26 人魚姫と王子様
潮風がみにくい灰色の髪を揺らしていった。色がごっそりと抜け落ちたかのようなまだらの灰色髪に気付かなかったふりをして、セリは廊下を歩いて行く。
ヒュドールの屋敷はいつでも潮のにおいがしているが、故郷のそれとはまた違う、気がした。けれどもう故郷よりもヒュドールにいる時間の方が長くなってしまった。
きっと壊したらセリの給金では支払えないほどの値段なのだろう
「あ、いたいた、ルアル!」
「はい?」
呼ばれて、振り返る。
セリという名前を隠したのは、その名前を呼ばれるに値しなくなったからと思ったからだ。それでもサラッサは遠慮なくセリをセリと呼ぶので、何とも言えない気持ちになる。
「ご当主様宛の手紙があるから、届けてきて」
「……はい、行ってきます」
セリを探しに来たのだろう使用人が調度品を磨くのは引き継いでくれるということだったので、道具一式を彼女に渡して、手紙を受け取ってからセリは執務室へと向かう。
ヒュドール家宛の手紙ならばまた別だが、個人的なものだと思われる手紙を届けるのはセリの役目だ。これは何があるというわけでもなく、ただセリがサラッサの身の回りの世話をする役目を与えられているからだろう。だからセリはサラッサの食べ物の好みも知っているし、遊ぶ女性の好みも察している。そんなものを知ってどうするものでもないが、後片付けをセリがしているという話だ。
海は近くて、遠い。
かつてヒュドールで売られて、サラッサに買われた。現状のセリが
つらつらと考えている間に執務室の扉の前に
扉を開けた先にはやけに機嫌の良いサラッサがいて、あまり良い予感はしない。そもそも急にディアノイアへ行って不在にして、帰って来てからずっとこの調子なのである。
「サラッサ、手紙が届いてる」
「手紙? 誰からだ」
「エクスロスのご当主様」
寄越せと手を出してきたサラッサは、にんまりと笑っている。素直と言うべきか何と言うべきか、サラッサという男は変に素直なところがある。次期当主として厳しく育てられ、けれど唯一の正妻の子供として甘やかされ、そうするとこんな風に人はなるものだろうか。
どうにもそれだけではなく、生来の気質というものもあるのだろうけれど。
腹芸ができないわけではないのに、妙に表情が素直なのだ。そして、根もひねくれていなくて素直だ。セリはもっとエイデスとうまくやればいいのにと思うが、その素直さが邪魔をするらしい。
「……うわ、悪い顔」
セリの感想など丸ごと無視して、手紙を上から下まで読んだサラッサは手紙を畳んで細かく裂いている。燃やさなかったところを見ると、ただの友人同士の手紙ということだろう。
その実際はどうであれ、内容的には。けれどセリは特段それに何を言うこともない。余程のことであれば小言を口にすることはあるが、どうせサラッサは聞き入れない。ただその小言を耳に入れられてもその場でセリを斬ったりしない分、寛容と言えば寛容なのだ。
別に言わなくても良いのかもしれないが、ただ言っておかないといつか大失敗をする気もしている。どこか母親か姉のような目線になっているのかもしれない――サラッサの方が、年上だというのに。
「ディアノイアへ行く。準備しろ。ついて来なくて良い」
「また? 出不精なのに珍しい。運動したいなら馬で行けば?」
もやし、と言いかけたものは呑み込んだ。一応貴族男性としての最低限は習得しているのだし、一般的と言っておく方が良かったか。
身長もそうだが、比較対象が悪いのだ。異母兄のエイデスといい、友人であるハイマやヒカノスといい。彼らはそもそも高身長で、そして体を動かすことを
「馬車の! 準備をしろ!」
「はいはい」
どうせ最後はセリはサラッサの言う通りにするのだ。それが合法であれ、非合法であれ、何を言おうが最後には彼の言う通りにする。
そういうものだ。セリは彼に恩があるのだから。
「セリ」
「何」
「女性は何を貰ったら喜ぶんだ」
「は? それ僕に聞く? 今まで散々遊んでるんだから、サラッサの方が詳しいんじゃないの、そんなの」
一応はセリも女性である。女性ではあるが、サラッサの小間使いというべきか何と言うか形容の難しい使用人をしていて、浮いた話などあるはずもない。
そもそも興味もないと言うのが正しいが、問うにしても人選が間違っている。そういうのは親しい女性に聞くか、あるいは同性の友人に聞くべきだ。
「あ、自分で選んだことないからか」
「うるさい!」
図星をついたせいか、サラッサの機嫌が悪くなった。これでへそを曲げられても困るので、セリはさっさと話題を戻すことにする。
サラッサのこれまでなど、商人に選ばせて贈っていたものがほとんどだろう。とうとう自ら贈りたい相手ができたのかなどと微笑ましく思っていることが知れたら、彼は盛大に
「相手の好みは分かってるの?」
「……知らない。俺が身に着けて欲しいものじゃ駄目なのか」
「駄目に決まってるじゃないか。要らないもの貰ったって
一応サラッサは真面目にセリの話を聞く気があるらしい。
別に仲が良いから聞いているわけではない。セリはサラッサの持ち物であって、ただここにいて女性でちょうど良いから聞いた、それだけだ。
「とりあえず手紙くらいにしとけば。何とも思ってない相手から花とか装飾品贈られたって、重いだけだから。売れるものならともかく、高価すぎたら売れもしないし。相手の身分によるけど」
「む……」
とはいえ今こうして贈り物だなんだで頭を悩ませているうちは良いのだ。問題は、この先である。
いざ手に入らないとなった場合にサラッサが何をするのか、うすら寒い部分はある。彼はそもそもヒュドールという裕福な領地の次期当主として生まれ、望むものはすべて与えられてきた。セリとてサラッサが欲しがるものを手に入れて来た経緯はあるので、そこに関して誰かを責めることはできない。
「誰が相手か知らないけど、節度は持ちなよね」
「お前は本当に口うるさいな」
「とりあえず馬車の準備してくるから。準備終わったら来るし、手紙送るんだったらそれまでに書き上げておいてよ」
言葉を放り投げて、執務室を出る。とにかく何か今考えたとて意味はないのだ。サラッサがどうするかなど知ったことではないし、もしかすると相手が振り向いてくれるかもしれない。振り向いてくれなかったら相手を尊重することを覚えるのかどうか、そこは未知ではあるけれど。
恩義も怨嗟も忘れる
節度を持てと言ったところで、実際何か行動を起こすとなった時、それを命じられるのはセリだろう。そうしてきっと、セリは彼の言葉に従うのだ。
※ ※ ※
馬車の準備を終えてサラッサを送り出し、セリはしばし休息である。
みにくい灰色の髪を隠すようにすっぽりとフードを被り、ルラキス=セイレーンの
途中でエイデスに行き会って、口を開けろと言われた。よくあることなのでおとなしく口を開ければ、ぽいと異国の砂糖菓子を放り込まれた。じゃあなと去って行った彼の背を見送って、セリは砂糖菓子を口の中で転がしながら再び歩く。
海の音も、やはり少し違うのだ。故郷はもっと暑くて、太陽も天高くにあって、海神様のとぐろと呼ばれる渦がいくつか見えていた。
「歌え、歌え」
砂浜を歩きながら、小さく歌う。
この辺りは貝殻を拾う領民もおらず、静まり返っている。そういえばエイデスの別邸はこの辺りだったなと思いながら、足を進めた。
砂浜に、セリの足跡が残っている。けれどそれも、すぐに消えてしまうことだろう。
「干からびた人魚、声を枯らせ」
人魚とは陸に上がれるものか。魚が陸上で生きていけないように、人魚も陸地では生きていけないものか。
王子様と引き離されて流れ着いた、
「愛に満ちて潤うその日まで」
悲恋に涙するか、身勝手に呆れ果てるか。その物語を読んだ人の感想というのは、概ねその二つに分かれている。セリはどちらかといえば呆れ果てた方で、そんなもので呪われるのはたまったものではないと思ったものだ。
ざざ、ざざ、と波の音がする。ふと前を見れば、
エイデスが個人的に呼んだ客だろうか。先ほどそのエイデスはどこかへ向かうところだったようだけれども。
「あ!」
その人は
そして、いつまで経っても浮き上がってこない。
バシレイアの人間にとって、泳ぐという行為は一般的ではないらしい。ヒュドールの人間であればそれなりに泳げる人間もいるが、そうでなければほとんどいないと言っても過言ではないだろう。
迷っている暇はなかった。さすがに目の前で海に落ちて
魚が泳ぐ海の中は長閑であるが、のんびりと眺めている暇はなかった。ただ落ちたはずの人を探して泳げば、きらきらと輝く海中に沈んでいく青年が見えた。
ごぽりと口から泡を吐き出すのが見える。その腕を掴んで、陸へと引き上げるべくセリは泳いだ。
「げほっ……ごほ、はっ……」
砂浜に引き上げれば、濡れたせいで砂まみれになる。
とりあえず息もしているのでそれ以上のことは何もいらないかと、セリはそっと彼から離れることにした。そもそも見えた髪の色が、どうにも面倒そうである。
ごほごほと咳き込んでいる彼の背中を叩くなり
「あっ、ちょっ……」
「ご無事なようで何よりです。エイデス様にはご報告しておきます」
それだけを告げて、海へと再び飛び込んだ。泳げない彼はまさかそれで追って来ることはないだろう。
セリの予想した通り彼が追って来ることはなく、セリは今度は悠々と海の中を泳いでいく。隣に並んだ小さな魚に微笑んで海から上がれば、濡れた髪が顔に張り付いた。
「ああ……乾かさないと。これはまずい」
海水に濡れた髪は、色が変わっている。助けた彼には見られてしまったが、逆にこの髪の色とサラッサのところにいるセリが繋がることはないだろう。
髪が乾いたら、エイデスに報告だけしておかなければならない。何せ彼の髪の色は、エクスーシアの色をしていた。何かあったらヒュドールの責任問題にもなりかねない。
溜息をついて、顔に張り付いていた髪を摘まむ。
ごっそりと色が抜けたまだらの灰色は、海水に濡れて夜明け前の海と同じ色になっていた。
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