24 鴉の所在を問う

 目を覚ました時には、頭がぼんやりとしていた。幼いころに泣き疲れて眠った翌日のような頭の重さに、一瞬目を覚ました時の己の失態をまざまざと突き付けられた。

 上体を起こして、ベッドから降りる。ベッドの上にいると嫌なことを思い出してしまうから、眠るのも何をするのも床の方が良い。けれどぺたりと床に座り込めば立ち上がる気にもなれなくて、ただ何度となくまばたきを繰り返す。

 あの時の自分はどうかしていたのだと、今更になってルシェは溜息ためいきく。いっそ何も覚えていないのならば良かったのかもしれないが、残念ながらルシェはきちんと何をしたのか覚えていた。

 この場にハイマがいないのは幸いと言うべきなのか。ただ彼の姿がないことで、ルシェが視線を彷徨さまよわせたこともまた事実なのである。

 あの後ルシェはハイマに回収されたということになるのだろうか。そうだとすれば、彼には礼を言うべきであって決して泣いてすがるようなものではなかったし、それ以上に斬りかかるような真似をするべきではなかった。

 と、思ったところで過ぎたことだ。してしまったことは事実としてあるのだし、今度こそ愛想あいそを尽かされただろうかと考える。

 嫌われたくは、ないのだ。見放されたくもない。ただそんなことを考えながら周囲を見ていて、ふとベッドサイドにある折り畳まれた紙を見付けた。特に手紙だとかそういうわけでもない、手近なものに走り書きをしたようなものである。

 かさりと、紙が音を立てた。


「……気にすることでは、ないだろうに」


 夜には戻ると書かれたそれに、薄く笑った。

 いまいちどこにいるのかも分からないルシェへ、ハイマからの気遣いか。なんだか特別扱いをされているような気もして、けれどその考えは首を横に振って払いける。

 一体自分は何を考えているのか。ハイマが考えていることはエクスロスの益であって、必要だからしているだけだ。そもそも講和の席であんなことがあったのだから、再度の戦争を回避したいのならばルシェを回収しておくことは必要だったのだろう。そうして何か気にかけているように見えれば、ルシェの口から女王へと再戦を反対するむねを伝えるだろうと、そういう考えなのかもしれない。

 少しまた眠くなってきた気がして、けれどその前に何かを口に入れなければとも思う。携帯食料はどうなっているだろうかとは思うが、どれくらい時間が経過しているかは分からないし、そもそも預けた武器や腰につけていたポーチはどこにいったのだろう。

 床の上で丸くなる。これなら誰かが近付いてきてもすぐに起きられる。かつてのようなことにも、なりはしない。


  ※  ※  ※


 名前を呼ばれた気がして、ゆるりと目を開ける。ふわりと自分の体が浮き上がった気がして、けれどこの人は安心しても良いのだと本能が言っているようでもあって、あたたかな方へと身を寄せる。

 最後にこうして抱き上げられたのはいつだっただろう。立場というものを知ってからは、リヴネリーアにもアヴレークにも甘えられなくなってしまった。


「床だと体が安まらねぇぞ。一人で寝れないのか」

「ん……」


 否定でも肯定でもない言葉を漏らして、小さくなる。

 それくらいのことは分かっているけれど、ルシェは十二歳のあの日からベッドの上で眠れなくなってしまったのだ。結局食事も睡眠もルシェにとっては楽しいようなものではなく、最低限命を繋ぐためのものでしかない。


「まだ寝るか?」

「おき、る……」


 いつまでも眠っているわけにはいかない、それくらいは分かっている。眠り続けることは現実から目を背けることに他ならず、そんなことはルシェには赦されていない。

 起きなければ、目を覚まさなければ。そして、きちんと現実を向き合わなければ。

 アヴレークがいないのなら、ルシェがやらなければならない。他の誰でもなく、ルシェこそが。彼と同じようにできるはずがないのだとしても、この体が動く限りはやらなければならないことがある。

 すべてはオルキデ女王国のために。すべては、リヴネリーアのためだけに。


「おはよう、ルシェ」

「そ、しれ、どの?」

「おう」


 目の前にあった顔に、一気に頭の中が覚醒する。ここなら大丈夫だと親に甘える子供のようなことをした事実に思い当たり、かっと頬が熱くなった。

 何を恥ずかしいことをしているのだろう。まして相手は赤の他人だというのに。ルシェの事情すら何も知らない、異国の人間相手だ。


「あ、す、すまない、すぐに降りる」

「別にこのままで良いぞ?」

「いやそれはその、私が落ち着かない……」


 よくよく自分の状況を考えてみれば、ベッドに腰かけたハイマの膝の上に乗せられた形である。向かい合った形であるので、立っていると大きく見上げなければならない彼の顔がよく見える。

 どうにも落ち着かなくて身動みじろぎするが、ハイマの腕が腰を支えて逃げられそうもなかった。


「まあ、良いじゃねぇか。そんなに嫌か? 嫌なら下ろすが」


 嫌かと言われてしまうと、返答にきゅうする。嫌だと突っぱねるようなものでもなく、けれど恥ずかしいものは恥ずかしい。

 ただ恥ずかしいと正直なところを告げるのもできずに、当たり障りのないところを口にした。


「いや、その……嫌と言うか、申し訳ない、から」

「じゃあ良いだろ、このままでも」


 どうしても降りるとは言えず、ルシェは結局曖昧あいまいうなずいた。ルシェ一人の重さなどハイマは物ともしておらず、その膝が辛そうな様子もない。

 いくら小柄と言っても人ひとりである。だというのに物ともしないのは、体格差か。


「……ここは、エクスロスの屋敷か」

「ああ、俺の家だな」


 窓の外から、硫黄いおうのにおい。

 一度だけ足を踏み入れたことのある場所に、気付けばもう一度おとずれていたらしい。


「そうか、手間をかけさせた。すまない当主殿」


 総司令官殿よりもそちらの方が正しい気がして、呼び方を改める。

 ルシェをここへ連れて来てかくまったのは、間違いなくハイマだろう。ここがエクスロスであるのならば当然この土地は彼の持ち物であり、彼の許可なく勝手はできない。

 誰がどのようにしてくれていたのかは知らないが、すべてはハイマの許可なり指示なりの下だろう。となれば当然恩義を返すべきは目の前にいる彼である。


「女王陛下への繋ぎが必要なら、言ってくれ。陛下も再戦はお望みではないだろうし、ラベトゥルやガドールさえ黙らせられれば、それで……他に何か要求があれば、ある程度なら」

「そんなことのために助けたんじゃねぇよ」

「え、あ……す、すまない」


 途端、空気が一段冷え込んだ気がした。

 こんな時、どうすれば良いのだろう。アヴレークとリヴネリーアはどうしていただろうかと考えて、少し困ったように眉を下げたアヴレークの顔を思い出す。美しい顔が台無しだよなどと言って、機嫌を直して僕の女王陛下と言葉を紡ぎ、それから。

 多分、頭が回っていなかったのだ。そもそも彼らは夫婦であって、ルシェはそうではないということがすこんと頭の中から抜け落ちていた。


「……は?」

「え?」


 軽く触れ合わせただけだ。少しばかりかさついた感触がくちびるに残っている。

 目の前で目を見開いているハイマの顔を見て、ルシェは一度首を傾げる。それからはたと自分のしでかしたことに気が付いた。


「あ、あれ? その、閣下が陛下の機嫌が悪いとこうして……すまない、何か、その、間違えた、だろうか」

「いや、とりあえず後でな、それは。その前にこれなんだが」

「これは……ガドール? 何故貴殿にガドールから手紙が?」


 ハイマがゆるくかぶりを振って、ベッドサイドに置いていた手紙を手に取った。見覚えのある印に首を傾げるが、とんと思い当たらない。

 ラベトゥルならばまだ納得はできる。アヴレークの死がどのように伝わっているかは分からないが、その責を負えと手紙を送ってきてもおかしくはないからだ。けれどそうではなく、ガドール。

 ガドールと聞くだけで、頭のどこかが冷えていく。ルシェの目の前で笑ったあの男は、先日大鴉がルシェであることを知ってしまった。


「エハドアルドとかいう奴が、お前の所在を聞いてきた」

「……っ、そ、そう、か」


 その名前だけで、息が詰まる。

 あの男の執着はいっそおぞましいものであり、歓迎できるはずもない。けれどもこの状況下においてガドールを操ろうと思うのならば、一つの手段でもあるのだ。

 ラベトゥルが未だ再戦を諦めていないのならば、それを止めるために使えるのはガドールだ。同じ権力を持つのだから、それが一番簡単な手段ではある。

 そこにルシェの気持ちなど、挟むようなものではなかった。オルキデのためというのなら、自分の心など殺してしまうのがだ。


「良いぞ、売ってくれても。エハドアルド・ハーフィルは、その、貴殿も前に会ったあの男だが。むしろ売った方が貴殿にとっては良いかもしれない」


 あの時にエハドアルドに顔を見られた。シャロシュラーサが情報を流したというのもあるだろうが、確証を得たのは間違いない。

 そして、未だにルシェを自分のものだと豪語する。確かにオルキデにおける一般的な考えと照らし合わせれば間違っているわけでもない。

 もちろんそれは、その後に誰もいないというのが大前提であるけれど。


「あれは、私の母に執着を、していて。その延長線上で……ああいや、こんな話は別に良いのか。少なくとも私を売れば、ガドールをある程度操作は……でき、る、はずだ」


 そこにルシェの意思など関係はない。ラベトゥルに対抗したいのならば、ガドールを使うのが手っ取り早い。そのガドールを操ろうと思うのならば、老公爵よりもエハドアルドの方が確実だ。

 自分はどんな顔をしていたのか、それは分からない。けれど、目の前のハイマは奇妙な顔をしていた。けれどその表情はすぐに消えて、彼は溜息ためいきいてからルシェの額を軽く弾く。


「俺はお前を売ったりしねぇよ。だから、そんな顔すんな」


 どんな顔だったのだろう、本当に。

 けれどハイマのその言葉に安堵あんどしたのもまた事実で、そんな自分をどうかとも思った。こんな風に思ってしまうなど、やはり鴉失格だ。

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