9 エクスロスの愚か者
シハリアからの手紙を鳥が届けに来たのは、その日の昼下がりのことだった。おそらくそうだろうと見当は付けていたが、予想通りと言うべきだろうか。早急にリノケロスに報告すべきだろうかと、手紙をカリサに託して杖を手に部屋を出る。
今日は用事があるとは言っていたが、屋敷の中にはいるはずだ。となるとハイマの執務室か、あるいは訓練場のどちらかだろうか。
かつりと杖をついて歩いていたところで、あまり見たくない顔とすれ違う。見なかった振りをして部屋に戻ろうかと思ったが、残念ながら向こうがファラーシャに気付いてしまった。
「ちょっと、見苦しい
一気にカリサの
つかつかとファラーシャの目の前にやってきた女性は、見た目だけなら凛とした美しさがある。けれどその中身がどうしようもないと言うことを、ファラーシャはエクスロスに嫁いで数日で
「あら、ではどうすれば満足ですの?」
「さっさと国に帰りなさいって言ってるのよ、あんたなんか兄さんに似合わないわ」
彼女はいつでも二言目にはこれである。兄であるリノケロスを敬愛しているのか何なのかは知らないが、ではどのような女ならば似合うと言うのだろう。
そもそもファラーシャとリノケロスの結婚は、一個人の感情でどうにかなるようなものでもない。彼女は果たしてその辺りのことが分かっているのだろうか。
「ではラグディナ様、その代わりに貴女が停戦を継続するための
ラグディナ・エクスロスは当然その名前が示す通りにエクスロス家の一員である。彼女に会う前に知っていたエクスロス家の人間というのはハイマとリノケロスのみであり、きちんと礼節を身に着けているものだとファラーシャは評していた。
だというのに、ラグディナはこれだ。エクスロス家の教育というのはどうなっているのかと、密かに疑念を抱いたものである。
「はあ? 何を言っているのよ」
「まさか、私と旦那様の結婚が何を意味しているのか、それすらもお分かりでないなどと、恥ずかしいことは
ファラーシャとリノケロスの結婚は、そもそも停戦や講和が関わっている。当主であるハイマが異を唱えるのならばともかくとして、戦争にすら一切かかわってもいないラグディナが口を挟める部分など、何一つとしてない。けれども彼女はそれが分かっていないのか、自分が言えばそれが通ると思っているような節もある。
これがもし自分の身内であったのならば、ファラーシャは恥ずかしくて外を歩かせられない。けれど彼女は野放しで、それは諦めであるのか、それともエクスロス家への悪感情を彼女に集めるためなのか、どちらなのだろうか。
「負けた国の人間が何を言っているのよ。頭の悪い女王のせいであんたも大変ね?」
彼女の言葉を常と同じように右から左に聞き流していたものの、聞き流せない発言を投げつけられてしまった。
「……今、何と、
「何度でも言ってあげるわ。頭の悪い女王が戦争を吹っ掛けたんでしょう? こっちにもいい迷惑よ」
珍しく、頭に血がのぼるような気がした。けれどもファラーシャは強固な理性で
オルキデはそもそも負けてはいない。あの戦争に勝ち負けはない。
バシレイアは王国と言えども、領地という区分が強い。けれどもオルキデはそうではなく、オルキデの国民にとっては貴族であろうと平民であろうと、女王という存在は絶対的な部分がある。
「あんたたちのせいで、兄さんの腕が落ちたじゃない! むしろきちんと女王が兄さんに頭を下げて謝罪すべきことよね?」
事もあろうに、ラグディナはリヴネリーアに頭を下げろとまで言い放つ。当然女王の耳に入ることのない言葉ではあるが、聞き捨てならない発言であることは確かだ。
リノケロスが自分の腕が落ちたことについて恨み言を述べるのだとしたら、まだ納得はできる。それは彼自身が腕を落とされた当人であるからだ。けれどラグディナは当人でもなんでもない、完全なる部外者である。
そもそもリノケロスは、戦争の結果失ったものであるとしているのだ。ましてその左腕については、愚かな部下の所業の責任を負ったものだ。そういうものとして惜しむことも恨むこともリノケロスがしていないというのに、ぎゃんぎゃんとラグディナが恨み言を述べるのは間違っている。
「訂正してくださいませ? オルキデの人間の前で我らが太陽を
「何よ! 何が太陽よ、馬鹿じゃないの?」
「訂正なさい、ラグディナ・エクスロス!」
「気安く呼ばないでちょうだい!」
ラグディナが手を振り上げる。がつりと頬に何かがぶつかるような音がして、ぐらりと傾いだファラーシャの体は
何とも情けないが、やり返すつもりもない。
「奥様!」
「何をしている」
カリサがファラーシャを呼ぶのと同時に、ひどく冷たい声が廊下に響いた。かつかつとファラーシャの背後から足音が聞こえて、ラグディナがその顔に喜色を浮かべる。
手から離れてしまった杖が転がり、カリサがそれを拾っている。カリサは少し迷うような様子を見せたが、ファラーシャは持ってきてと
「兄さん、聞いてください。この女……」
「ファル」
ラグディナの訴えなど丸ごと無視をして、リノケロスがファラーシャの前で手を差し伸べる。けれどそこから視線を逸らして、カリサに手伝うように
「何も問題はございません」
リノケロスの手ではなく、カリサの手を借りて立ち上がる。かつりと地面に杖をついて、歪んだりしていないことは確認した。
強い力で張られた頬が、じんじんと痛みを訴えている。とはいえそれくらいの痛みは我慢できるもので、そのままファラーシャはリノケロスへと
「ところで旦那様。ラグディナ様が我らが太陽たる女王陛下を頭が悪いなどと仰いましたが……それがエクスロス家の総意ということでよろしいのですね?」
「は?」
「オルキデにおいて、家門の人間が口にした言葉は一門の総意ですわ。少なくとも我々は、そういう意識で常に言葉を発しておりますもの。そうでないと言ったところで、口から出た言葉は戻りませんわ。どれだけ愚かな発言であったとしても、発したものは発したもの。
口の中に鉄の味が広がっている。そもそもラグディナは兵士に混じって槍を振り回しているような女性なのだ、一般的な女性のそれよりも遥かに威力があって当然だろう。
これまでファラーシャがラグディナに何を言われても放置してきたのは、それが自分に対してのものだったからだ。けれどそれが女王にまで及ぶともなれば話は別だ。
リノケロスがこれでラグディナの肩を持つと言うのならば、それでも良いだろう。そうなればファラーシャの彼への感情はさておいて、ただ
今エクスロスには王族であるルシェもいる。アヴレークが付け加えた条項に従うのならば、ハイマとルシェさえ「
「カリサ、戻りましょう。旦那様にシィからの手紙だけお渡ししておいて。いい加減口の中も痛いわ」
「かしこまりました」
カリサは一礼をして、言われた通りシハリアからの書状をリノケロスに渡している。押し付けられるようにして渡されたリノケロスは受け取り、乱雑にそれを服のところへ突っ込んだ。
「ファル、手当てが必要だろう」
「ええ、ですが旦那様のお手を煩わせるつもりはございませんので、ついて来ていただかなくて結構です。旦那様はそこの愚か者を躾け直してくださいませ? そうでないのならば私、旦那様と口をききたくありません」
伸ばされた手を、払い除ける。
怒っていると言うよりは、呆れ果てているに近い。そして、正して貰わねば困るのだ。
何せエクスロスにはルシェがいる。同じことをラグディナがルシェにしようものなら、こんなファラーシャの怒り程度ではすまない。
そして彼女がこのままエクスロスに名を連ねるのならば、ハイマがルシェを
「カリサ、口の中が痛いから、食事は部屋に運んで貰えるようにお願いしておいてくれる? 旦那様の分はいらないわ。旦那様にはいつも通り大広間で食べていただけば良いから」
「はい、ではそのように」
「それではごきげんよう、旦那様、ラグディナ様。旦那様、くれぐれもお願いいたしますわね? でないと私……シィに、迎えを頼みますわ」
完璧な礼をして見せて、そのまま彼らに背を向けた。背後で苛立ったような舌打ちが聞こえたような気がしたが、きっと気のせいだろう。
リノケロスの感情を利用したような形になってしまったかもしれないが、それでもこれくらいしなければファラーシャが本気だということは伝わらないだろう。そしてリノケロスはおそらく、ファラーシャがそうするとなったら完璧に成し遂げると分かっている。
「ねえカリサ、ルシェルリーオ様に同じことを言うよりは甘くすんだと思わない?」
「それはそうでしょうね。あの方であれば、ご当主様の襟首を掴んで問い詰めるくらいはなさるかと」
「あら、では私も旦那様に同じようにすれば良かったかしら?」
冗談めかして言ってはみたが、できる気がしない。そもそも誰にもそんなことはしたことがないのだ、元々ファラーシャは感情の起伏は激しくない
杖をつきながら戻って来て、その途中で今度は別の青年と行き会った。
「フローガ様?」
「あ、
フローガ・エクスロスはエクスロス家の末弟であり、ハイマの同腹の弟である。エクスロス家にしては珍しく武人ではない彼は、ハイマの執務室からの帰りなのか手に書類を抱えていた。
こちらはファラーシャとは茶飲み友達のようなもので、時折部屋に招いてはカリサのお茶を振る舞っていたりする。
「あまりお気になさらないで。そんなにも見苦しくなっているかしら」
「い、いえ、見苦しくは……いや、その、何か、あの、冷やすもの! そう、冷やすものを、持って来させますから! あと、兄さんにも、ほ、報告……そう、報告を!」
書類を抱えたまま、ばたばたとフローガが走っていく。なんとも下手な走り方ではあるが、彼なりに焦っているのだろう。
そのまま姿が見えなくなったフローガを見送って、ファラーシャはことりと首を傾げた。
頬はじんじんと痛んでいて、熱を持っている気はする。これは
「なんだか大事になってしまったかしら? ご当主様が不快な思いをされないと良いけれど」
ルシェには報告が必要かもしれないと思いつつ、ファラーシャはひっそりと
なんとも面倒な手合いがいたものである。あれでは嫁の貰い手がなくて当然であると、ついそんなことまで思ってしまった。
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