4 シュリシハミン侯爵家にて

 シュリシハミン侯爵家は、建物としては確かに大きい。けれどあちこちひびは入っているし、修繕しゅうぜんが追いついていない部分というのが見て取れる部分が多々あった。アスファルは注意深く周囲を確認し、誰もいないことを確認してからするりと建物の中に入り込む。

 砂地ばかりで広いばかりの庭には、小さな机と椅子。その椅子に腰かけている子供たちの前には白板はくばんが置かれ、シュリシハミン侯爵家の三男がそこに黒鉛石こくえんせきで文字を書いて教えていた。

 黒鉛石こくえんせきというのが、まともな鉱脈も鉱床もないシュリシハミン侯爵領で採取される鉱石だと聞く。ただせいぜい白い石をなめらかな板にした白板はくばんに文字を書くくらいしか使えないのだと、侯爵であるラフザ・イェシムがなげいていた。

 目的地であるラフザの執務室へ行くまでに、誰にも会うことはない。使用人の数すら少ない屋敷の中を進み、一階最奥の部屋の扉を叩いた。


「はい」

「……俺だ。入っても?」

「どうぞ。鍵はかかっておりませんので」


 中からの返答で、アスファルは遠慮なく扉を開ける。執務室の机のところで書類を見ているラフザと、そしてその手前、客用のソファのところで座っている亜麻色の髪の男が一人。


「ああ、ラヴィム侯爵も既に来ていたのか」

「貴殿が最後ですよ、アスファル殿」


 一応はアスファルの意向を汲んで、彼らはアスファルと呼んでくれている。

 アスワドの言葉に肩をすくめて返答の代わりとして、アスファルもまたアスワドの向かいにあるソファに腰を下ろした。フードを外せば、色褪いろあせた灰色の髪が落ちてくる。

 鬱陶うっとうしいとばかりにその髪を掻き上げてから、アスファルは書類から顔を上げないラフザを見た。


「バシレイアからが来てるって?」


 アスファルの問いかけに、ようやくラフザが顔を上げる。空のように青い瞳はいつもならば理知的な色をたたえているが、今はひどく嫌そうな色をしていた。


「あの女性のことですか」


 今のところアスファルは遭遇そうぐうしていないが、ラフザがそうして嫌そうな顔をするというのは相当なのだろう。

 これは顔を合わせない方が良さそうだなとアスファルはくつりと笑い、頭の後ろで手を組んだ。


「アグロスのめかけだったな。随分とゲオルゴス・アグロスに可愛がられていたらしいが、果たしてその胎の子は本当にゲオルゴスの子なのかね」


 確かその女性は貴族ではなく、商家の生まれだったと記憶している。ざっと調べたくらいのものだが、バシレイアにおいて自ら貴族のめかけに納まろうなどと考えるとなれば、相当したたかな女性だろう。

 アスファルがさらっと調べただけでも、相当に愉快な話が引っ張り出されてきている。何としてでも次の当主の母親に納まろうという腹であったのか他の理由かは知らないが、親子を味見とは恐れ入る。


「そうでなかったとしても生まれるまでは保護しておきますよ、それがファラーシャ・バルブールとの約定なので」


 アスワドが腕組みしていた腕を解き、弁柄べんがら色の瞳をラフザに向ける。つり上がった双眸そうぼうの中にある瞳孔どうこうは少し細長く見えて、まるで肉食の獣のようだ。

 ゆるりとアスファルはその顔を見たが、アスワドの表情は常とさして変わりはない。


「何故ファラーシャ・バルブールはそんなことを? 彼女は自ら他領の問題に首を突っ込むような女性ではなかったと思うが」

「どうもご夫君がアグロスの当主を斬ってしまったようでな」

「何かエクスロスとアグロスの間でいさかいが?」

「いいや。彼女曰く、少し個人的な争いごとがございまして、とのことだ。深くは追求しておらぬよ」


 アスワドとラフザの話題に上ったというものが何であるのかは、アスファルでも想像がつく。ゲオルゴスという男は大層な女好きで、顔が良くて胸の大きい女が好みであると豪語ごうごしていたほどだ。

 となればファラーシャに何かをしてリノケロスの怒りを買ったという可能性が高いか。一応は婚姻関係にある身の上だ、そこに愛情があろうとなかろうと、エクスロスの人間が妻をはずかしめられて黙っているとは思えない。

 彼らは武人だ。矜持きょうじというものがある。多分そういうものを踏みにじられたりするのは大嫌いだろうと予想はできて、だからこそアスファルはあまり積極的に彼らと付き合いたいとは思えない。

 とはいえ今はゲオルゴスの話である。アスファル自身のことは関係がない。


「へえ。女好きにはある意味、らしい最期では?」

「それでも当主相手です、バシレイアでは重大でしょう」


 当主同士でなかったことが幸いなのか、不幸なのか。バシレイアという国の仕組みはオルキデとは違っているし、当然ながら群島諸島連合ぐんとうしょとうれんごうとはもっと違っている。となればアスファルにはそれがどの程度のものになり、領地間でどう扱われるのかは理解が難しい。

 分かっていることは、ことを重大にしないための措置そちの一環として、ファラーシャがゲオルゴスの妾を秘密裏に保護してシュリシハミン侯爵領に送って来たということくらいだ。つまり彼女はアグロスを混乱させるという手段で、エクスロスへの糾弾きゅうだんを避けたというわけだろう。


「案外バシレイアの内情に詳しいね、ラヴィム侯爵?」

「少々調べただけです。必要でしたので」


 笑みを浮かべてアスワドを見れば、アスワドは平然とアスファルの視線を受け流した。相変わらず食えない男である。

 そんなことより、とラフザが話題を変えるように言葉を紡いだ。


「バシレイアに何か調べに行っていたのではなかったか、ラヴィム侯爵」

「はい。錬成薬について、少々」


 水を向けられて、アスワドは問いに肯定を返す。

 錬成薬と言えばアスファルにとってはなじみ深いものではあるが、とはいえ故郷を離れている身の上だ。それなら実際に錬成薬を扱っている詳しい人間に聞きに行った方が良いと、そう言った覚えもある。


「リドの死に関しては、やはり遅効性の錬成薬は存在がないと。心臓に作用する錬成薬は『泥酔でいすい汚泥おでい』と『人魚の悪夢』の二種だそうで。我が家の毒薬庫にも保管はあったが、即効性だ」

「そりゃそうだな、錬成薬は基本的に遅効性じゃない。いや一応最近遅効性の新薬があったが、そもそもリド・アクウァリオの死は二十年以上前の話だ」


 最近できた新薬で、二十年前の殺人ができるはずもない。錬成薬は本来毒ではなく薬として利用するもので、遅効性にするような意味はあまりない。もちろん患者かんじゃの体力であるとか治癒力であるとか、そういったものが関わって来るのならば話は別だが、今回は心臓に作用する薬の話だ。

 今にも止まりそうな心臓に対して、遅効性の薬など意味がない。そもそも錬成薬というのは、一般的な薬と比べれば当然。だからこそ毒になることも多いが、それこそ遅効性にはならない。


「新薬ですか?」

「一年前に報告が俺のところに来た。だからリド・アクウァリオを殺すのにはまず使えない。そろそろオルキデにも入ってくるかもしれないな。毒侯爵としては回収しておきたいか、ラヴィム侯爵?」

「それで何かあれば回収しますよ。何事もないのならば放置ですが」


 アスワドは相変わらず平素のままの表情で、淡々と言葉を紡いでいった。

 ラヴィム侯爵家は蔑称べっしょうで『オルキデの毒薬庫』などと呼ばれることがある。その屋敷の地下には広大な毒薬庫があり、それらを自分自身で実験しているなどという噂まであった。

 彼らの役割は、オルキデにおいて何らかの問題を引き起こした毒をすべて収集することにある。一番最初に蒐集を始めたのが何代前か知らないが、酔狂すいきょうなことをしたものだ。


「メルの方は……シュリシハミン侯爵、サラーブ侯爵家の件はどうなっている?」

「未だめぼしい情報はないが、その辺りはファラーシャ・バルブールに異母弟を動かして貰っておる。何かしら『狂乱の宴』について掘り起こせれば良いがな」


 アスワドの問いにラフザが手に持っていた書類を机に置き、視線をアスファルに注ぐ。それを受けて、なんだとアスファルは彼の顔を真っ直ぐに見た。


「アスファル殿、本当に『妖精の口づけ』はそんな騒ぎを引き起こすものではないのですな?」

「俺はそんなつまらん嘘はかない。あれは所詮しょせん媚薬びやくであって、効能は強いが不特定多数を酩酊めいてい状態にするような薬ではない。濃度を高くしたところで、せいぜい効果時間と強さが変わるだけだ」


 二十年前、ある一つの侯爵家が取り潰しとなった。その理由は領民を集めて『狂乱の宴』と呼ばれる醜悪な集まりを開いていたというもので、それに巻き込まれる形でリヴネリーアの妹であったメルシェケールが命を落としている。

 ただこれはラフザに言わせれば、そういうことになっている、というものらしい。

 参加者の飲み物に『妖精の口づけ』を混ぜて宴を行っていたとされているが、アスファルに言わせればそれこそが偽りである。誰も彼もが酩酊めいてい状態でまともな判断力を失うなど、そんな効果は『妖精の口づけ』にはない。あれは確かに効果は強いが、特に後に残ることもなければ依存性もない、比較的安全な錬成薬だ。


「アレは作るのが簡単でな、まがい物も多い。そもそも集団見合いでしかなかったとなれば、その場で媚薬を仕込む必要もないだろう。となれば粗悪品そあくひんを誰かが混ぜ込んだのだろう」


 純度の高い『妖精の口づけ』ならばともかく、そうでなければ当然効果は落ちる。そして材料を間違えた粗悪品は『まがいの口づけ』と呼ばれ、そちらは依存性がある。


「今しばらくお待ちいただけますかな、アスファル殿。その証拠を握っているものを早々に殺されても我々は困りますゆえ」

「分かっている。俺も今すぐあの男を殺そうとは思っていない。そもそも明白に罪を問わずに殺せば、意味のない殺戮さつりくではないか。そんなことをしようものなら、俺は海神様に顔向けができん」


 恩義も怨嗟も忘れるなかれ。

 けれどそれで無意味な殺戮さつりくをすれば、それはただの殺人に成り下がる。アスファルはそんな風にするつもりはないし、当然彼らが証拠を集めるというのならばそれを待つ。


「貴方が理性的で助かっていますよ」

「それは嫌味か、ラヴィム侯爵」


 どうせ最後は、同じことなのだ。ならばきちんとその罪を突き付けて、その口から事実を聞かねばならない。だからこそ、アスファルはを演じているのだから。

 アスワドは「いいえ」と言ったきり、口を閉ざす。窓の外からは子供たちの声が聞こえていて、この屋敷の日常は変わらずに流れていっていた。

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