1 彼女が人魚だ

 何をしていたのかと聞かれれば、ぼんやりしていたとテロスは言う他ない。

 エイデスの帰りが思ったよりも遅く退屈していた、というのは言い訳になるだろうか。エクスーシアよりも海が身近なヒュドールの方が人魚に関する本が多いのではないかとあたりをつけたテロスの意図は正しかったのだが、延々と本を読み続けるには書庫は少々暗かった。じんわり痛み始めた目を休ませようと外へ出れば、そこには夕暮れが広がっていたのである。

 思ったよりも、長くあの部屋で過ごしていたらしい。夕日に照らされて赤く輝く海は美しく、テロスは気づけばぼんやりとしながら桟橋さんばしを歩いていた。まるで引き寄せられるように、半ば無意識に足が動く。視線の先は水平線か、あるいは煌めく海の下にあって、足元はおろそかだった。一歩一歩前へと踏み出していたその足が、突如とつじょくうを切る。


(あれ?)


 そう思った瞬間に、テロスの体は空中に放り出されていた。ふわりとした浮遊感は一瞬で、次いで体を襲ったのは水面に叩きつけられる衝撃しょうげきだった。

 バシレイアの人間は泳げる者が少ない。そもそも川はあっても海はヒュドール以外の領地になく、水に触れる機会と言えばせいぜい川で遊んだことがある程度、という人間が圧倒的に多数をめているのだ。テロスもその例にれず、多少もぐることはできても泳ぎは不得手ふえてだった。

 ましてや、突然海の中に投げ出されて冷静に体勢を立て直せるわけもない。がむしゃらに振り回した手が水面を叩くが、そんなものに意味はない。一瞬浮いた頭でなんとか息をしようとするが、口を開けた拍子に海水が流れ込んできて、塩辛い味にむせ返った。結果呼吸をするどころではなくなり、くらりと頭が揺れる。

 もしここでおぼれ死ねば、責任はヒュドール家が取ることになるのだろうか。それとも海に沈んで見つからなければ、ただの失踪しっそう扱いになるか。

 母である皇太后は、きっとテロスを探さないだろう。探してくれるとしたらエイデスだろうかか。口ではぶつくさ言いながら、それでも一生懸命探してくれるのかもしれない。そう思うと、こんな場合だというのに少し笑えてきた。


(暗い、な……。)


 水の中というのは、こんなに暗いものなのか。力が入らなくなってきた体がズブズブと水の奥に沈んでいく。

 ふわりと、首元にかけている小さな布袋が浮かび上がった。


(あ……。)


 人魚。

 果たしてそんなものが存在するのかもわからない。伝説の存在。上半身は人間で、下半身が魚のようになっているという存在。

 見たこともないはずのそのうろこを、なぜかテロスは生まれながらにして持っていた。生まれた時から握りこぶしになっていた右手の中。そこに入っていたうろこはテロスのお守りで、一度紛失してしまった時にはまるで身の一部が切り裂かれるような痛みを覚えた。

 体から離れて行こうとしている布袋に手を伸ばす。ごぼりとあわが口から吐き出された。伸ばした手の向こうに、誰かがいる。


(あれ……? な、んだ……?)


 幻覚か、走馬灯そうまとうか。

 かすむ視界に映る人影に自身の正気を疑ったテロスの体が、ぐいっと引き上げられた。沈んでいた体が一気に浮上し、ぐんぐん海面が近くなってくる。

 何が起こっているのかわからず目を白黒させていたテロスは、気づいた時には砂浜に戻っていた。唖然あぜんとする意識をよそに、体は素直に空気を取り込もうとする。


「げほっ……ごほ、はっ……」


 突然大量の空気を取り込んだ肺がずきずきと痛む。れた体で砂浜に上がったせいで、手足どころか身体中砂まみれだ。

 けれど、それを気にしている余裕もない。

 ぜいぜいと肩で息をしながら、顔を上げて助けてくれたと思しき誰かを探す。その相手はテロスが無事だと見るや、さっさと離れようとしていた。


「あっ、ちょ……」


 思わずテロスは制止しようと手を上げかけて、しかしそれは中途半端なままで止まる。


「ご無事なようで何よりです。エイデス様にはご報告しておきます」


 非常に事務的な口調でそれだけを言った彼女は、夜明け前の海の色の髪を持っていた。ぽたりぽたりと水をしたたらせている姿を見つめているうちに、彼女はさっさと海に飛び込んでしまう。

 驚いて見つめていると、その姿はあっという間に消えてしまった。


「人魚だ……」


 呆然と、テロスはつぶやいた。

 伝承のように魚の尾は持っておらず、頭からつま先までどう見ても人だった。けれどこれほど見事に海に消えていく生き物など、人魚しかあり得ない。

 自分がずぶれであることを忘れてずっと海を見つめ続けるテロスが我に返ったのは、彼の姿が見えず心配したエイデスが探しにきてからだった。


  ※  ※  ※


「馬鹿じゃねーのか!」


 エイデスの私邸に、珍しく怒声がとどろいた。窓をびりびりと震わす声に、テロスはひゃっと首をすくめる。エイデスは普段からそう優しい顔立ちなわけではないため、目尻を釣り上げはっきりと怒りを表に表すとかなりの迫力があった。

 ましてや、座っているテロスに対してエイデスは仁王立ちだ。その長身も相まって、テロスはしょんぼりと肩を落とすことしかできなかった。冷遇れいぐうされていようと、一応王弟という身分のはずなのだが。


「いいか? どこで何してようと勝手にしろ、なんて言える立場じゃないんだ、わかってるな? それがなんだ?家を抜け出して? 海を見に行って? 落ちた? 馬鹿か?」


 返す言葉もなく、テロスはうつむくしかできなかった。

 テロスはその名字であるエクスーシアが示す通り、王家の一人である。母であるはずの皇太后からはまるでいないもののように扱われてはいるが、その存在は確かにここにあり、家系図にも記されている。

 テロスが持つ空色の髪はたとえ顔も名前も知らずとも、家と身分を他人に悟らせるのに十分過ぎるほどなのだ。だからこそ、テロスは城からこっそり抜け出す時には襤褸ぼろ布を頭に被せて髪の色がわからないようにしている。

 海に落ちた時には当然ながら何も被っておらず、彼女にも空色の髪であることをしっかり見られてしまったことだろう。エイデスに報告すると言っていたから、彼女はヒュドール家に仕えている誰かなのかもしれない。

 そこまで考えたテロスは、はっとした。エイデスに頼めばもう一度彼女に会えるのではないか。礼も言えないまま消えてしまったあの人魚に、もう一度。


「エイデス! 頼みがある!」

「は? 今、話聞いてたか?」


 普段はどれほど友人然とした態度をとっていても敬語を忘れないエイデスが、先ほどからすっかりそれを忘れている。それだけ彼の怒りが大きいということなのだが、ある意味で世間ずれしているテロスはさっぱりそのあたりがわからない。

 くどくどと説教をしていたエイデスの言葉をさえぎったテロスは、エイデスから絶対零度の視線を浴びせられることになった。


「何か頼むよりも先に言うことは?」

「すみませんでした……」


 頭を下げて、謝罪の言葉を口にする。

 本来、王家の人間が簡単に頭を下げることは許されない。テロスも冷遇れいぐうされてはいても、教育係にそう言って育てられた。

 だがエイデスと出会い、彼に容赦ようしゃのない拳骨げんこつで教えられた結果、それが通用するのはあの城の中だけなのだと知ったのだ。

 特にエイデスの怒りに触れた時には、素直に謝罪することにしている。彼に嫌われて突き放されて仕舞しまえば、テロスは城の中にも外にも居場所を失ってしまうことになる。

 まるで肺の中の空気を全て吐き出すような重々しさで、エイデスが溜息ためいきいた。


「頼みって、なんですか?」


 口調が変わったことで、テロスはエイデスが先ほどまでの怒りを水に流してくれたことを知る。

 顔を輝かせて、テロスは身を乗り出した。ぐっと距離が縮まり顔が近付くと、エイデスが嫌そうに一歩下がった。


「溺れたことを報告しにきた女性がいたら、教えて欲しいんだ」


 言いながら、首からぶら下がっている布袋を取り出す。まだ乾き切っておらずしっとりと湿しめっていたが、中のうろこは無事だった。少しれたことで、うろこは一層輝きを増している気がする。

 思えば、このうろこの不思議な色はあの時の彼女の髪と同じ色をしている。


「あの子が、探してた人魚なんだ……!」

「大丈夫ですか? 今日はもう休んでは?」


 目を輝かせて言いつのると、エイデスが半目になった。口ばかりは心配そうだが、その表情は明らかに馬鹿にしている。

 むう、とテロスは口を尖らせた。仕方なくうろこを取り出して彼の前に突きつける。


「おんなじ色の髪をしてたんだ! それに海に消えていった! あの子が人魚なんだ!」

「……今日は寝ましょう。また明日話を」


 ぽんと肩を叩くエイデスの顔が、妙に優しげだ。海に落ちたことで見た幻覚だとでも思われているのだろうか。

 なんとかして、彼女をエイデスに探してもらわなければならない。翌朝もう一度同じことを頼めば、なんだかんだと言いながらもエイデスはテロスの頼みを聞いてくれるだろう。

 どうか夢の中で会えますようにと祈りながら、テロスはいつも使っている客間へと引き上げた。

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