4章 後戻りできないところへ

0 アマルティエスの日記

 ハイマの機嫌は、ここのところすこぶる良い。関係する人間の大半はその理由を知らず、ハイマがやたらと機嫌よく過ごしているのを見て、さては戦争の気配でもあるのかと邪推じゃすいする者もいた。

 理由を知っている数少ない人間の一人であるリノケロスは、ハイマに対して何か異世界の生き物でも見るような視線を投げつけてくる。したがって、あからさまに惚気のろけることはできない相手であった。そんなことをしようものなら火山の国にあって凍死しそうになることは、流石に浮かれているハイマでも分かることである。

 リノケロス以外の兄弟には、そもそも理由となっている人物のことを隠しているので論外だ。兄嫁であるファラーシャならば穏やかに相槌あいづちを打ちながら聞いてくれそうではあるが、兄の悋気りんきを買う恐れが大きすぎるのでいただけない。

 したがって、消去法でハイマが語れる相手は一人しか残っていなかった。


「おい聞いてるか紫音しおん

「聞いてる聞いてる」


 ハイマの私室はルシェをかくまって以降、その様子をいつでも気に掛けられるように執務室を兼ねていた。だが、ルシェが目を覚まして体を動かすようになると隣室一部屋では少し狭い。執務室というだけあっていつ何時誰が訪れるかわからないので、ルシェを自由に歩き回らせてやれないこともあり、ハイマは再び執務室を一階の元の場所へと戻していた。

 こうしておけば、ハイマの私室に立ち入る者は誰もいない。いるとすれば掃除をする使用人程度のものだが、彼らは決まった時間にしかやってこないのでルシェが身を隠すことは容易たやすかった。そもそもハイマの部屋を掃除するのは一番年嵩としかさの使用人であり、彼女にはハイマが不在の間はルシェの世話を任せていたので、存在を知っている。


「可愛いんだ」

「それはもう何度も聞いたが……」

「何度でも聞け」


 執務室に紫音をはべらせて、ハイマは手を動かしながら口を動かす。

 口ばかり動かさずに仕事を片付けてろと紫音に怒られるので、ここ数日で編み出した技である。そしてそれにも随分ずいぶんと慣れた。

 初めて披露ひろうした時には紫音に馬鹿を見る目で見られたが、今だに解せない。


「俺が好きかって聞いたらうなずくんだ。恥ずかしそうに、ちょっとうつむきながら」

「そうかよかったな」


 紫音はあえてハイマと視線を合わせないようにしているのか、手元の本に視線を落としている。それでも相槌を返してくれるのだから、本当に甘いものである。

 彼のこういうところに甘さが垣間見えて可愛らしいと思うのだが、口に出すと蹴られるので言わない。当然それは経験済みであった。三回に一回はうっかり口から滑り落ちていくのだから仕方ないだろう。

 本気で鬱陶うっとうしいと思っていたり聞きたくないと思っているのなら、部屋を出て行くか無視して返事をしなければいい。だというのに紫音は口では色々言いながらも何かと相槌を打ってくれるものだから、嬉しくなってハイマも話し続けてしまうのだ。


「好きって言わせたいが、難しいと思うか? オルキデはそういうのは言わない文化か?」

「知らん」

「まあ言わせりゃいいんだが、無理強いはよくねぇだろ?」

「そうだな」


 淡々として完全に棒読みの相槌ではあるが、ないよりはある方がよほど話しやすい。

 紫音の視線は分厚い本から離れようとしなかった。聴きながら読めるのは一種の才能だろう。ハイマが今口を動かしながら手を動かせているのは、机に積み上がっているこれらがさほど解読を必要としない、ただ淡々と当主がサインしていくだけの書類だからだ。リノケロスらが処理し最終決済としてハイマの元へやってきたこの書類たちに、ハイマの意見は必要がない。


「結婚するとなるとどうすんだろな……まあ前例がなくはないが」


 最後の一枚に名前を書いてペンを置き、同じ動作をしすぎて若干震えている手をふらふらと振りながらハイマは立ち上がる。紫音は真剣に本を読み込んでいて、ハイマの動きに気付いていないようだった。

 いや、気付いているのかもしれないが気にしていない。そっと彼の背後に立ち、何を読んでいるのかと肩越しにぐっと顔を近づけて本を覗き込んだ。


「うわっ!」


 突然ハイマの顔が間近に現れたことに紫音が驚き、本を取り落としそうになる。数回お手玉した後、どうにか落下させることなく本を捕まえた紫音が、これみよがしな溜息ためいきく。


「なんだよ。気付いてただろ?」

「近いんだよ!」

「こんなもんだろ。なんだ、意識でもしてんのか」


 男同士だ、少々近づいたところで何がどうなるわけもない。

 だというのに紫音の反応はまるで初心な少女のようで、ハイマには面白くて仕方がなかった。バシレイアにはあまりこうして他人と距離を置きたがる人間はおらず、彼の反応が逐一ちくいち新鮮だ。

 にまにまと笑いながらもう一度顔を近付けると、紫音が無言で分厚い本を振り上げる。的確に角をハイマの方へ向けて殴るそぶりを見せるので、ハイマは両手を顔の横に上げて降参を示した。


「わかった、悪かったよ」

「まったく……子供かお前は」


 憤懣ふんまんやる方ない様子で、浮かせた腰を紫音が再び戻す。書庫で一人読みふけっていた紫音を半ば引きずるようにして話し相手として執務室まで引きずってきたのはハイマだが、大人しくこの場所でまだ本を読もうとしている紫音にほんの少し心配という感情が湧いた。

 ほだされやすすぎやしないだろうか、いつか詐欺さぎにでもあわなければいいが。そんな心配である。


「で? 何読んでんだ」

「古い日記だ」

「へえ」


 表紙を見せられて、ふうんと鼻を鳴らす。古ぼけた表紙だったが、表紙の下部に『アマルティエス・エクスロス』と書かれているのがわかる。


「かなり前の当主だな。よく見つけたもんだ」


 書庫に眠っていたのを紫音が見つけたのだろう。ハイマですら存在を知らなかったというのに、よほど本棚を隅から隅まで漁ったらしい。

 ハイマが感心したように言うと、紫音は少し妙な顔をした。


「いや、まあ、そう、だな……」

「どうした?」


 彼らしくない歯切れの悪さに首を傾げる。紫音は自分自身でも納得がいっていないような顔をしながら、手の中の本を見下ろした。


「本棚から、落ちてきたんだ」

「は?」


 ぱちりとハイマはまばたきする。紫音の言っている意味がよくわからない。


「俺が前を通ったら、これが落ちてきた。落としてしまったのかと思って片付けようとしたんだが、抜け落ちたと思われる場所がなくてな。だからなんとなく気になって、読んでる」

「へえ……まあ、そういうこともある……のか?」


 ハイマは、魔術も神も信じていない。世界のどこかにはあるらしいが、少なくともこのバシレイアにおいてはそういう存在は御伽話おとぎばなしの中だけである。

 だが、世の中には理屈ではどうやっても説明がつかない不可思議なことがあることもまた知っている。それが神の思し召しである、などと思わないだけで。


「で? 面白いか、それ」

「あんまり。ほとんどがこのアマルティエスという人物が恋人の好きなところを語っているだけだな」

「世界一つまらねえ読み物だな」


 ハイマは返事を聞いて、本への興味をなくした。その代わりに、紫音へ伝えておかねばならないことを思い出す。


「そうだ、紫音。俺は近々ディアノイアへ行ってくる。その間アイツのこと頼んだぞ」


 いつどこで誰が聞いているかわからないため、ルシェという名前は極力彼女と二人きりの時以外は口にしないようにしていた。

 ルシェがここにいると疑っている存在もいるようであるし、オルキデには鴉もいる。例え姿が見えなくとも、警戒するに越したことはない。


「わかった」


 なぜ俺がという顔をしながらもうなずく紫音に、ハイマは笑う。

 他国の人間なのだから俺は関係ないと突っぱねることもできるだろうに、一度手を貸したのだから最後まで面倒を見なければなどという責任感からなのだろうか。どうしてだか紫音はハイマの願いに手を貸してくれる。

 勝手に背負い込んで、その重さでいつか動けなくなる、そんな人間のようにハイマは紫音を思っている。


「お前は損な奴だなぁ」


 わしわしとその黒い頭を撫でくりまわす。やめろとわめいているが気にすることもなく、気が済むまで彼の少し長めの髪をかき回した。

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