7 千年前からお前が嫌いだ
棚のところに置いた小刀に手を伸ばす。カナンにとってそれは、やはり守りになるのかどうかは分からない。いっそこの刀で自分の喉を突こうかと、そんなことを考えて伸ばした手を握って自分のところへ引き戻した。
今日もクレプト領は乾いた風が吹いている。窓の外では砂が渦を巻いて、そして風に
ここへ来て数年になるが、錬金工房の中をカナンは少しずつ片付け始めていた。
どうして言ってしまったのだろうかと、やはりぐるぐると後悔だけが頭の中を渦巻いている。あれから何度かエンケパロスはこの薬屋へ姿を見せているが、彼はいつも通りだ。忘れてくださいと叫んだカナンの言葉の通りにしてくれているのだろうが、カナンはどうにもうまく笑えなかった。
笑えと自分に命じたところで、きっと歪んだ笑顔になる。けれど何事もなかったようにカナンも振る舞わなければならないのも分かっていることだ。
いっそ帰ろうか、とも思う。けれど今更、どんな顔で養父のところへ帰れば良いのか。
「……駄目ね、私」
溜息にも似た言葉は落ちて、消えた。
好きになることすらも
カナンは異国の人間で、最早故郷もない。平民と言えばそうなのかもしれないが、自分の身分がどうなっているのかなど分かるはずもない。
また守り刀に手を伸ばしそうになって、視線を逸らして錬金工房を出た。そこにかかっていた鏡を見てみれば、
からんころんと入口の鐘が鳴り、来客を告げる。笑えと自分を
「いらっしゃいませ」
フードを被った人が、それを外す。見覚えのある亜麻色の髪が見えて、カナンは少し
「
「はい、アスワド様。遠路遥々お越しくださってありがとうございます」
先日錬成薬について聞きたいことがあると姿を見せたアスワドは、その後やって来てカナンの採取に三日間付き合ってくれた。特に何があったわけでもなかったが、彼に多々手伝ってもらったのは事実である。
カナンの安全に気を配り、何かと世話を焼こうとするアスワドは、どこか兄のようでもあった。アスワドのカナンを見る視線というのは女性を見るというよりも、やはり妹を見るようなものに近い気がする。
「お茶をお出ししますから、かけてください」
「すまないな、感謝する」
入口近くの丸いテーブルのところにある椅子に、アスワドが腰かける。遠方から来ているのだからと、疲労回復効果のあるお茶を選んでカップに淹れた。
ことりと置いた白いカップの中、黄色い液体が揺れて波紋を作る。
「何か悩み事でも?」
「いえ……あ、ええと……そう、見えますか」
「見えるな。別に僕は気にしないから、無理に笑わなくて良い。笑いたくない時に笑うのは苦痛だしな」
お前も座れと言われて、アスワドの向かいに腰かける。店主として立っているべきとは思うものの、ここで固辞するというのも失礼になる。だからカナンは、おとなしく彼の言葉に従うことにしていた。
アスワドがカップに口をつける。ごくりと喉が動いて、お茶を呑み込んだのが見て取れた。アスワドの所作というのは乱雑ではなく、けれど優雅とかそういうこともない。ただ、丁寧なのだ。
「それは、ご経験が?」
「無論。色々と面倒な立場なのでね」
思わず笑ってしまった。それは別に無理をして笑ったものでもなく、アスワドはカナンに視線を投げて「それでいい」などと言う。
アスワドはオルキデ女王国で立場のある人間だということは分かっているが、詳しくそこを尋ねてはいない。あまり気にするなどアスワドが言うので、カナンはあえて聞かないことを選択したのだ。
「錬成薬の新薬の情報は、お前のところには入ってくるものか?」
「いえ……それは、一切。私は他の錬金術師と関りがあるわけではありませんので」
「そうか」
カナンは一応錬金術師ではあるが、明確にどこか師匠筋の工房があるとか、そういうことはない。錬金術師同士の繋がりがあるわけでもない上にクレプトに拠点を構えているので、そういった情報は一切入ってくることがない。
それでもカナンが薬屋をできているのは、錬成薬だけを売っているわけではないこと、それから錬成薬の流通がここは少ないことだろう。もし他にも流通があって安く効能の良い錬成薬があるとなれば、カナンの薬はきっと売れなくなる。
「どうも心臓に作用する遅効性の新薬があるらしい」
以前アスワドに問われたことを思い出す。彼は心臓に作用する錬成薬についての情報を求めていた。
けれど彼の探しているそれは、二十年以上前のものであるという。当然、その新薬が当時あったとは思えない。
「お探しのもの……では、ありませんよね」
「それは、な」
カップを机の上にことりと置いて、アスワドは少しばかり考え込むような顔をしていた。それから顔を上げて、じっとカナンの顔を見ている。
どこか鋭くも見える
「錬成薬とは、混ぜ合わせて使うことは可能なのか」
「え、と。聞いたことは、ありませんが。錬成薬は混ぜると何があるか分かりませんし……」
「そうか」
「できないことは、ないとは思います。一応……ですが」
そもそも薬の効能が強いこともあり、錬成薬は単独で使うことが主だ。水と混ぜることはあれども、二種類の錬成薬を混ぜるという使い方は基本的にはしない。というよりも、カナンが知る限りはない。
混ぜられないことはないだろうが、その結果どんな反応が起きてどうなるか、それが分からない。だから無責任なことができないのもまた事実だ。
「となるとやはり、群島かどこかの詳しい人物に聞いてみるしかないか」
再びカップを手に取って、アスワドが茶を呑み込んでいく。そしてテーブルにカップを置いた彼は、ぐるりと店内を見回すようにしてから、少しばかり首を傾げていた。
おそらく彼が前に来た時よりも、置いてある薬の数は減っている。作っていないというわけではなくが、作る手が鈍っているのも事実。だから徐々に、棚には隙間が目立つようになっていた。
「カナン」
「はい」
「店仕舞いでも?」
「あ……い、いえ……これは、その」
アスワドに嘘をついても仕方がないかと、カナンは観念することにした。
すべては秘しておけなかった自分のせいである。零れ落ちてしまった言葉は忘れてくださいと言ったところで消えてしまうわけではなく、エンケパロスが何事もなかったかのように振る舞っていても、そこに横たわったままだ。
「……少し、考えてしまって。どこかへ行ってしまいたいなと、思うことが」
どこか。
けれども、どこへ行くというのだろう。どうせどこへも行けはしないのに。何にもなれはしないのに。いっそこの世から消えてしまえと思えども、未だこの喉を貫くには至らない。
そもそもここでは死ねないのだ。こんなところで、血を撒き散らすわけにもいかない。
「そうか……なら、僕の領地へ来るか?」
「アスワド様の、ですか?」
やはり彼は領地を持っている貴族だった。オルキデについてカナンは詳しいわけではないが、女王を頂点として、その下にいる貴族が各地を治めていることは知っている。
「オルキデ唯一の穀倉地帯が僕の領地でね。兵士も多いから腕のいい薬師が来てくれるのはとても助かる」
ほとんど作物の育たない国にあって、唯一の穀倉地帯。農業をするということは、農薬も必要になる。兵士が多いということは、傷薬や打ち身の薬も必要だ。
クレプトから離れるというのは、一つの手段のように思えた。カナンがここからいなくなれば、エンケパロスもわざわざここへ足を運ぶこともなくなるかもしれない。
「そう、ですね……」
「今すぐとは言わないさ。ただお前が逃げ出したいのなら、僕のところへ来ても良い。選択肢がある方が、気楽だったりするだろう?」
アスワドはきっと、カナンに逃げ場を与えようとしているのだ。逃げても良いと言われたようで、ほんの少しではあるが胸の中が軽くなる気がする。
泣きそうな気持ちになってしまって、くしゃりと笑った。そんな顔をしてしまったせいか、アスワドの手が数回カナンの頭を撫でて離れて行く。
それは本当に、兄が妹の頭を撫でるようなものだった。カナンに兄はいないが、かつてカナンの頭を撫でた養父の友人を思い出す。
あの人はどこで何をしているのだろう。
「ありがとうございます、アスワド様」
「こんなのは礼を言われるようなことではないのだがな」
からんころんと鐘が鳴る。俯いてしまったカナンの頭を、再びアスワドの手が撫でていった。
誰か客が来たのなら、立ち上がらなければならない。けれど撫でられている間動けなかったのは、きっとカナンの弱さなのだ。
「似たような建物が必要ならば、用意はしておこう。お前ならばきっと歓迎される」
「そうですね、でしたら……」
行きますと言いそうになったところで、入口のところを見た。見慣れた人物が、珍しく眉間に皺を寄せてカナンたちの方を見ている。
普段は一切表情を動かさないというのに、それがほんの少しだけ崩れていた。
「あ、ご当主、様……」
「
カナンが立ち上がって近寄るよりも前に、アスワドが立ち上がってカナンの前に立った。すらりと背の高い彼の背中に隠されてしまって、カナンからエンケパロスが見えなくなる。
「何をしている、
「カナンが引っ越し先を探していたのでね、僕の領地を推薦していただけだ」
アスワドの声はどこか刺々しく、カナンに言葉をかけていた時の柔らかさはどこにもない。くるりと振り返ったアスワドはフードを被り直そうとして、けれどその前にカナンに微笑みかけた。
「ではカナン、また来る」
またどうぞとは、言えなかった。その言葉を
「二度と来るな」
「お前が言う権利はないだろう、当主殿? 僕はきちんと許可を得てここにいるのだから」
つかつかと足を進めたアスワドが、カナンとエンケパロスの中間地点付近で足を止める。それから立ち止まってエンケパロスを見た後に、彼は再びカナンの方を振り返った。
その顔はフードの下にあって、影になってしまって表情は判然としない。
「ところでカナン、お前……この男の愛人だったりはしないな?」
「え? え、いえ! そのようなことは、決して!」
とんでもないことを言われ、カナンは即座に否定する。
そもそも、それ以前の問題なのだ。気持ちを通じ合わせるとかそんなことがしたいわけでもないが、それすらもないのに愛人なんてものにはなれないだろう。あるいは利害関係の一致というものもあるかもしれないが、カナンとエンケパロスの間にはそれもない。
「そうか、それならいい」
再び、アスワドが足を進める。彼はエンケパロスの手前で足を止めて、再びエンケパロスの視線がカナンに向くのを
戦場で彼らに何があったのかは知らない。ただ先日顔を合わせた時も、彼らの間には刺々しいものがあった。
「僕はお前が吐き気がするほど嫌いだよ、エンケパロス・クレプト」
吐き捨てるように告げたアスワドの声は、ぞっとするほど冷たかった。けれどエンケパロスは表情を変えることもなく、ただ口を開く。
「俺も千年前からお前が嫌いだ」
「それは光栄だ」
今度こそアスワドは、店から出て行った。カナンはそこに立ち尽くし、言葉一つすら出てこない。どうしたものかと考えても答えが出るはずもなく、ただ店内には沈黙だけが流れていた。
どうしようもなく、息苦しい。別にお喋りな
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