5 黒豹、領地へ戻る
アスワドがシュリシハミン侯爵領からラヴィム侯爵領にある屋敷へと戻ったところで、出迎えたのは
そんな風であっても留守の間きちんとクエルクス地方の管理をしてくれていたのだから、何も言うことはない。アヴレークやシアルゥもそうだが、仕事のできるできないに身なりや性格は関係ないものだとアスワドは思っている。要は、すべきことさえきちんとやってくれればそれで良いのだ。
「ハディド、戻ったぞ」
「あ、おかえり、侯爵閣下。今日の分は
ハディド・ジャマシュートはへらりと笑みを浮かべて、ちゃぷちゃぷと四角い酒瓶を振っている。その瓶の色と形からして、彼に任せている領地のところで作られているアガヴェテキラナだろう。非常に強い酒ではあるが、ハディドはそんなものお構いなしにこの酒を瓶からラッパ飲みにする。
バッルウラ子爵というのが、ハディドの持っている爵位だった。家系図を辿ればアルナムル家に行き着くジャマシュート家は、代々クエルクス地方において領主補佐を務めている。
「ファジュルは?」
戦地へも共に
「ファジュル殿なら、体が
「お前もたまには訓練しておけ」
「え、嫌ですよ。こんなおっさん捕まえて運動させるとか、
おっさんなどと称しているが、彼はまだ三十を少し超えただけだ。既に四十になっているアスワドとは違う。そもそもハディドがおっさんであるのならば、それより年上のアスワドはどうなるのか。
アスワドはすらりと背が高いが、ハディドは低い。ただその体格はがっしりとしていて、どんな強風が吹いても飛んでいきそうにはない。
「お前の方が僕より年下だろうに、何を言っているんだ」
「俺、侯爵みたいに若々しくないんで」
がしがしと掻いた髪の色は、くすんだ黒っぽい赤色だ。どこか血の色じみたその色は、バッルウラ子爵家によくある色である。
ゆらゆらと風もないのに、というより風があっても揺れはしない体格だが、ハディドは左右に揺れている。酔いが回りはしないかと心配になるような動きだが、どうせいつも酔っぱらっているようなものだ。アスワドが気にすることは、彼がそこらで
「酒を飲んで少し休憩したら執務室に戻って来てくれ。話がある」
「えー。嫌ですよ本日の俺の業務は終了しました。家帰って娘と遊ぶんで。父様酒くさいって言われて
さて、彼の娘は何歳だったかと考える。たしか六年ほど前に娘が生まれたという報告を受けたので、今六歳ということか。誕生日だなんだとハディドが騒いでいるので存在を忘れることはないが、年齢まではさすがに明確に覚えてはいない。
彼のこれはいつものことであるので今更何を言うこともないが、ここで帰られるとアスワドとしても非常に困る。
「馬鹿言ってないで働け。まだ太陽も高い」
「やだー」
「駄々を
エヴェンはそもそも駄々を
エクスロスにいるエヴェンはどうしているだろうか。何か問題を起こしているとは思えないが、影からの護衛というのは何かと神経も使う。
「そりゃかわいいかわいいエヴェンちゃんと俺を比べるのが間違いってもんです」
「確かにお前は可愛くないがな」
ハディドも可愛かった頃はあった気がするのだが、もう思い出せなかった。
そもそもアスワドは幼い頃は人質のようにシュティカに
「どうせまた僕は出かける。話は聞いておいた方が良いと思うぞ、ハディド」
「うへ、まーたどっか行くんですか侯爵。なんですとうとう
「馬鹿言うな。有り得ないのはお前も良く知っているだろう」
「嫌だぁ、初恋
どうあっても帰りたいのか、それともアスワドを
そろそろこの無意味な会話を終わらせるかと、アスワドは口角を吊り上げて笑みを浮かべる。別に怒っているとかそういうわけではないが、この会話は不毛だ。
「ハディド?」
「はいはい、分かりましたよ。ちゃんと従いますって酒だけ飲んだら」
ちゃぷちゃぷと酒瓶が音を立てている。ハディドは言ったことをきちんと守る人間であるので、
ただ
「ついでにファジュルも呼んできてくれ」
「嫌です」
「ハディド」
「訓練場は嫌です。だって巻き込まれるじゃないですか!」
「お前がファジュルと手合わせしないのが悪い。じゃあな、また後で。飲みすぎるなよ」
これからしなければならない話は、ファジュルにも聞かせておかなければならない話だ。そもそもアスワドの補佐と副官なのだから、彼らはきちんと情報を共有しておいてもらわなければ困る。
ハディドに背中を向けたところで、そこへ彼の声が追いかけてきた。
「ひどい! 悪魔だ!」
「おい」
悪魔。
それはあの男が戦地で呼ばれていた異名である。アスワドはオルキデ女王国内での異名と何も変わらず黒豹であったが、それはおそらく鎧の色と戦い方からなのだろう。
あの男もまた、そうして悪魔と呼ばれた。顔色一つ変えることなく淡々とオルキデの兵士を
だから、振り返る。
「その呼び方はやめろ、吐き気がする」
「あれ、前はそんなこと言わなかったじゃないですか。さては戦地でなんかありましたね?」
またにやにやと笑っているハディドに詳しく説明してやる気にもなれず、アスワドは肩を
「さあな」
早くしろよと
クエルクス地方の領都であるアグアニネヴェは、他の領地に比べても少し日差しが柔らかい。けれど風は乾いていて、そこはシュリシハミン侯爵領とも変わらなかった。
それから、バシレイアのクレプト領とも。
※ ※ ※
ハディドとファジュルが連れ立って戻って来たのは、アスワドが執務室に腰を落ち着けて、何枚か書類を処理した後だった。ファジュルは涼しそうな顔をしているが、ハディドはどうにも嫌そうな顔である。どうやら彼らの間にひと
来たかと声をかければ、ファジュルは「はい」と短く返答をして、ハディドは「来ましたよ」と不満げな声で返答をした。
「立ち話もなんだ、仕事をするわけでもない。そこに座ってくれ。僕もそちらへ行くから」
客人用のソファを示せば、ふらふらとハディドが先に動いてどかりと腰を下ろす。目の前の四角いテーブルに酒瓶を置いたが、その中身はもうほとんどなかった。
ファジュルはアスワドより先に座ることを
書類を一枚処理し終えて、アスワドもそちらへと足を進める。そうして彼らと同じように、ソファへと腰を下ろした。
「ファジュル、お前と話がしたいとシュリシハミン侯爵が言っていたぞ」
「……そうですか」
冷たい顔立ちをした男は、さらに表情を固くしている。
一生アスワドの右腕で良いなどと彼は言うが、彼の生まれがそれを赦さない部分はある。
「嫌そうだな」
「内容が分かっておりますので」
「何も今すぐという話でもない。受けておいて損はないと思うんだがな」
もう二十年も昔の話だ。
彼がまだ十にならない年であった頃のことであるので、今更と思われても仕方がないとは分かっている。けれどラフザは彼しかいないと知っているし、どちらかが折れない限りは平行線だ。
ならばいっそアスワドを挟むのではなく、ラフザとファジュルで話し合いをした方が余程建設的な話し合いになるのではないだろうか。けれどファジュルはラフザに会うことすらも
「俺はアスワドの部下になると決めていますので。カリサにどうぞ」
「カリサこそ駄目だろう。ファラーシャ・バルブールに付き従ってエクスロスにいるではないか」
「呼び戻せば良いのでは」
「そういうわけにもいかないだろう。今から彼女に新しい侍女をつけろと?」
ファラーシャに付き従うカリサは、ファジュルの実の妹である。ファラーシャの腹心の部下と呼んでも差し支えないカリサを呼び戻して身の振り方を考えさせるなど、ファジュル以上に難しい。
「とりあえず聞いとけばいいんじゃないですかね、ファジュル様も。何を面倒がってるのか」
「お前と一緒にするな、ハディド」
「俺はそんな立場とかないんで。子爵って楽で良いですよ?」
子爵というのは、オルキデ女王国においては公爵、侯爵、伯爵に次ぐ四番目であり、そして最も下位の爵位でもある。そもそも領地を所有しているのはオルキデ女王国では公爵家と侯爵家のみであるので、伯爵家や子爵家はそれぞれ『親』である公爵家か侯爵家に付き従って、与えられた所領を治めるのみである。
公爵家は二つ、侯爵家はかつて七つであったが今は六つ、その八つの家だけがオルキデ女王国の領地を持っている。つまり、公爵と侯爵の二つと、伯爵と子爵の二つの間には、大きな溝が横たわっているとも言えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます