていった。

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