2 ラベトゥルの黄金の姫、あるいは
オルキデ女王国は富めども飢える国である。その中にあって、ラベトゥル公爵家というのは王族以上に華やかであると言えるかもしれない。キャラバンの通行量が多く商業の中心地にいち早くなった、というのが歴史を紐解くと見えてくる一つの要因である。そして鉱脈や鉱床も質の良いものが採取できるとあって、ラベトゥル公爵家はガドール公爵家と並んでオルキデ国内で屈指の裕福さを誇った。
裕福であるということは、商業の中心であるということは、ラベトゥルだけが食べることに困らないという意味でもある。痩せて小柄な人間の多いオルキデ女王国にあって、当代のラベトゥル公爵だけはでっぷりと肥えて大きな腹を抱えていた。まるでそれが、
エデル・イェンシュは目の前に座っている少女へとちらりと視線を投げて、よくも父親に似なかったものだと何度目になるか分からない
質素で無骨なガドール公爵家とは異なり、ラベトゥル公爵家は
庭に咲き誇る花はつまり、どこかから清浄な水を引いてきているということである。雨もほとんど降らないオルキデにおいて清浄な水は貴重であり、海水を精製するかキャラバンから購入するしか入手方法はない。だというのに庭の植物を維持できているということは、それだけ金をかけているということでもある。桶いっぱいで平民ひと月の稼ぎと言われるのだから、それがどの程度のものかは推して知るべしというものだ。
「エデル、どうかしたの?」
「何でもないよ、ナフラ」
どうせならその水で食糧を生産すればいいと思ってしまうのは、エデルの
目の前の白いテーブルには、色鮮やかな菓子と紅茶。なんとも優雅な昼下がりである。ぎらつく太陽の下ではあるが、緑のおかげかあつらえられた
エデルの目の前にいる金茶色の髪をした少女は、不機嫌そうな顔をしていた。ふわふわとした髪は肩よりも少し長いだけで、貴族の令嬢としては短い方だろう。藍色の目はいつもの半分くらいしか開かれていないかもしれない。
「何でもないって顔じゃないわ」
白い指先が菓子をひとつ摘まんで、口へと運ぶ。綺麗に整えられた爪は淡いピンク色に色付いていて、エデルのそれとは比べ物にならない。
輝く金の髪、整った容姿、着ているものも
「ねえ、エデル。つまらないのよ。折角来てもらったのだし、何か面白い話をして欲しいわ」
とはいえその呼び名は、決して良い意味で人の口にのぼるものではない。
エデルの顔を見て微笑んだその顔は確かに整っているけれど、その口から出てくる言葉は可愛らしくもなんともない。
「お嬢様、神官様を呼びつけておいてそれは……」
「何よ、うるさいわね。エデルを呼ぶと言って反対しなかったのはお前たちでしょう?」
エデルへの言葉を聞き
それでも使用人がナフラに言葉をかけたのは、エデルが神官という立場であり、決して
けれどそれこそが、この使用人がナフラに付いて日が浅い証拠だ。
「そうだ、ちょうど良いわ。ねえ、貴女。私に意見を言う暇があるのなら、アサールを呼んできてちょうだい。どうせ暇してるでしょう、あの子も」
「お嬢様、それは……」
「あら、私の言うことが聞けないの? お父様は好きにして良いと仰っているもの、何か不服でもある?」
にこやかに、美しく。けれど
ざあっと使用人の顔から血の気が引いた。けれどエデルはそれを取り成す気もなく、目の前にあった紅茶のカップに手を伸ばして一口
他の使用人は遠巻きに見ているだけだ。
「か、かしこまり、ました……」
確かにそれはナフラの言う通りなのである。長くナフラに仕えている使用人は、決してそんな失態は
「良かったの?」
「何が?」
ナフラは何事もなかったかのように、優雅な所作で紅茶を飲んでいる。
数ヶ月前までは髪が長かったはずなのになと、エデルはつい彼女の髪を見てしまった。戦争だ停戦だという中で何かとエデルも多忙で、ラベトゥル公爵家を訪れるのも久しぶりだ。その間に彼女に何があったのか。
「アサール様は今確かにラベトゥル公爵家に
「逗留? 里帰りよ?」
「そうだった、間違えた」
アサール・ネシュルはナフラの実弟である。エデルをこの屋敷に呼んだナフラの手紙にも、アサールが屋敷に帰ってきているからという言葉があった。
ナフラがもう一つ、菓子を摘まんで口に放り込む。といっても乱雑にならないのは、彼女が今まで受けてきた教育の
「第三王女殿下といるんじゃないの?」
「いないわ」
甘い菓子ね、とナフラが感想を述べる。美しく
それでも令嬢らしく、彼女はその菓子を口にする。エデル以外には、その感想を聞かれないようにして。
「クルタラージュ殿下は、
アサールは第三王女であるクルタラージュの伴侶である。結婚したのはクルタラージュが成人した二年前で、その間には一歳になる男児が一人生まれていた。
けれど、オルキデの王族にとって男児は意味がないに等しい。その報告を聞いて一番落胆していたのはラベトゥル公爵ではなく、ナフラの異母姉だったと聞く。
「で、追い払って何の話がしたいの? わがまま娘様?」
「アサールが来てからにしましょう。それからエデル? わざとそれで呼ばないでくれるかしら?」
ナフラがその整った
ラベトゥルの黄金の姫、またの名をわがまま娘。民衆の口にのぼるものと言えば、後者の方が多いかもしれない。
気に入らない使用人は首にする、神官を屋敷に呼びつける、
「また嫌な噂が広まるわね」
「わざと放置しているくせに?」
その噂に対して、ナフラは何もしていない。むしろそれを助長するように振る舞って、動向を
最初にその噂を流したのは、おそらく異母姉なのだ。彼女にとって最も邪魔な存在が、ナフラなのだから。
「あら、どうして?」
「その方が都合が良いんじゃないの、君にとって。たとえば私を呼びつける、とか」
「あら嫌だ、呼びつけてなんていないわよ? お友達によろしければ遊びに来てってお手紙を出しているだけじゃない」
「世間ではラベトゥルのわがまま娘はカムラクァッダの神官を呼びつけていると
その噂が
けれどこうしてエデルがラベトゥルの屋敷を、ひいてはナフラのところを訪れるたびに、呼びつけているという噂が立つ。
「言いたいように言わせておけば良いわ。どうせ
「さっきの使用人は?」
「あれは
見れば遠くで静かに動いている使用人は見慣れたもので、
ナフラの周りにいる使用人の中で、年若いものはほとんど続いていなかった。本来貴族令嬢なら連れている侍女もおらず、未だ彼女のところには
「最近使用人の首を次々に切っているというのはまさか」
エデルの問いに、ナフラは笑みを浮かべていた。
わがまま娘がまた
まったくご苦労な話であるが、ナフラを孤立させたいのかもしれない。
「ええ、買収された使用人には
「至れり尽くせりだね」
「何もなしで放り出すほど、私は横暴ではないのよ」
ラベトゥル公爵家の屋敷で首を切られれば、どんな理由であるにせよ、次の職を探すのは難しい。けれどそこにラベトゥル公爵の名前が入った紹介状があれば話は別だ。
諸事情あって雇い続けられなくなったが、実力はあるので雇って欲しい。つまりはそういうことになる。ましてナフラの噂もあるのだから、あのわがまま娘に首を切られたかと、そんな風に納得をされるのだ。
「それで? アサール様が来る前に話の内容くらい教えてくれないの?」
「駄目よ、アサールだけ仲間外れなんてかわいそうじゃない」
ナフラはまた一つ、菓子を摘まむ。
彼女のために
本当にわがまま娘であったのならば、それらすべてを捨てて踏み付けていることだろう。私はお父様の駒で人形なのよと言った彼女は、自分の立場というものを理解している。
けれど理解した上で、彼女はそれを
「ねえ、エデル」
「何?」
明るい光、色とりどりの花。
ここは本当にオルキデ女王国の中なのかと、いつだってエデルは頭の中がくらくらする心地になる。ここだけが別世界のようで、分からなくなる。
「大好きよ」
照れることもなく、ナフラは
エデルはいつものように結われた薄紅色の髪の片方を手にして、髪の束で顔を少し隠す。まっすぐな藍色の視線を見ることもできずに、ただ視線を泳がせた。
「君はすぐそういうことを言うね」
「だって、好きって言葉はきちんと伝えなければ伝わらないでしょう? 言っておけば良かったと、そんな後悔を私はしたくないの」
悔いていることは、ある。あるのだろうけれど、それが何なのか分からない。
手を伸ばす、空を切る。けれど一体何に手を伸ばして、そして何を守ろうとしたのだろう。そして、その手を取って貰えなかったことを未だに
「そう……私も好きだよ、ナフラ」
「嬉しいわ、ありがとう」
彼女が笑っている。だからきっと、それで良い。
好きという言葉はきちんと伝えなければならないというナフラの言葉が、どうしてだか心に突き刺さった。多分いつかきっとどこかで、それを口にできなかった自分がいるのだ。
そう思うけれど、何もエデルは思い出せなかった。
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