4 シュリシハミン侯爵家にて
シュリシハミン侯爵家は、建物としては確かに大きい。けれどあちこち
砂地ばかりで広いばかりの庭には、小さな机と椅子。その椅子に腰かけている子供たちの前には
目的地であるラフザの執務室へ行くまでに、誰にも会うことはない。使用人の数すら少ない屋敷の中を進み、一階最奥の部屋の扉を叩いた。
「はい」
「……俺だ。入っても?」
「どうぞ。鍵はかかっておりませんので」
中からの返答で、アスファルは遠慮なく扉を開ける。執務室の机のところで書類を見ているラフザと、そしてその手前、客用のソファのところで座っている亜麻色の髪の男が一人。
「ああ、ラヴィム侯爵も既に来ていたのか」
「貴殿が最後ですよ、アスファル殿」
一応はアスファルの意向を汲んで、彼らはアスファルと呼んでくれている。
アスワドの言葉に肩を
「バシレイアから客人が来てるって?」
アスファルの問いかけに、ようやくラフザが顔を上げる。空のように青い瞳はいつもならば理知的な色を
「あの女性のことですか」
今のところアスファルは
これは顔を合わせない方が良さそうだなとアスファルはくつりと笑い、頭の後ろで手を組んだ。
「アグロスの
確かその女性は貴族ではなく、商家の生まれだったと記憶している。ざっと調べたくらいのものだが、バシレイアにおいて自ら貴族の
アスファルがさらっと調べただけでも、相当に愉快な話が引っ張り出されてきている。何としてでも次の当主の母親に納まろうという腹であったのか他の理由かは知らないが、親子を味見とは恐れ入る。
「そうでなかったとしても生まれるまでは保護しておきますよ、それがファラーシャ・バルブールとの約定なので」
アスワドが腕組みしていた腕を解き、
ゆるりとアスファルはその顔を見たが、アスワドの表情は常とさして変わりはない。
「何故ファラーシャ・バルブールはそんなことを? 彼女は自ら他領の問題に首を突っ込むような女性ではなかったと思うが」
「どうもご夫君がアグロスの当主を斬ってしまったようでな」
「何かエクスロスとアグロスの間で
「いいや。彼女曰く、少し個人的な争いごとがございまして、とのことだ。深くは追求しておらぬよ」
アスワドとラフザの話題に上った個人的な争いごとというものが何であるのかは、アスファルでも想像がつく。ゲオルゴスという男は大層な女好きで、顔が良くて胸の大きい女が好みであると
となればファラーシャに何かをしてリノケロスの怒りを買ったという可能性が高いか。一応は婚姻関係にある身の上だ、そこに愛情があろうとなかろうと、エクスロスの人間が妻を
彼らは武人だ。
とはいえ今はゲオルゴスの話である。アスファル自身のことは関係がない。
「へえ。女好きにはある意味、らしい最期では?」
「それでも当主相手です、バシレイアでは重大でしょう」
当主同士でなかったことが幸いなのか、不幸なのか。バシレイアという国の仕組みはオルキデとは違っているし、当然ながら
分かっていることは、ことを重大にしないための
「案外バシレイアの内情に詳しいね、ラヴィム侯爵?」
「少々調べただけです。必要でしたので」
笑みを浮かべてアスワドを見れば、アスワドは平然とアスファルの視線を受け流した。相変わらず食えない男である。
そんなことより、とラフザが話題を変えるように言葉を紡いだ。
「バシレイアに何か調べに行っていたのではなかったか、ラヴィム侯爵」
「はい。錬成薬について、少々」
水を向けられて、アスワドは問いに肯定を返す。
錬成薬と言えばアスファルにとってはなじみ深いものではあるが、とはいえ故郷を離れている身の上だ。それなら実際に錬成薬を扱っている詳しい人間に聞きに行った方が良いと、そう言った覚えもある。
「リドの死に関しては、やはり遅効性の錬成薬は存在がないと。心臓に作用する錬成薬は『
「そりゃそうだな、錬成薬は基本的に遅効性じゃない。いや一応最近遅効性の新薬があったが、そもそもリド・アクウァリオの死は二十年以上前の話だ」
最近できた新薬で、二十年前の殺人ができるはずもない。錬成薬は本来毒ではなく薬として利用するもので、遅効性にするような意味はあまりない。もちろん
今にも止まりそうな心臓に対して、遅効性の薬など意味がない。そもそも錬成薬というのは、一般的な薬と比べれば当然強い。だからこそ毒になることも多いが、それこそ遅効性にはならない。
「新薬ですか?」
「一年前に報告が俺のところに来た。だからリド・アクウァリオを殺すのにはまず使えない。そろそろオルキデにも入ってくるかもしれないな。毒侯爵としては回収しておきたいか、ラヴィム侯爵?」
「それで何かあれば回収しますよ。何事もないのならば放置ですが」
アスワドは相変わらず平素のままの表情で、淡々と言葉を紡いでいった。
ラヴィム侯爵家は
彼らの役割は、オルキデにおいて何らかの問題を引き起こした毒をすべて収集することにある。一番最初に蒐集を始めたのが何代前か知らないが、
「メルの方は……シュリシハミン侯爵、サラーブ侯爵家の件はどうなっている?」
「未だめぼしい情報はないが、その辺りはファラーシャ・バルブールに異母弟を動かして貰っておる。何かしら『狂乱の宴』について掘り起こせれば良いがな」
アスワドの問いにラフザが手に持っていた書類を机に置き、視線をアスファルに注ぐ。それを受けて、なんだとアスファルは彼の顔を真っ直ぐに見た。
「アスファル殿、本当に『妖精の口づけ』はそんな騒ぎを引き起こすものではないのですな?」
「俺はそんなつまらん嘘は
二十年前、ある一つの侯爵家が取り潰しとなった。その理由は領民を集めて『狂乱の宴』と呼ばれる醜悪な集まりを開いていたというもので、それに巻き込まれる形でリヴネリーアの妹であったメルシェケールが命を落としている。
ただこれはラフザに言わせれば、そういうことになっている、というものらしい。
参加者の飲み物に『妖精の口づけ』を混ぜて宴を行っていたとされているが、アスファルに言わせればそれこそが偽りである。誰も彼もが
「アレは作るのが簡単でな、
純度の高い『妖精の口づけ』ならばともかく、そうでなければ当然効果は落ちる。そして材料を間違えた粗悪品は『
「今しばらくお待ちいただけますかな、アスファル殿。その証拠を握っているものを早々に殺されても我々は困りますゆえ」
「分かっている。俺も今すぐあの男を殺そうとは思っていない。そもそも明白に罪を問わずに殺せば、意味のない
恩義も怨嗟も忘れる
けれどそれで無意味な
「貴方が理性的で助かっていますよ」
「それは嫌味か、ラヴィム侯爵」
どうせ最後は、同じことなのだ。ならばきちんとその罪を突き付けて、その口から事実を聞かねばならない。だからこそ、アスファルはアスファルという人間を演じているのだから。
アスワドは「いいえ」と言ったきり、口を閉ざす。窓の外からは子供たちの声が聞こえていて、この屋敷の日常は変わらずに流れていっていた。
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